第四話 那奈ちゃん (壊れかけ)
ベッドの上の山井那奈はドアが開く気配で目が覚めた。
男たちが帰ってきた。
那奈はノソノソと起き上がるとヘッドボードを背にして座り込み汗と血と尿と精液で汚れた薄い毛布で体を覆い直した。手錠で柵状のヘッドボードに繋げられている右腕以外。
「まだ生きてんじゃん」五人のうちの一人、五十嵐が部屋の中を爆音のヘビーメタルで満たしていたスピーカーの電源を切りながら言った。
男たちの姿を見ると山井は体が震えるほど怯えたがそれでも良かったと思えたのは、帰ってきたのが男たちだけだったことだ。別の女性を連れてきて「お前はもう要らないな」と言わない事だった。
どこかで酒を飲んできたのだろう、五人はみな上機嫌のようだった。
「早くエペやろうぜ」まだ生きている那奈に目も向けずに龍崎が言う。
すると佐久間と小野寺が言い合いを始める。
「今度こそドンカツするぜ」
「お前がヘタクソだから勝てねぇんだよ」
「ちげーよアレは絶対チーターだって!頭くんだよ!」
「リアルじゃ負けねーってか?」
「あ?ヤんのか!?」
二人がつまらない罵りあいをしていると五十嵐が口を挟んだ。
「こんなところでケンカすんなよ久々にヤるから早く出てけよ」と言いそこで三人は漸く那奈に目を向けた。
「お前、久々もクソも昨日もヤってただろ」
「昨日はヤッてねえよ」
「そんなきったねえ女と、よくヤれるな」
「くっせえしもう女じゃねえだろソレ」
「お前がすぐションベン飲まそうとするからだろ」
「お前はケツに入れたチンコをナメさせてただろ」
「きったねえなぁ」
三人は下劣な会話と下品な笑い声を響かせながら奥のドアに消えていった。
「おら立てよ」五十嵐の声に那奈が怯えながら見あげる。
「そんなきたねえベッドに寝転がってヤるわけねえだろ、立てよ」
今からこの男にレイプされる。けど5人全員にレイプされるよりか遥かにマシだしレイプされるのは今日が初めてでもない。那奈はここに連れてこられてから数えたくもないほど強姦され、思い出したくもないほどの暴行を受けてきた。そしてそれは全身に無数の傷跡を残し忘れ去ることもできなかった。
那奈は緩慢とした動作でショーツを脱いだ。立ち上がろうとしたが全身痣だらけの上に、関節は軋む音を立てているようで身体中から「動かないで!」と叫び声があがる。しかし立たないと余計に酷いことになるだけだ。那奈はヘッドボードに手をついてノロノロとした動きでなんとか立ち上がり、傷と痣でまだら模様になった全裸で五十嵐に背を向けた。身体が文字通りガタガタと震えるが恐怖の為ではない、ただ寒いだけだ。
歩み寄ってきた五十嵐が那奈に蹴りを放つ。「いきなりきたねぇケツ向けんじゃねえよ」背後から蹴られた那奈はベッドに転がり戻るが那奈の右手首とベッドのヘッドボードを繋いだ手錠が「だめ、逃がさないよ」と那奈の右腕を容赦なく捻りあげる。
イギィッ!!反射的に悲鳴が出る。
「ギィッ!だってよ!女の声じゃねぇだろ」五十嵐がゲラゲラ笑う。
「お前が立つ前にこっちを勃たせんだよ」
手錠に捩じ上げられた右肩が酷く痛み、少しの間だけでもジッとしていたいがそれでも那奈は少しずつ少しずつ動いた。少しでもいいから動き続けることが大事だ。遅せぇと蹴られることもあるが、もし動きを止めたら寝たり気絶したと思われ酷く殴られるし、命令を拒否して動かないと思われたら情け容赦のない蹴りを浴びせられるだろう。少しでも動いて努力を示すことが大事だ。少し動くたびに「止めて!」と悲鳴をあげる右肩を宥め賺しながらなんとか振り向く。
すでに五十嵐がジャージとボクサーパンツをズリ下げて待ち構えていた。
「さみぃから早くしろよ」そう言う五十嵐はTシャツにトレーナーを重ねその上にダウンジャケットまで着ていたが那奈は裸だ。
那奈が五十嵐のペニスを口に咥えると「歯ぁ当てるなよ」と五十嵐が警告を与えた。
するとまだ部屋にいた最後の1人、長谷部が耳障りな甲高い声で「前歯なんか一本も無いっスよ噛みたくても」と言いエッエッエッとこれまたと気に触る笑い声をあげた。
「噛んだら殺すからな」長谷部の余計な言動に五十嵐が反応した。冗談ではなく脅しですらないのは分かっている。このペニスを噛んだりしたら五十嵐は激高し少しの躊躇もなく那奈を気が済むまで殴り蹴り、五十嵐の気が晴れた時には那奈は死んでいるだろう。ほんの少しでも死は遠ざけなくてはならない。
那奈は裂けた唇と不気味に腫れ上がった舌と歯の無くなった歯茎から滲み出る生温かい血を使って五十嵐のペニスをしごく。
寒い。
容赦のないリンチを受け続け、ろくに食事も取らせてもらえていないこの身体では寒さすら容易に那奈の命を削り取っていく。
急ぐ必要がある。五十嵐は幸いにも早漏気味だ。三分もすると酔っているにも係わらず五十嵐のペニスは充分に勃起した。
「いつまでブタみてえに舐めてんだよ」五十嵐はそう言うと那奈の髪を掴み上げる。
「さっさとケツ出せ」
那奈がのそのそと動き痩せ衰えた身体を後ろに向けると五十嵐はすでに手にしていたプラスティックのボトルからセックスローションを那奈の臀部に垂らした。
那奈がビクッと反応すると五十嵐はもう感じてんのか?と言った。
那奈が反応したのは氷のように冷たいローションの感触にだ。
五十嵐は自身のペニスに那奈の臀部に垂らしたローションを塗りたくるとすぐ那奈の性器を押し分けて自身の性器を挿入した。
性行為と言うより那奈の性器を使った五十嵐の自慰行為だった。
五十嵐が腰を打ち付けるたびに那奈が呻き声を漏らす。
「いれたらすぐ喘いでほんとヤリマンだな」五十嵐が嬉しそうに言う。
満身創痍の女性が男性に体当たりをされているようなものだ。五十嵐が乱暴に腰を打ち付けるたびに那奈の身体のどこかしらが悲鳴を上げる。呻き声など抑えようもないだろう。
だが男と言うのは女のこういった反応が好きなものだ。それは愛情からのセックスであっても、暴力からのレイプであっても同じだ。男はみな、怒鳴れば黙り、殴れば泣き、挿れれば喘ぐ女が好きなものだ。
あっ、うっと那奈の小さい呻き声が冷たいコンクリートの小部屋に響き渡る。
五十嵐が那奈の頭を押さえつける様に掴むとものの数分で果てて動きを止める。この男たちの誰一人避妊するような常識も優しさも持ち合わせていないが今の那奈に妊娠できるような体力は残っていないだろう、幸いにも。
「ヤリ過ぎてユルユルだなお前。おら、きれいにしろよ」五十嵐は言ったがセックスを重ねたからと言って女性の膣が広がることなどない。
那奈は再びゆっくりとした動きで振り返り、ローションと精液がまとわりつき五分と持たずに果てたペニスを口に含んだ。ローションが口の中で粘つく。
「ちゃんときれいに舐めろよ、腹減ってんだろ」
ローションと精液で汚れたペニスを血と唾液まみれにしただけだが五十嵐は満足そうにボクサーパンツとジャージを引き上げた。
那奈が顔をあげると五十嵐に見下ろされていたがその表情は僅かに、本当に僅かな憐憫の情を含んでいた、気がした。
「ごはんは」那奈が力なく小さな声で聞いた。
五十嵐はチッと舌打ちした。
「ああ、忘れた。また今度な」
五十嵐は軽く言ったが那奈にとっては「ああそうですか分かりました」では済まない事態だ。もう二日の間、ペニス以外のモノを口に入れていない。
「そんな、もう二日も貰ってない。買って来てくれるって言った・・」
那奈が言い終わる前に五十嵐の顔から微かな憐憫の情が途端に消え失せ、怒りが眉間にしわを寄せ右腕が那奈の頬を殴りつけた。
「あぁん!?俺に今から買って来いって言うのか?いいだろ言ってみろよ。おお、買って来てやるぜ」
左の頬を殴りつけられベッドの上に倒れた那奈は両手を広げ顔を振り謝罪する。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさ・・・」
「買って来いって言ってみろよ!メシ食いたいんだろ!?」
「ごめんなさいごめんなさい・・・」那奈はこれ以上要求しても無駄だと瞬時に悟っている。
「腹ぁ減ってんだろ!?買って来いって言ってみろってぇ!!」
「ごめんなさい大丈夫ですごめんなさいごめん・・・」那奈はひたすら謝罪を繰り返す。今できる最適な行動はそれだけだ。
「調子に乗るからこうなるんだよバカ女が!」
「ごめんなさいごめんなさい」
「ブタ女!」那奈に向けて唾を吐き舌打ちしてから奥のドアに向かった五十嵐と那奈が同時に気が付く。
長谷部がまだいる。
「お前もヤルのか?スピーカー点け忘れんなよ」五十嵐が言い長谷部がエッエッと笑い「はいっス」と答えると五十嵐は奥のドアに向かった。ドアノブに手をかけると思う出したかのように振り返る。
「あぁ、さすがにクセエからヤったあと少しは掃除しとけよ」五十嵐は長谷部と那奈を二月の凍るような冷気を染み出し続けるコンクリートの小部屋に残しドアの向こうに消えた。
那奈は恐れた。五人の中でも毛色が異なり、五人の中で一番小柄なこの長谷部と言う男が恐ろしい。
ここに拉致された当初は五人中で一番優れた体格で暴力そのものを純粋に楽しむことができるリーダー格の龍崎と、一切の躊躇もなく容赦のない暴力を振るうことができる佐久間と小野寺が恐ろしかった。まだ那奈が強気な態度を取れていた拉致された直後に龍崎が「空手やってんだって?回し受け見せてくれよ」と鉄パイプを振り回し那奈の右腕の尺骨を折った時は五十嵐もその行為に僅かな嫌悪感や微かな罪悪感を抱いていたようだが、三人が振るう凄惨な暴力を見ているうちに自身がそれを振るうことにすぐに慣れていった。
しかし長谷部と言う男は暴力的な五人の中では異色の男だ。龍崎ら四人のいじめっ子に囲まれた一人のいじめられっ子と言った感じだった。実際、長谷部は四人の使いっ走りのような扱いを受けている。長谷部以外の四人は龍崎を筆頭として佐久間に小野寺が続き、その下に五十嵐といった感じだったがそれでも仲間同士と言った感じだった。しかし長谷部だけは他の四人に対し常にさん付けの上、語尾に「っス」とつける。
那奈が長谷部を恐れるのは予測がつかないというところだ。「恐怖」とは言ってみれば未知への恐れだ。人は未知と言うものを恐れるものだ。人が暗闇を恐れるのはそこに何がいるのか、そこから何が起こるのか分からないからだ。
龍崎を筆頭にする四人の暴力に怯えることを抑えることは出来ないが予測をすることは出来る。
四人は狩りそのものを楽しむが長谷部は狩られた獲物が苦しむさまを楽しむ。
四人は自身の暴力を楽しむが長谷部は那奈の恐怖を楽しむ。
四人は暴力を振るうことで自らの強さを楽しむが長谷部は相手の弱さを楽しむために暴力を振るう。
長谷部がエッエッエッと耳障りな引き笑い声を立てながら那奈に近寄ってくる。長谷部は那奈が先ほどの怯えとは違う恐れを抱いていることを感じ取りすでに楽しそうだ。自分が那奈に対しあの四人が与える怯えとは違い、恐怖を与えていることを感じ取り気分がいいのだろう。
長谷部が那奈の前に立つ。那奈の身体は震え続けていた。それは寒さのせいだけではなくなっている。
長谷部がダウンジャケットのポケットからコンビニのおにぎりと温かそうなオレンジ色のキャップの付いたペットボトルを取り出した。
「食べたい?」長谷部は微笑みながら差しだした。
那奈は首を横に振りたかったが二日と言う時間を重ねた餓えが那奈の首を微かに頷かせる。
「五十嵐なんかに頼んでも買って来てくれるわけないじゃん」長谷部は普段は媚びるような声で五十嵐さんと呼んでいるが今ここには長谷部と那奈しかいない。
「お腹空いてるでしょ?ほら」長谷部はそう言うと那奈にとって二日ぶりの食べ物をベッドの脇に放り投げた。
那奈が床に抛られた食べ物と長谷部を交互に見る。この男に優しさなど欠片もないことは分かっている。うかつに手を伸ばすのは危険だった。
「食べないの?まあタダじゃね。分かってるでしょ」そう言いながら長谷部はズボンを下ろした。
那奈は目の前に出された五十嵐よりさらに小さい長谷部のペニスと顔を交互に見た。
「ほら、早くしてよ、寒いからね」長谷部が粗末なペニスを那奈の顔に擦り付けた。
これくらいの事で済むならと祈りながら那奈は長谷部のペニスを咥えようとするが長谷部がそれを止める。
「外してあげるよ」そう言って長谷部はポケットから簡素なカギを取り出して那奈の手錠を外した。
その意図が分からない那奈は再び長谷部を見上げた。
「ほら、両手を使ってね」
長谷部はそう言ったがそのペニスは小さく手と口の両方を使えるほどの大きさはなかった。
「両手を出して」長谷部が言う。
那奈が恐る恐る両手を差し出すと長谷部も両手を伸ばし那奈の両手の二本の中指を握って告げた。
「急いでね」
那奈はその意図を瞬時に悟り長谷部のペニスを咥えた。傷口が開いて血の流れる出る唇とボロボロの舌で必死に長谷部のペニスをしごく。
口に咥えるという点では大きすぎるペニスは苦痛でしかないが小さすぎるペニスに刺激を与えるというのもまた困難だった。長谷部が那奈の両中指を徐々に捩じ上げていく。
那奈はその痛みに耐えて必死にペニスに刺激を与えていく。数分も持たずに長谷部は苦痛に満たされている那奈の口中に快楽を放った。そして同時に反り返るように両手をひねり上げ那奈の両中指を折った。
那奈が獣のような叫び声をあげる。
「ほら、残っているよ、吸ってよ」長谷部は那奈の両中指を離しペニスを綺麗にしろと言ったが那奈は激痛でそれどころではない。両手の中指が手の甲に付きそうになっていた。
長谷部は苦痛に狂い耐える那奈を見下ろし仕方ないなあと言うと自分で自身のペニスを弄り始めた。
ベッドについた両手の、見たこともない方向に曲がった両中指を見つめる那奈の頭に長谷場は放尿し始めた。
だが那奈は両手に走る激痛でそれどころではない。尿をかけられても反応のない那奈に面白みを感じなかったのか長谷部は尿を放つペニスを床に放られたおにぎりに向けた。那奈がそれにも反応ができないでいると「せっかくあげたのになあ」長谷部はそう言って那奈に背を向けて入ってきたドアに向かった。
那奈は何も考えられない。脳には激痛が濁流の如く流れ込みパニックを起こしていた。
ドアから出てきた長谷部は先にトリガーの付いた延長ホースを持っていた。しかし那奈にそれに反応する余裕はなかった。
「ほら、掃除するからさ、ベッドが濡れちゃうよ」長谷場は言うが痛みが少しも収まらずベッドの上で呻き続ける那奈には反応すらできない。
堪り兼ねた長谷部は那奈の髪を掴みベッドから引きずり出してから数歩引いてホースのトリガーを引き那奈に水をかけた。二月の冷水が全裸の那奈を襲った。那奈は反射的に凍り付くような冷水を両手で防ごうとするがまるで杖で突くかのように勢いよく吹き出る冷水が折れた中指に当たった瞬間に更なる激痛に襲われた。
那奈が両中指の激痛と凍るような冷水を避けようとする姿を長谷部は満足そうに眺めていた。放精するまでより長い時間、おそらくは五分くらいだっただろうが漸く長谷部は放水を止めた。
「きれいになったでしょ」そう言った長谷部はバケツと大きな袋を持ってきて那奈の傍らに置いた。
長谷部がバケツに向けて再び放水したがその音に那奈はビクッと怯えた。それに長谷部は満足したようでバケツを冷水で満たすと袋を那奈に投げつけた。そして那奈をベッドに引きずり戻し再びベッドのヘッドボードと手首を手錠を繋ぐと「きれいに拭いておいてね」そう言って長谷部はスピーカーに向かった。
「ダメ!止めて!それだけはもう止めて!」そう叫ぶ那奈を見て長谷部は心底嬉しそうに粘つくような笑顔でスピーカーの電源を入れた。部屋の中を再びヘビーメタルの爆音が満たし、長谷部はホースを元に戻してから四人が出て行ったドアから去って行った。
寒さは那奈の命を削っていくがこの爆音は那奈の精神を削っていく。精神を削られると死にたがりがやってくる。死にたがりは狡猾に那奈を蝕もうとするが幸いにも今は両中指の激痛で満たされている那奈の脳にスピーカーからの爆音はあまり届かない。
ベッドについた左手の中指を見ると激痛が更に増した気がした。
ゆっくりと手を返すとその手のひらには奇妙なふくらみが増えていた。
指が折れただけ。脱臼しただけで骨が折れたわけじゃない。
戻さなくちゃ。
那奈は思ったが死にたがりは拒絶する。
無理だよ。
那奈は反り返る左手の中指をしばし見つめベッドのヘッドボードの柵の間に差し入れた。
逆に曲がっている中指をヘッドボードの柵に引っ掛けて腕を引けば元に戻るはずだ。
しかし腕を引いた瞬間に折られた時と同じ激痛が那奈を襲うだろう。その痛みを今からもう一度、しかも自分で自分に与えるのだ。長谷部への懇願は無駄だが自分自身には?そう思うと腕を引くことができない。
止めようよ。
靭帯がひどく損傷しているはずで元通りにはならないだろう。でも直さなくちゃ、このままではダメなの。
冷やしてじっとしていた方がいいよ。無理だよ。
確かに冷やしておくのが最善。だけどそれは病院に行けるなら。今はやらなくちゃダメなの。
小学生の頃から空手を始め高校、大学と都合10年間、空手を夏奈兄ちゃんとの唯一のつながりと思って続けてきた那奈は突き指程度なら思い出す気も起きないほど、指の脱臼も何度か経験してきたし、ちゃんとした処置を怠ったために指が歪んだままになってしまった人も多く見てきた。
今はこれが最善の処置なの。やらなくちゃならないの。
「助けて、夏奈兄ちゃん」
那奈は兄の名を呟いて腕を引いた。
激痛が指で爆発し脳内で炸裂した。那奈は絶叫したが幸いにもヘビーメタルの爆音にかき消された。
鼻水が垂れ、目からは涙が落ち、口からはよだれと血と叫び声が垂れ流れた。
那奈は激しくせき込みながらゆっくりと目を開け左手を見つめた。
戻ってはいなかった。
手のひらには相変わらず外れた骨のふくらみがあり、中指は手の甲に対して垂直に垂れ下がっていた。那奈は呆然としてそれを眺めた。全くの無駄だった。余計な痛みを味わっただけ。
無理!もうできない!
那奈の心も折れた。
しかし、この冷たい部屋で尊厳、純潔、平穏と言ったありとあらゆるものを奪われ続け、屈辱と苦痛と汚辱を与えられ続けた那奈にも一つだけ勝ち得たものがあった。
それは思考を痛みから分け隔てるという事だ。
痛みから離れ苦痛を客観的に見ることができるようになった。痛みを排除できるわけではない。痛みはある、苦痛もももちろんある。しかし、頭の中を苦痛で満たしている自分を外から眺めることで苦痛に邪魔されず客観的な視点で判断できるようになった。
那奈は苦しみに折れて死にたがりとなった那奈を見つめながら今すべきことを判断できる。
ダメ!直さなくちゃ。
もう無理、あんなに痛かったのに!
那奈は心の奥底から次々に沸き上がってくる諦めたい気持ちを抑えて左手の中指を手錠に繋がれた右手で強く握った。
右手の中指も曲がっている。親指と人差し指で強く握り、小指を薬指で強く挟んだ。それだけでも痛みに襲われた。更にたった今ムダに味わった痛みと長谷部に折られたときの峻烈な痛みが思い出された。
でも。
やるの。
那奈は強く歯を食いしばった。野獣のように息が荒れ口角から血とよだれが垂れた。痛みを恐れて指を掴む力を緩めてはダメ。
でも、腕を引く力を緩めてやっぱりダメだったと思いたい。もう諦めてじっとしていたい。でも。
那奈は意を決して左腕を引いた。
あまりにも強く握りあまりにも強く引いたために指が千切れ取れたと思えるくらいの激痛に襲われた。頭の中が激痛で満たされ苦痛で繰り返し焼かれるようだった。
強く食いしばった口から溢れ出る唸るような呻き声とともに血とよだれが泡となって漏れ出た。呻き叫び唸り、そして泣き叫ぶうちに痛みは僅かに和らいだ。
当座の苦しみに耐え那奈は左手を見る。指はあった。千切れてなどいなかった。那奈が思うほどの力は込められていなかったのだろう。唇は再び裂け歯ぐきからも新たな出血箇所が増えた。しかし中指は元の位置に戻っていた。
良かった。那奈は嗚咽を吐いた。安堵から別の涙があふれた。
良かった。終わり。
まだ。右手も。
手錠に繋がれた右手を見る。先ほどのように右手で指を握って後は力任せに左手を引いて終わりと言うわけにはいかない。左手で握り、痛みに耐えつつ左手でしっかりと引き戻す必要がある。
那奈の脳裏に三度の激痛がよみがえる。右腕は手錠に縛られている。
三度の激痛は痛みへの僅かな耐性をもたらしたかもしれない。
でも三度も繰り返した激痛は完璧に脳裏に焼き付けられている。
那奈は手錠に繋がれた右手の中指を整復したばかりの左手で握った。
止めて!と右手の中指が叫ぶ。
那奈は息を荒めたまま歯を食いしばり目を瞑った。意を決して左手を引いた。
しかし痛みを避けようとする本能がその勢いを押しとどめてしまう。
中途半端に引いた左手は右手に明確な激痛を与えた。
しかし那奈は左手を離さず一縷の望みをかけて右手を見つめた。
中指は曲がったままだった。
食いしばったままの口から呻き声をもらす。
無理無理もう無理。
しかし那奈は右中指を握った左手を離すことはしなかった。
左手を離して泣き叫んだ方が楽だろう。
でも離したら、折れてしまう。心が。
那奈は右中指を握る左手を睨みつけた。
もう一度。やるの。
天を仰ぎ歯を食いしばる。諦めと敗北の涙を流してもう止めたかった。代わりに涎と血と悔しさと怒り、憎しみがあふれだす。
「!!!!」声にならない叫び声を上げて那奈は左手を引いた。
溢れ出る激痛を憤怒に変えて長谷部がねじり上げた方向とは逆に右中指を捻った。
嘔吐しそうなほどの痛みに襲われたが幸いにも胃の中には吐くほどまともな物は入っていない。
右中指は元の位置に戻っていた。左手をそっと離したが右中指が再び反り返るようなことはなかった。
戻せた。
那奈は両手を見て漸く安堵の涙を流した。受けた痛みに割に合うとは到底言えないが僅かとはいえ達成感を味わえた。両中指の付け根はすっかり腫れあがっていたが幸いにも冷やす水はある。
那奈はベッドの傍らに置かれた冷水で満たされたバケツに左手を突っ込んだ。
焼けあがるような指の痛みに二月の凍るような水が心地よかった。
バケツに漬けた左手とベッドに繋がれた右手を交互に見つめた。
指の付け根は関節の代わりにゴルフボールにでも埋め込まれたかのように腫れあがってはいたが人差し指と薬指に並ぶ中指を見ると僅かな達成感を感じられた。野獣のような男たちのペニスの先から白濁した精液を絞り出すことでは決して得られなかったものだ。
左の中指はバケツの水を温めそうなほど火照っていたと思えたが、中指以外の手が逆に凍えてきたようだった。
那奈は少しばかり惜しむように左手をバケツから引き抜き、代わりに傍らに放られていたおにぎりを拾うとバケツの中にほうりこんだ。
オレンジ色のキャップのペットボトルと手にするとまだ温かかった。
少しの間、ペットボトルを見つめてからキャップを奥歯で噛んで捻った。
パキッという音と共に蓋が少し回った。更にもう一度、もう一度と回し続けるとキャップが外れた。
口から蓋を吐き出し一度ペットボトルを眺めた。
飲んだ。
甘かった。ミルクティーだった。飲み込むのが惜しくなるほどの優しい甘さだった。
血まみれの口の中が歓喜で満たされた。
ゆっくりと飲み込むと甘く優しさにあふれる温かい液体がのどを伝い、胃の中に広がっていくのが感じられた。
これは長谷部に与えられた物でも温情でもなく、那奈が勝ち取った物だ。眩暈がするほどの、泣き叫んだ程の、気絶したいと思うほどの痛みに耐え自分で整復した指を見ると痛みの中に僅かではあっても感じられた達成感、その報酬だ。長谷部に与えられた痛みに自分は打ち勝ったのだ。これはその戦利品。そう思えた。
もう一口飲んだ。今まで口にしたありとあらゆる飲み物より、これから口にするであろうどんな食べ物よりもこれほど心と身体を満たす物はないだろうと思えた。
那奈は半分ほど残ったペットボトルを床に置き長谷部が残した袋を引き寄せた。袋にはウェス、つまりぼろきれが詰まっていた。眼鏡吹き程度の小さな物から大きめのフェイスタオルほどのものまで様々だった。大半は服を切り裂いたもので中にはデニム生地やレースの切れ端まであった。もちろんどれも薄汚れた切れ端だったが。
那奈は大きめの布切れを一つ手に取るとバケツの水に浸し手錠に繋がれた右手の中指にかぶせた。バケツの中身をお湯にしそうなほど左手は熱かったはずだが水に浸した布切れは今にでも凍り始めそうなほどに冷たかった。
痛みはもちろんある。だからこそ氷のように冷たいボロキレを心地よく感じることができるのだ。
そしていくつかの柔らかそうなタオル地の小さな切れ端を選んでバケツの水に浸してから身体を拭い始めた。大きめの切れ端は残しておくことにした。
傷だらけの身体を雪で撫でまわしていると思えるほど冷たく、そして痛かった。那奈の身体は痣や傷のない所の方が少ないと思えるほどだったからだ。
それでも那奈は汚れた身体を丁寧に少しづつ拭い、長谷部の尿と冷水に濡れた髪は特に丁寧に拭いた。左手の届く範囲で肩と背中の汚れを拭い、右腕を拭き、首を拭った後に乳房と尻とローションと精液に塗れた性器を拭いた。そしてショーツを履いた。
元は淡いブルーのショーツだったが今では赤黒く汚れていた。ホームレスでさえ投げ捨てそうなほど薄汚れていた。だが那奈はそれを履いた。
ウェスの詰まった袋を漁ってみたが切れ端ばかりだった。ショーツの代わりになりそうなものはなかったが一枚のチューブトップを見つけた。切り裂かれてはいなかった。
元は薄い紫色だったようだが那奈が手にした物はすっかり色あせていて、しかも捨てる前に試しにコンロの油汚れでも拭いてみたかのような一筋の黒い汚れがついていた。
しかし那奈にはそれが可愛らしいピンク色と洒落たデザインに見えた。
那奈はリサイクルショップがタダでも受け取らなそうな古びたチューブトップを宝物でも見つけたかのようにベッドの上に広げ嬉しそうに眺めた。
そのぼろきれを足元に持っていくと左手だけで足から履いていった。足を通し腰まで持ってきて更に上げていく。
チューブトップを足から履くという作業を左手だけで行うのは難しそうに思えたが身体はすっかり痩せ衰えていてヒップを通すのも胴を上げていくのも思っていたよりも簡単に行えた。胸元まで上げてから裾を丁寧に整えた。
また少し達成感が得られた。ショーツを履き胸を隠すことで、強姦されている時に味合わせられる女性とは違う本来の女性らしさと言うものが思い出せる。
那奈は鏡でもあればと思ったが目の届く範囲に鏡はなかった、幸いにも。もし今の那奈が鏡で自身の姿を目にすればまた心が折れてしまうだろう。
残念・・・。そう思う余裕が生まれる程度に指の痛みが少しだけ和らいできた。
指の痛みが和らいだ分以上に、スピーカーから放たれるヘビーメタルの爆音が那奈を襲い始めていた。
那奈は小さく切り裂けそうな布切れを選び出し、小片をいくつか切り出した。
小片バケツの水に浸してから最も小さい小片の2つを耳に詰めた。残りの小片は鼻の穴に詰め鼻水や乾いた血を拭っていく。乾いて固まった血や鼻水がチクチクと鼻孔を刺激したが今の奈那はもうそれを痛みとは感じなくなっていた。水に浸した布切れで鼻孔を拭うたびに折られた鼻骨が侵入者に燃え盛る怒りをぶつけているからだ。
怒る鼻骨に赦しを乞いながら鼻の穴を詰まらせかけている血と鼻水が混じり固まった塊を穿り出していく。
鼻孔の奥で固まった塊を爪を引っ掛けて少しずつ手繰り寄せていくと鼻のさらに奥の方から何やら引きずられてくる感触があった。
那奈は少し不安な気持ちになったが塊を鼻から引き出してみた。すると塊が引きずられる感触は左目のすぐ下、さらにその奥まで届いた。
一瞬、このまま引くと神経か何かが切れて失明するのではという不安がよぎったがさすがにそれはないだろう。鼻をかんで失明したなどと言う話は聞いたことが無い。
那奈が鼻から引きずり出した塊の先には10センチほどの長さの赤黒い芋虫のような不気味な物体が付いてきた。
一瞬、鼻孔の奥に棲み着いていた寄生虫かと思ったが全く動きはない。指で潰してみたが内臓のような物が出てくることもなくただの赤黒い粘液だった。おそらく鼻孔の奥でたまった膿と血がまじりあった物だろう。
那奈が鼻で軽く息を吸うと驚くほど気持ちがよかった。もう一度、今度は深呼吸してみる。
鼻孔が広がり酸素を直接取り込んでいるかのように感じられる。那奈は前に、鼻での呼吸は口での呼吸より脳に良い刺激を与えるという話を聞いたことがあった。口からだろうと鼻からだろうと酸素に違いはないだろうと思ったし科学的根拠も薄く那奈は信じなかったがあながち出鱈目でもないのかもしれない。
鼻で深呼吸するたびに頭の中に溜まりまとわりついていた白濁した靄が少しずつ晴れていくような清々しさがあり思考が冴え渡ってくる感覚さえあった。
しかし頭の中がハッキリして思考が冴え渡れば、それ以上にスピーカーからのヘビーメタルの暴音が那奈を傷つけ削り取っていく。
耳栓代わりに詰めた布切れのお陰で那奈に襲い掛かってくる暴音も前ほどではなくなった。が、少しだけだ。でもだいぶましになった。
一瞬、このウェスの詰まった袋をくれた長谷部への感謝の気持ちが浮かびかけたが、那奈はすぐさまそのおぞましい考えを頭から振り払った。例え今ここに長谷部がやってきてドアを開け那奈を逃してくれたとしても感謝するなど絶対にあってはならない。
那奈は右手にかぶせた布を再びバケツの水に浸し直し右手を冷やし続ける。左手もバケツに入れ冷やした。
人の心は単純だ。
那奈は5人の暴力にさらされたとき怒りと力で対応しようとした。しかし絶え間ない熾烈な暴力はいとも簡単に那奈の怒りを屈服させ5人を恐れさせるようになった。
人の心は単純だが、複雑でもある。
殴られ誘拐され監禁され強姦され絶え間ない暴力に晒され続け心の底から暴力を恐れるようになると、彼らに感謝するようになってしまう。
彼らを恐れなくなるというわけではない。暴力を恐れつつも感謝してしまうのだ。
殴るのをやめてくれたことに感謝してしまうようになり、レイプされた後に投げられた1つのおにぎりに優しさを覚えるようになってしまうのだ。
人の心は単純で複雑で、そしてやはり単純だ。
壊れたら、治らない。
落としたお気に入りのグラスが簡単に割れてしまうように、人の心も容易に壊れ
、そして元には戻らない。
(夏奈兄ちゃん)
再び兄の名を呟いた。
きっとお兄ちゃんが助けにきてくれる。それまで頑張るの。
左手をバケツから抜き袋の中のウェスを漁り大きめの物を探し始めた。
薄汚れた布切れを漁っているだけだったが気分的には渋谷のショップでお気に入りの1枚を探している気分だった。
選びだした大きめの切れ端のいくつかをベッドのヘッドボードに並べる。
布に覆われたヘッドボードに背中を預け残りの数枚は立てた膝に被せた。
一番大きな切れ端は特に長かったのでお気に入りのストールを手にした気分で首に巻いた。
お気に入りのストールを巻いているとふと、大学を卒業し大手商社に就職し初任給を手にした日のことを思い出した。
那奈は心に決めていた。初任給を貰ったら一着だけ。本当のお気に入りの服を一着だけ買おう。それともう一つ。
次の休日に那奈は渋谷に行き最高の一着を探し始めた。十軒二十軒とショップを巡り歩き半日が過ぎた頃、ようやく本当のお気に入りを見つけた。暗めの赤と黒でデザインされたチューブトップで裾に付けられたハトメに大きめの安全ピンが通されていた。全体的にパンクな雰囲気でどこかユニオンジャックを思い起こさせるデザインだった。立派なと言えるかは分からないが一社会人となった今、よほどのことが無い限りこれを着て外を出歩くことは無いだろう。
でも、那奈はお気に入りを買った。初任給で。
でももう一つ買う物がある。それはここ渋谷には売っていない。
那奈は気が付くと銀座にいた。どうやって銀座に来たのかは思い出せなかった。電車で来たのだろうが銀座に着いたときは、歩いてきたのかもしれないと思うほどひどく疲れていた。
緊張していた。どこに行けばいいのかもわからなかった。アルマーニが目に入ったが違う気がする。
那奈は銀座を街をさまよう様に一時間ほど歩いたあと、ライオン像の前に立ちデパートを見上げた。
(ここにしよう)レトロだが重厚な建物に潰されそうなほどの威圧を感じ足がすくむ思いで数分立ち止まっていたが意を決してドアをくぐった。
店内はステッキを手に高価なスーツを身にまとう老紳士と芸術品のような和服に身を包む老婦人ばかりかと思ったがそんなことはなくそこには意外と普通の人々が行き交い、那奈のような若い女性も少なからずいた。少し安心し緊張もややほぐれたがそれも二階の紳士服売り場に入るまでだった。
そこは那奈が慣れ親しんだ狭く騒がしく忙しい渋谷のショップとはかけ離れた空間だった。広く静かで、そして優雅だった。明らかに場違いだと思った。ここには黒髪を背中の中ほどまで伸ばした客はいても、ヒールの高い編み上げのロングブーツにタイトなジーンズを履き、ガイ・フォークスがデザインされたTシャツの上に焦茶のライダースを着て、パンクなチューブトップをバッグに入れている者など那奈以外一人もいないだろう。他の客や店員からクスクスと笑われている気がして逃げ帰りたかった。
しかし那奈は目に見えない耳にも聞こえない存在しない嘲笑に耐えてフロアーを歩き回り目当ての物が並べられている場所を見つけた。
もちろんどれを選べばいいかもわからない。伏し目がちに周りを見渡し店員がいることは確認できたがこちらに歩み寄ってくることはなかった。勘のいい渋谷のショップの店員ならすぐに「何探してんの?」と小走りに歩み寄って来てくれるが銀座の店員は勘が鈍いのだろうか。
仕方なく視線を落とすと目に入るのはもっといっぱい並べられるだろうと思えるほどゆったりと陳列されたネクタイだった。閑麗とでも言えばいいのだろうか。
(分からない・・)くじ引きのように適当に一本選んで帰るわけにはいかない。とうとう泣きそうになり帰ろうかと思った瞬間に背後から声をかけられた。
「プレゼントをお探しですか?」
目に涙をためていた那奈が驚いて振り返ると那奈より一回り年上、40歳弱と思える女性が立っていた。涙をためた目を見られたくない那奈は顔を下にうつむいて「はい」と小さく答えた。
「初任給を貰った記念かしら?」女性店員は言った。
「は、はい!」那奈は驚いて涙をためていたことも忘れ女性の顔を見た。
「お父さんへ?」女性は優しく微笑んで言った。
「いえ、お兄ちゃんですっ!」言ってしまってから那奈は顔を真っ赤にして再び顔を伏せた。顔が火照り耳までもが熱くなって顔も耳も、そして全身全てが火照ってくる気がした。
「お兄ちゃんっ子なのね。お兄さんはどんなお仕事をしているの?」おそらくこの女性店員は普段はこんな親し気な口調ではないだろう。緊張しきりの那奈を見てその緊張を解すべく優しくそして柔らかく接してくれているのだろう。
「警察官です」
2年も銀座のデパートの売り場に立っていれば誰でも、四月も終わる休日に新卒と思しき若い女性が紳士服売り場でネクタイを前に固まっていたらそれと察することができるようになるだろう。
しかし那奈にはこの、背後から近づいて来ただけで、初任給でプレゼントを買いに来たことを見抜いた女性がシンデレラの願いをかなえてくれた優しい魔女のように思えた。
「ならブルー系がいいかしらね」銀座の女性店員は色々とアドバイスはしてくれたが決して「これね!」と薦めてはこない。売れ残りを執拗に売りつけようとしてくる渋谷のショップのスタッフとは違った。
「お兄さんの体格は、結構大きい?」
「ひゃく、、180くらいです」
女性店員が兄の事を聞き、那奈がそれに答えるという事を何度か繰り返すうちに漸く一本のネクタイを選ぶことができた。
優し気な女性店員がネクタイをいかにも高級品然とした箱に収め丁寧にラッピングしてくれた上で更に立派な紙袋に入れてくれた。支払いを済ませ壁もドアもなく那奈には分からない店の境界までくると女性店員は「はい、お疲れ様」と言って微笑みと共に那奈に袋を差し出した。
女性店員に両手で差し出された、初任給で買った記念の品物が収められた袋を那奈はひったくるように取ると足早にデパートを後にした。
紳士服売り場を出てデパートの階段を駆け下りる頃には那奈は泣いていた。涙で汚れた顔をこれ以上さらしたくなかった那奈はデパートを出るとタクシーを捕まえ自宅のマンションの住所を伝えた。運転手は一言二言那奈に問いかけてきたが何一つ答えず俯いて鼻をすすり泣いている那奈のただならぬ様子を見て取ると、それ以上は何も言わずにナビが示すとおりに車を走らせた。
那奈が帰宅すると母がキッチンに立ち晩ごはんを作っているようだった。
「どこに行っていたの?丁度良かった、もうご飯ができるわよ」と言ってきた。
「ママ・・」
「ほら、手を洗って。今日はカレーよ、シメジを入れてみたの。隣の川本さんに聞いたんだけどキノコを入れると・・・」
「お兄ちゃんに会いたい!!」那奈が叫んだ。
「那奈・・」母は驚いて那奈に振り返り困惑し言いよどむが那奈は治まらない。
「なんで!?なんでお兄ちゃんに会えないの!?元気なんでしょ!?」
「那奈・・夏奈は」母は懇願するかのような顔を那奈に向けるが那奈は止まらない。
「元気なんでしょ!?」
「もちろん、元気よ」母はうつむいて答えた。
「ならなんで!?なんでお兄ちゃんは帰ってこないの!?」
「那奈、それは・・・分かって・・」
「分からない!一目見るだけでいいの!遠くから見るだけでもいい!」
「ダメなの、それは・・まだ」母は何も知らない何も伝えていない娘が理解してくれることを望んだがそれは到底無理な要求だった。
「お母さんがお兄ちゃんを……」那奈は既の所でそれ以上は口にしなかったが母には察せられたのだろう。母はそれ以上何も言わなかった。
那奈は叩くように自室のドアを開けると買ってきた自分の分と兄の分の二つの袋をベッドに投げつけた。母の分はない。
母には帰りに三つ、三つの花束を買ってくるつもりだった。キッチンと玄関と母の寝室に飾ろうと思って三つの花束を買ってくるつもりだった。
だが手元にはない。
だって、ママがお兄ちゃんを・・・・!
那奈は家を飛び出していた。母は止めなかったし、止めようもなかった。
那奈は小さな居酒屋で泥酔していた。店の前には隅田川が流れていてそこを進む屋形船に手を振ったり写真を撮ったりしながら呑んでいる客は外人ばかりだった。一人居酒屋と思しき店の店主も外人客も腫物をなんとか店の外に追い出そうと那奈を視界の端に捉え続けるような態度だった。銀座の高級デパートでもこんな場末の居酒屋でも那奈は場違いな存在で厄介者への視線を向けられている。
那奈は泥酔したままに店を後にした。ふらつきながら細い通りを歩き、徘徊するかのように進むと浅草寺の雷門の前にいた。雷門前の脇にある交番にいた警察官が怪訝そうな目を向けてきたがそれ以上の事は何もしてこなかった。
那奈は雷門をくぐり浅草寺を抜け気が付くと言問通りに達していた。
そこで二人の警察官に呼び止められた。高いヒールのブーツを履いた那奈より少し小さい警官と、高いヒールを履いた那奈より10センチほど高い警官だった。
「ヤンキーの酔っ払いじゃないっスか」小さい方の警官が言うと大柄の警官はそれを目線で制しつつ小声で止めろと咎めるように言った。
「お姉さん、ちょっと飲みすぎてるみたいですね。良ければ派出所で少し休んでいき・・」屈強そうな警官が言い終わる前に那奈の上段突きが疾走った。大柄の警官はすんでのところで交わしたが少し鼻をかすめた感触はあった。
「何してんだ!!!」途端にいきり立ち腰に備えた警棒に手をかけた小さい方の警官にも那奈は一発食らわしてやることも出来たが弱い者いじめのような気がしてそれ以上は大人しくしていた。それよりもこの距離で交わしてきた警官と手を出してしまった自分に驚いてた。
大柄な警官は小さい方の警官を手で静止してから鼻から垂れてきた血を指で拭う。
「いや、ちょっと派出所で休みましょう、ね」
大柄な警官は鼻血を垂らしながら那奈に微笑んだ。
派出所で椅子に座る那奈を横目に見ながら小さい方の警官は「傷害っスよ」と大柄な警官に呟いた。
「当たってない」鼻の穴にティッシュを詰めた屈強な警官が何事もなかったかのような返事をしながら那奈が出した財布を開き免許証を改めている。
「山井、那奈さんね。近所じゃないですか。少し休んで今日はもう帰りましょう、ね?」厄介事を早く終わらせたいようだ。
「谷くん。谷くーん!」大柄な警官が声をかけると奥の部屋から女性警官が顔だした。年は那奈より少し上、20代半ばか後半と言ったところだろう。
「なんです?」女性警官は大柄な警官に返事をしながら那奈を一瞥し眉をひそめた。
「ちょっと、こっちに」大柄な警官に手招きされ谷と呼ばれた女性警官が寄ってくる。
「ほら、彼女の顔をね、綺麗にしてあげてもらえるかな」
谷が那奈の顔を覗き込むと若い女性が泣き腫らした目と、化粧が涙で崩れ切ったみっともない顔が見えた。すぐにでも綺麗にしてあげたいと谷は思ったが取った行動は真逆だった。
「なんで私が?」谷は両手を腰に当て不服を態度で訴えた。
「っていうか、鼻、どうしたんです?部長」谷が大柄な警官の鼻に詰められ血に染まりかけたティッシュを指さした。
大柄な警官は咄嗟に小さい方の警官を制するように睨みつけた。
「いや、何でもない。ね?」部長と呼ばれた大柄な警官は椅子に座る那奈にまた優し気な笑顔を向けた。
その後ろで小さい方の警官が谷にジェスチャーでこっそりと答える。
椅子に座る女を指さしてから右手を握り、自分の鼻に当てた(女、グー、殴った)ってところだろう。
「まあいいですけど、タダじゃ嫌ですよ。そういうのは女にやらせるっていうのは最近の・・・・」そう答える谷に部長は懇願するかのような顔をしながら遮った。
「なんだ?」
「今日の晩御飯は部長が奢ってください。太陽軒の出前を頼んでますんで」
「わかったわかった」部長は絵にかいたように肩を落として頷いた。
「え?ずるいっスよ!なんで谷さんばっかり!」小さい方の警官が意味不明な抗議をしたが即座に二人に黙ってろ!と厳しめの視線を送られた
「いや、いいス」
「じゃあ、頼むよ」部長が言うと谷は那奈を手招きして派出所の奥の部屋に来るよう促した。
「ここで出来るだろ?」そう言う部長に谷は「デリカシーって知ってますよね?」と返す。
「そうだな頼むよ」頷く部長は物わかりが良い。
「ほら、おいで」谷は那奈のバッグを手にし肩に手を置くと奥の部屋に連れて行った。
谷が引き戸を開けるとそこは四畳半の畳敷きの小部屋だった。
「靴は脱ぎなよ、面倒だろうけど」谷が言った。
那奈は編み上げのロングブーツのサイドジッパーを下ろし簡単にブーツを脱ぐと畳に上がった。「だよね」と小さく谷が独り言ちる。
部屋には奥に窓があったがカーテンがかかっておりそれ以外は壁に折り畳み式の簡素なテーブルが立てかけてあるだけあった。ちゃぶ台と言ったほうがいいかもしれない。おそらくこの派出所の休憩部屋と言ったところなのだろう。
「ちょっと待っててね」谷はそう告げると那奈とバッグを残し引き戸から出ると脇の階段を上っていった。
とんでもないことをしてしまった。
那奈は酔いが完全に醒めたというわけではないが、警官の顔を殴ってしまったことに青ざめる程度には冷静さを取り戻していた。あの部長と呼ばれていた警官は鼻から血を流していた。【傷害罪】と言う言葉が那奈の頭を駆け巡る。しかも相手は警官だ、もっと重い罪になるかもしれない。
しかし那奈は自分がこれから負うであろう罪を恐れたわけではなかった。この派出所で敬意を払われているような人物に対してその威厳を損なうようなことをしてしまったことを恥じていた。酔っていたから、では済まされないだろう。
どうしよう・・。那奈がまた新たな涙をため始めた所に谷が自身のバッグを手にして戻ってきた。
谷は引き戸を閉めて部屋に入ると立てかけられていたちゃぶ台の足を立て部屋の真ん中に置いた。
「ほら、こっち来て」
言われるままに那奈は膝行するようにちゃぶ台に進んだ。
谷はちゃぶ台に乗せたポーチを開けて化粧用品を広げた。
谷は俯いて涙を貯める那奈の横に座ると顎に手を伸ばし那奈の顔を上げさせた。
「なんだよ、また泣いてんのかよ」谷の口調は先ほどとはだいぶ違っていた。
「ほら綺麗にしようって、アタシの晩飯がかかってんだからさ」
「私、逮捕されるんですか?」
「逮捕?……ええ!?マジであんたが部長を殴ったの!?」
「はい」
「ええーー!?部長を!?あんたがぁ!?うっそでしょー?」
谷は驚きつつそれでいて少しニヤけながら広げた化粧品の中からコットンパフを取り出しクレンジングリキッドを垂らした。
「ほら、顔下げるなって。人を殴ったくらいで泣くほどビビるなって」谷が涙で崩れた那奈の顔をコットンパフで拭っていく。
「部長はさ、柔道二段・・。いや三段だったかな?飲み屋で暴れてたボブ・サップみたいな黒人をたった一人で抑え込んだっていう隅田川署界隈の警官の中じゃ伝説なんだよ。通報を受けて駆け付けたやつらが警棒に手をかけたままビビって5メートルも離れている中で、たった一人素手でだよ?傷一つ負うことなく、しかもさ!すごいのはさ、ボブ・サップにも傷一つ負わせることなく終わらせたんだよね。まあボブ・サップは締められて落ちてたけどねー。その部長に!一撃食らわしたって!?マジで言ってる!?」
「ごめんなさい・・」
「泣かないでよ!ここからが良いとこなんだからさ、マジで」谷は一旦手を止めた那奈の肩をポンポンと叩き、また優しい手つきで那奈の顔を拭っていく。良い所と言った話も止まらない。
「でさ、ボブ・サップはここ、部長に連行されてこの派出所だよ。このハコに入った頃にはアンタみたいに椅子に座ってシュンとしちゃっててさ、まあデカいクマさんみたいで可愛いもんだったけど、ワタシはさクマさんの投げた自転車を避け損ねて左の小指をちょっと捻っていたからさ、一発くらい引っ叩きたかったんだけどさ。ま、そんなわけにもいかないじゃん?みんなこれはどうしたもんかって思ってたらクマさんが権利がどうのこうの電話かけさせてくれって言い始めてさ、こっちは逆に願ったり叶ったりだよ、身元引受人がいないと面倒だからさ。ワタシは暴れていたクマ野郎がどの面下げて権利だなんだ言ってるんだよって思ってたけどさ。あ、話長いかな?でもこっから、こっからがホントに良いとこだからさ」
「はい」
那奈はこの谷と言う女性警官はこれから逮捕される自分を少しでも落ち着かせ慰めようと話をしてくれているのだろうと思った。谷は那奈の顔を拭いながら話を続ける。
「でさ、クマさんの事情聴取をしようとしてもクマさんはダンマリでさー、全然反省してないんだよねー。まあ被害者って言ったらグラスや食器を割られた飲み屋と小指を捻ったワタシくらいだったけどさ。これはどうしたもんかってみんなで話していたら身元引受人が来たんだけどね、それが政府だか軍だか知らないけどアメリカ大使館から来たって言うお偉いさんだったんだよ、偉そうに身分証を出したけど見てもだれも分からなかっただろうね、しかも隅田川署の署長をつれてね。クマさんは米軍の海兵隊員だったんだよね。ワタシはさー、それまではこの腫れあがった小指の面倒は誰が見るんだって思ってたけど米軍って聞いてビビっちゃってさ、いやまあみんなビビってたよ。署長も大使館のお偉いさんにペコペコしてたしね。いけ好かない大使館のお偉いさんがさ、被害者はいないだろう彼は連れて帰る。それで終わりだ。なんて言ってさー。でもみんなさ、良かったこれで終わりだって思ったよ。小指が痛むワタシだってそう思ったよ。でも部長だけが違ったんだ。彼女が怪我しているなんて言ってさ、抗議するんだよ。ワタシは誰だよ話を面倒にするやつは!なんて思ったけど、まあワタシの小指の事だったよ。部長はワタシの小指の為にアメリカのお偉いさんを怒鳴りつけてさ、ワタシもその場にいたみんなも勘弁してよって思ったけどヒートアップし始めた二人は英語で話し始めていたから誰も出る幕無くてさ。でもまあなんだかんだ言って話は付いたらしくてね、偉そうな大使館員がそっぽ向いてる隙に署長が財布から一万円出してワタシに差し出したんだ。これで穏便にってことだろうね。ワタシが受け取ればハイ終わりってみんなが思ったよ、もちろんワタシも思ったよ、これでアメリカ産のクマさんは動物園に帰ってくれるってさ。でも部長がまだキレてんだよ!女性に怪我をさせておいてバカにしているのか!ってさ。ワタシはもうホントね、部長さん勘弁してくれって思ったよ。いや、みんな思っていたと思うよ。部長止めてくれってさ。またあれこれ英語で始まって結局のところさ、またあっち向いてホイって感じに大使館員がそっぽ向いてる隙に署長が4万だったかな?これ以上持ってないって泣きそうな顔をワタシに向けてきてさ、部長が不満そうにこれでいいか?って聞いてきてさ、ワタシはなんでこっちに振るのよ勘弁してよねって思いながらハイハイって頷いたんだ。やっと終わりだって思うじゃん?でもね、まだ部長には言いたいことがあってさ、クマは彼女に一言謝れなんて言うのよ。
もうホントに、ホンットに勘弁してくれってみんな思ってたよ部長以外さ。もちろんワタシもね。誰か部長をなんとかしろよって空気でさー。みんなの視線があっちこっちに行くんだけどワタシの前でだけよく止まるんだよ。そりゃあ一番ホットな話題なのはワタシの小指だったからね。でもさちょっと考えればわかるじゃん?暴れた挙句に権利がどうのなんて言うクマさんが素直に頭下げるわけないってさ。はいはいソーリーソーリーなんて言われても余計にイラッとするだけじゃん?
もうワタシは泣きそうな顔で
『部長……』って声をかけたらさ、部長はワタシの顔を見て痛みに耐えてる涙ぐんでるって勘違いしたみたいでさ
『大丈夫、任せろ』なんて言うのよ。全然大丈夫じゃないし任せてらんないから泣きそうなのにさ!だからさワタシは受け取った4万を部長に見せて『もうやめましょうよ部長、これで晩ごはん奢りますからー』って言ったのね。車に乗ろうとしているクマさんにもう一本取ってやろうかなんて顔してた部長もそこでやっと周りの空気に気がついたみたいでね。ワタシに笑いながらさ、わかったわかったって言って、動物園の飼育員じゃなくて大使館から来たお偉いさんに『どうぞ、お引取りを』なんてホテルのドアボーイみたいに頭を下げてさ。
それでようやくクマさんは動物園に帰っていったんだよ。それでこの話は終わり」
丁度那奈の顔を拭い終えた谷が那奈の顎に手を当て上を向かせた。
「うわ、むっかつく女」谷が言った。
困惑した顔をする那奈に谷が続ける。
「化粧落とした方が綺麗なんてズルくない?髪もチョー綺麗だしさあ」
予想外の谷の言動に那奈は再び顔を伏せるが谷は気にせずに続けた。
「あのブーツにそのライダース、チョーイケてるじゃんどこで買ったの?」
「あ……渋谷です」那奈は顔を伏せたまま小声で答えた。
「渋谷かあ、行ってないなー。そのTシャツの仮面って何だっけ?ハッカーのやつだよねー。Tシャツも渋谷で買ったの?ワタシも久しぶりに行きたいけどさー。中学の時は原宿だったなー、高校からかな渋谷に行き始めたのは。もう大学の頃なんて毎日行ってたけどね、学校より行ってかもしんない!でも今はこの仕事してちゃねー。ワタシ白バイ隊員を目指してんだ。あ、ちょっと待っててね、なにかさ飲み物とってくるからさ」
谷はそう言って引き戸を開けて出て行った。
那奈があの部長にどう謝罪するべきかを考え始める間もなく谷はすぐに戻ってきた。
ちゃぶ台にペットボトルの緑茶と氷の入ったマグカップを二つ置き濡れタオルを那奈に差し出した。
「ほら、顔拭きなよ。ワタシは紅茶がいいんだけど、ここのハコはワタシ以外は男ばっかりだからさ、これしかないんだよねー。なんで男ってコーヒー緑茶にウーロン茶なんだろうねっ」
那奈がタオルで顔を拭き始めると谷はちゃぶ台に頬杖を突いて那奈の顔を見つめながら続けた。
「目も冷やしなよ、どんだけ泣いたらそんなに腫れるんだって顔してるよ」
言われるがままに那奈はタオルを目に当てた。濡れタオルはとても心地よかったがそれはひんやりと冷たいタオルのせいではなくみっともなく腫れたまぶたのせいでもなく、谷の優しさが身に染みたからだった。
「私・・・」那奈が口を開くと谷はその意を読み取り即座に止めた。
「大丈夫だって、逮捕なんかしないよ。部長はバカみたいに優しいしね。優しすぎて女にモテないんだよねー。優しくされるのはさ、たまーにだからキューンとクるわけじゃん?部長はそこらへんがわかってないんだよねー年がら年中優しいんだ。良い男なのにさー、ホントいい男だよ部長は。でもあの年で独身なんだよ。せめてあと10歳若ければワタシも相手してほしいくらいだけどさー」
「でも、謝らないと・・」那奈が隙を見て言ったが谷は喋り続ける。
「ああ、ダメダメ。あんた・・えーと名前は?ワタシは谷。谷巡査長。部長はさ、巡査長って言いにくいらしくてさ、たまに『谷じゅんちゃちょう』なんて言うもんだからさワタシも『はい谷じゅんちゃちょうでちゅよ。何か御用でちゅか?』なんて言っていたらさ、谷くんって呼ばれるようになっちゃった。ま、それはいいか。あんた名前は?」
「山井です、山井・・・那奈です」
「那奈ちゃんねー。あ、ワタシの事は谷でいいよ。下の名前はリューっていうの、カタカナでね。谷リュー。ぶっちゃけ嫌いなんだよねー。普通さぁ女の子にリューなんて名前付けるー?カタカナだけどさー子供の頃のアダ名は勿論ドラゴンだったし。めっちゃ男子にからかわれたよ。だからさ、親になんでこんな名前にしたのって聞いたらさ『女の子に漢字の龍はどうかと思ってカタカナでリューにした』だってさ。ホント勘弁してほしいよ」
「リューさん」那奈が控えめに言った。
「言うじゃない、那奈ちゃん。じゃあワタシの事はリューさんでいいよ。泣き虫の、那奈ちゃん」
那奈はようやく微笑むことができた。
「ほら、めっちゃ可愛いじゃん。つーか綺麗だよね那奈ちゃん、よく泣くけど。ニキビなんか出来たことないって肌してる。チョー羨ましいよ。でもね、ここで部長に謝るのはダメだよ。さっき部長が言ったの聞いたでしょ?なんでもないってさ。ここでね、殴ってごめんなさいなんて言ったらそれが台無しになるのよ。そりゃあ殴ったのがあのチビ木のヤツだったら傷害だ公務執行妨害だ賠償だなんだってさ、女の子相手だって少しも気にせずみっともなく騒ぎ立てるだろうけどさ、部長はバカが付くほど優しいんだよ。クマさんの一件だってワタシの小指なんて放っておけばいいのに騒ぎ立ててさー、そんな事ばっかりやってるからお偉いさんに睨まれて昇進できないって噂なんだよね、英語がペラペラで頭も良くて真面目で優しくてしかもチョー強いのにね。あと15歳位若ければ食事のお誘いを受けてあげてもいいくらいなのに。まぁクマさんの一件は箝口令って言うの?ご丁寧に署長が捕獲に出てきた全員に口止めしたから知っているのは10人もいないんだよ。チョー狭い武勇伝ってわけ」
「でも・・」申し訳なさそうにする那奈に谷は続ける。
「わかるよわかる、那奈ちゃん真面目そうだもんね。一言でもいいから謝りたいって感じでしょ?でもここじゃダメだよ。大丈夫!リューさんがうまくやってあげるからさ」谷は笑顔で大きく一つ頷いた。
谷はテーブルに頬杖を突いて薄い笑みを浮かべながら那奈を見つめていた。
「ワタシだったらさー、らっきーありがとーっていって、かえるけどなあ」声に抑揚が無く目は那奈の顔に向けられていたが中空を見つめている。考え事をしている時の谷の癖なのかもしれない。
「ごめんなさい」那奈はそんな谷の様子に少し困惑し伏し目がちに谷を見て答えた。
「ななちゃんかわいいなーもてるだろうなーワタシもさモテないとはいわないけどねーけいかんですっていうとみんなにげちゃうんだー」
「そんな、ことないです」那奈はそう言ったが谷の表情は少しも変わらずボンヤリとした表情で那奈を見つめ続けていた。
「よし!さっきチョット聞こえたけど那奈ちゃん家は近所なんでしょ?」谷の顔に表情が戻った。
「はい、歩いて帰れます」
「いいね!」谷はそういうと途端に笑顔になり、腕時計を見た。
「もうすぐ、そうねーあと15分くらいで部長がノックしてくるからそれまでちょっとお話でもしていようよ」
「え?」困惑する那奈に谷は「なに?イヤなの?」と睨み返す。
「や、そういう意味じゃないですけど・・」
「大丈夫、あと10分待てば部長が来るからね」谷はウィンクして返す。
「でもさー部長を殴ったって、那奈ちゃん何かやってるの?ボクササイズみたいなやつとか?」
「いえ、空手を・・・」
「え?空手?まさか黒帯とか?」
「全然!全然そんなんじゃなくて近所にあったドイツ語教室兼空手教室みたいなところで・・」
「なーるほど、スキルアップがてらってとこね。プラス多少の心得はあるってわけね。で、どれくらいやってるの?就職に合わせて二年とか?三年はないよね」
「そうですね、小学生の時からなんで20年近くはやってます」
谷はポカンと口を開けてから驚いたように手を振って咎めるように言う。
「ダメダメダメ!!那奈ちゃん!それはダメだよ凶器じゃん!」
「でも段とか帯とかは何もないですよ」
「取りに行ってないだけでしょ!?ダメだよ那奈ちゃん二十年って!そりゃあさ、あの部長だって鼻血も出すでしょ!おかしいと思ったんだよね、那奈ちゃんがいくら可愛いっていってもさぁ、あの部長が一発食らうなんてさ、部長は女の子にデレデレするようなタイプじゃないからね!部長が鼻血を出すなんて絶対あり得ないもん!部長じゃなかったら大変なことになってたと思うよ!ホントあのチビ木に手を出さなくて良かったよー」谷がホッとしたかのようなため息をつく。
「まあでも、あのいけ好かないチビが鼻血垂らして泣いてるのを見てみたかったって気もするけどさ。で、その、ドイツ語の方もイケる感じなの?」
「ドイツ語は1級です」那奈が少し照れた顔で答えた。
谷は肘をついたまま那奈を指さすと「ドイツ語に級があるなんて知らなかったしもちろん1級がどんなもんなのかは知らないけど、その顔でなんとなくわかった。で、そのドイツ空手の先生は英語も喋れたりしたのかな?」
「ええ、英語も少し教わってました」
「だろうね。で、三級くらいはとったの?」
「いえ、一級です」那奈が自信ありげに答えた。
「やーーーな女!」谷が目を背けて舌打ちしてからマグカップを手に取り口にした。
「ルーさんはバイクに乗ってるんですか?」白バイ隊員を目指しているならバイクが好きなのだろう、那奈はそう思い聞いてみた。
「ルーさん?」谷が怪訝そうな顔で返した。
「いえ、リューさんはイヤみたいだから」
「ルーねー。ルーさん。うん、いいね!」谷は気分よさげな顔をしたがやはり気になるところがあるようだった。
「いや、やっぱりリューでいいよ。こんなでも親から貰った名前だしね」そう言って那奈に頷いた。
「バイクはねー、ハーレーのスポーツスターS。ちょっと待って見せてあげる」谷はそう言って自分のバッグからスマホを取り出し那奈に渡した。
そこにはかなり大きなバイク。それにまたがっているのは濃いブルーのジーンズに黒くゴツい革鎧のようなライダースを着た女性。ノーズのない所謂ジェットヘルメットをかぶり口元には赤いバンダナをまきサングラスをかけていた。
「これリューさんですか?」
「もっちろん!かっこいいっしょ?」那奈はバイクの事は全くわからないが谷の体格とバイクのサイズには大きな隔たりがあるように感じられた。
「え、ええ・・・」隠しきれない戸惑いが口から洩れ出てしまう。
「うーん、まあ、分からないよね。いいよ、ワタシもドイツ語は分からないしね。あと空手も」谷はそう言って再び腕時計を検めた。
「もう少しだね、那奈ちゃんは何歳?」
「22です」那奈が小さく答える。
「なんだ私と変わらないじゃない、ワタシ?ワタシは20と・・・6だけど。ああ、そうそう一応住所は?」
「えーと」那奈は言い淀んだ。
「どしたの?」
「あの、免許証とか見るものかと思って・・」
「やめてよー。友達にどこに住んでいるの?って聞くのに『免許証を出せ』なーんていう人いないでしょ」
ふふっと那奈は笑った。もう涙は流れない。
「北浅草です、北浅草の7丁目。大鷹神社の手前のマンションです」
「なーんだホントに近いじゃない、なら大丈夫ね。うーんもう来ると思うんだけどな」谷が引き戸を振り返ったが部長はまだ来ない。
二人の間にしばしの沈黙が横たわる。
谷は引き戸に顔を向けていたが那奈が耐えきれずに告白する。
「ママとケンカして・・・酷いことを言っちゃったんです。いや、言いかけたんです」
谷が振り返りちゃぶ台の上で両手を組んだ。
「ふーん、ひどいこと・・ね。で、謝りたいの?」
「はい・・」那奈は目の前の谷にすら聞こえるかどうかの声で答えた。
「ならさ、いいんじゃない。溜め込み続けるよりさ、たまにケンカでもしてスッキリしたほうがいいと思うよ。謝りたいって言うなら仲直りもできるでしょ?」
「はい・・」先ほどよりは少し強くはっきりと答えた。
谷は那奈に頷きながらもう一度腕時計を検めた。
「よし来るよ!」引き戸に向かって指を向けた。マジックのように引き戸が動くのかと思ったが何も起きなかった。
「あれ?」谷は那奈に向き直って首を傾げ、人差し指を那奈に向かって横に振る。
「おかしいな、うーん、もう一回、もう、一回……ねっ!」谷はもう一度振り返り引き戸に向かって指を鳴らした。
パチッ!
同時に引戸からノックの音がし部長が戸の向こうから声をかけてきた。
「いいかな」
「はい」谷が戸越しに返事をしながら那奈に向かって指を差し(どう?)とニヤ付いた顔を向けた。
那奈は声を出さず音も鳴らさずワーッ!と驚き拍手で返事をした。
谷は引き戸を開けた。部長が立っていたが、谷の脇から中を覗き込もうとするような下品なことはしなかった。
「丁度終わりましたよ部長」
「そうか、ありがとう谷くん」
「いーえ、ごちそうさまです部長」谷が両手を差し出して言った。部長は、そうだったな忘れていてくれればラッキーだったんだがとでも言いたげに、口を結んで財布を取り出すと千円札を一枚取り出し谷の両手に置いた。
「どういたしまして」部長はそう言って軽く頷き謝意を示した。
「いやー部長、太陽軒の天津飯とあと餃子も頼んじゃったんですよね、もちろんニンニク抜きのやつですけど」
部長はあからさまな舌打ちをして財布から五百円玉を取り出すと谷の両手に置かれた千円札の上に重ね置いた。
「部長部長、ちょっとそれは」
「なんだ?足りるだろ?生ビールも頼んだのか?」
「いや、ほら女性に奢るのに小銭を出すのはちょっとー」
「ああ、そうか」
「ねっ、ほら」谷が女性女性と自分の胸を叩きながら言ったが部長は財布をしまった。
「五百円札は持ってないんだ、すまないな」
五百円・・札?谷は腑に落ちないまま口をとがらせ1500円をポケットにしまった。
「で、大丈夫かな彼女」
「ええ、もうすっかり」(大丈夫)谷はそう言いかけてから、いやそれがまだ心配事があるですよとでも言いたげに眉根を寄せて続けた。
「ああでも、もう少しと言うかですね。ちょっとそこまで送ってあげた方がいいかなって思いますけどー」
「じゃあ、頼むよ谷くん」俺は関係ないとでも言いたげに部長が答える。
「いやいやいや、私はもう出前きますしー」
部長は振り返り後ろを見た。谷が部長の肩越しに見た先にはチビ木と、二階で着替えを終え降りてきていた軽薄を絵にかいたような西川の姿があった。
部長は谷に顔を戻し、わかったわかったと頷きながら「ああ、PC使っていいから」と言った。谷の本当の要求はもちろん違う。
「いやいやいや部長、なんでパトカーを御褒美みたいに言うんですか。大体ですね、若い女性が警官に付き添われてパトカーから降りてきたら親御さんはどう思います?」
「わからんよ、私は子供いないしな」部長の言い草は、わかってはいるが後ろ二人には任せられないだろう?と言ったところだった。
「私だって子供はいませんけど、私よりはわかるでしょう?部長」どことなく谷の狙いを感じ取った部長は柔らかく谷を睨んだ。
「部長もう退勤の時間ですよね」谷はわざとらしく腕時計を見て言った。
「ああ、もう過ぎてますね。部長がちょっとそこまで送ってあげるっていうのは・・・」
「待て、待ってくれ。警官に送ってこられるよりこんなオッサンと帰ってくる方が親は不安になるだろ!?」
「さあ?私は子供いないんでわかりませんね。まあ家までとは言わずに近くまででいいんじゃないですか?あの子も子供ってわけでもないですしね」
軽く唇をかんで谷を睨む部長の背中から声がかかった。
「マイドー太陽軒でーす!」近所の中華屋で働く若い台湾人の岡持ちが派出所に顔をのぞかせていた。
「ああ、来ました来ました」谷は部長の横を通り過ぎて出前を受け取りに行った。
「天津飯とベジ餃子デスー」岡持ちが机に料理を出す。
「恵ちゃんありがとー」谷がお釣りはいいよと言って部長から受け取った1500円を渡す。
「ハゥー、谷さんイツモいつもスマセン。マイドー」恵ちゃんと呼ばれた岡持ち女子がカタコトの日本語で返す。
「もうっ、私にはカタコトの振りしないでよ」そう言った谷に岡持ちはウィンクをし派出所を後にした。谷は既に日本語はマスターしているあの子がわざとカタコトで話すのは、店に来た客からチップを荒稼ぎするためだと知っている。だが憎めないどころか愛らしい台湾人の女の子だ。
谷が料理を両手に持ち戻ってくるのを部長は雷門の仁王像のように微動だにせず、しかし首から上だけが谷を追いかけるように動いていた。
「あの子にすぐ用意させますね。まあいいじゃないですか部長、あの雷神でしたっけ?バーに行くついでと思えば」谷は部長に笑顔を向けた。
「おま・・谷くん、なんでそれを」部長は誰にも気づかれずにコッソリと一人で楽しんでいたひそかな隠れ家がバレていたことに少し動揺したが谷は晩ごはんを両手に再び引き戸の奥に消えて行った。
部長は女性の横に並ぶでもなく後ろを歩くでもなく、少し前を歩いていた。女性の足音に気を向けることもなく、高いヒールのブーツが鳴らす足音で後ろを振り向く必要もなかった。二人は言葉を交わすこともなくただ歩いた。小さな公園を通り過ぎようと言うところで部長の後ろでカツッ…カツッ…と続いていた足音が止まった。
二歩三歩と進んでから部長は振り返った。
「どうしました?」部長は「ここまでで大丈夫です」そう返されるのを期待していた。
「あの、顔を洗ってきます」女性は傍らの公園の公衆トイレを指さした。
「じゃあ私はここら辺で……」そう告げようと部長が口を開きかけた瞬間に「すぐ戻りますんで」女性はそう言ってトイレに向かっていった。部長は開きかけた口を潔く閉じて女性のあとについて公園に足を踏み入れた。
公園にはホームレスが寝転べないようにパイプで仕切られ三人掛け様になっているベンチがあった。
部長は端に腰を下ろした。化粧が崩れるほど目を泣き腫らせた女性を送るのが嫌だったわけではない。若い女性がこんな中年と歩いているところを見られたら何一ついいことは無いだろうと思っただけだ。
その若い女性は五分もかけずにトイレから出てきた。長い黒髪は薄暗い公園の街灯の下であっても輝いているようだった。ヒールの高いブーツにタイトなジーンズを履いているせいかすらりと伸びた長い脚、そして小さな顔。化粧をしていなくてもそうは思えないほど綺麗な女性だった。女性はベンチに座る部長に目をやり部長とは逆のベンチの端に腰を下ろした。
女性は両手で太ももを撫でながら下を向きどこか気まずそうな雰囲気だった。
「じゃあ・・」部長が口を開くと同時に女性も声をかけた。
「あの、本当にごめんなさい」
「え?」部長が女性に顔を向けると「あの、鼻・・・」と言いもう一度「ごめんなさい」と言った。
「いや、当たって・・ませんよ」部長が言い返す。
「え?でも、血が・・」困惑気味の女性に部長はまた同じように言い返した。
「血?かすってもいませんし、なんです?当たるわけないでしょ」部長の物言いはまるで女の拳など食らうわけがないとでもいう風だったがその演技はまるで下手だった。
「そうですか・・」女性は少し笑いをこらえながらまた視線を落としまた太ももを撫で始めた。
リューさんといいこの部長さんといいなんでこんなに他人に優しくできるのだろう。那奈は今まで自分がこれほど他人に優しくできたことはあるだろうかと思った。少なからず赤の他人を助けたことはあるし、募金をしたこともある。だが、今日の受けた優しさを素直に享受できるほど今まで他人に優しくすることが出来てきたかと考えると恥ずかしく思うところはあった。
少しの沈黙を挟んで「兄も、警察官なんです」那奈は言った。
「お兄さんが警察官?配属というかその、勤務地はどこです?」部長が聞いた。那奈は少しの間言い淀んでから答えた。
「それは、分かりません」那奈の表情が薄暗い公園の街灯の下でまた少し暗くなった。
部長は小さく頷き立ちあがった。那奈は部長が立ち去るのかと思い少し残念そうに見上げたが部長はズボンのポケットから煙草を取り出すと再びベンチに腰を下ろした。
「失礼しますね」そう言ってタバコを一本取り出し口に咥えると使い込んだジッポライターで火を点けた。部長なりの「吐き出したいことがあるならどうぞ」と言う仕草だった。今度の演技はとても自然だった。
「兄の事で母とケンカしてしまったんです。それで母に酷いことを言いそうになって飛び出してきたんです」部長は返事をせずにタバコを吸いそして静かに煙を吐き出した。
「兄は、偉い警察官になるって言ってました」
「お兄さんは、その・・」
「元気です」那奈は遮るように、そして自分に言い聞かせるかのように強く言った。そしてまた沈黙が漂う。
部長がタバコを吸い、そして青灰色の煙を吐き出す音だけが何度か漏れた。
部長は指に挟んだタバコを中空に差し出すと「マルボロマンって知ってますか?」と聞いた。
「いえ、ちょっと」
「このタバコはマルボロって言うんですよ。カウボーイを象徴するタバコなんです」
「はい・・」那奈は部長の意図が分からないままに答えた。
「お兄さんはタバコを吸っていますか?」部長はタバコを地面に落とし靴で踏み消すとポケットティッシュを取り出し吸殻を拾って包みポケットにしまった。
「いえ、分かりません」
「吸っていると思いますか?」
「あの・・いや、吸わないと思います」
「このタバコはカウボーイのタバコ、つまり男のタバコなんです。お兄さんも吸っていると思いますよ」
「そう、ですかね」
「ええ、きっと吸っています」
「兄が、そのタバコを?」
「そうです。きっとマルボロを吸っています、賭けてもいいですよ」部長はもう一本タバコを取り出し再び火を点け深く深く一服した。
那奈はなぜか涙ぐんできた。なぜかは自分でもわからなかった。部長が手にするタバコと同じタバコを咥える兄の姿が頭に浮かんだ。
「夏奈って言います。兄は、夏奈って言います」
「夏奈、夏奈君ね。私は田中と言います」
「田中・・部長さん・・・」那奈がそう答えると田中は言い訳のように答える。
「田中でいいですよ。部長とは呼ばれますが、巡査部長って言うんです。おそらく山井さんが想像する部長とは違っていましてね、普通の会社でいえば、そうですねぇ、私はあの小さな派出所の所長、まあ係長ってところですかね」
「じゃあ、田中さん」
「はい」
「今日はありがとうございました」そう言って立ち上がる那奈を田中はタバコを挟んだ手を向けて制止した。
「お母さんに電話したほうがいいですよ」
「でも、すぐそこなんですよ」大丈夫ですと笑顔で答える那奈に言い聞かせるように田中は言う。
「ええ、10分もかからないでしょうね。でも今すぐ電話したほうがいいです。10分を不安に過ごすか、ホッとして待つか。どちらがいいと思いますか?私は子供はいませんけど、それくらいはわかりますよ」
「分かりました」那奈は素直に助言を聞き入れバッグからスマホを取り出し母に電話をかけた。
呼び出し音が鳴る前に母は電話に出た。それだけでスマホを手に、しかし自分からは連絡することができずに不安に苛まされていた母が頭に浮かんだ。那奈は田中に会釈をすると田中は頷き返した。
「ママ・・・うん・・違うの、ごめんなさい・・・私が悪いの・・・うん、すぐ帰るから・・・・いま、近くの公園にいるの・・そう、その公園・・・大丈夫、すぐ帰るから・・・うん・・・分かってる・・」余韻を残すように那奈は電話を切った。早く帰らなくちゃ。そう思った。
「ママ、すごく心配してました」申し訳なさそうに那奈が言うと田中は満足そうに「良かったです」と笑顔を向けた。
「じゃあ」と言って立ち上がる田中に那奈は恥ずかしそうに一つのお願いを申し出た。
「あの、良ければでいいんですが・・・。その・・・おんぶしてください」
「ええ!?」田中も恥ずかしそうに驚いた。そして薄暗い街灯の下でもわかるくらい心底嫌そうな顔を向けた。
「あ、いいんです、ごめんなさい」その田中の嫌悪の表情を見て咄嗟に那奈が答えると田中は背を向け中腰になった。那奈に振り向き、ほら早くさっさと済まそうと後ろ手に両手を振った。
那奈はくすっと笑い心の中で「お兄ちゃん」と叫んで田中の背に乗った。田中は両手で那奈の太ももに手をやり軽くスッと立ち上がった。田中の180を僅かに超す身長で那奈の足はすっかり地を離れ田中の背にもたれた。田中は子供をあやすかのように、しかし控えめに少しだけ身体を揺らすと、少し歩きましょうか?と言った。
「このままで、いいです・・」と那奈が答える。22の女性を42の中年がおんぶするという不思議な光景が公園の街灯が優しく照らしていた。
那奈は田中の優しい背にもたれ銀座の優しい女性店員には悪いことをしたと思った。銀座の店員が那奈の兄の事を聞くたびに那奈が答えた兄の姿はいわば空想だった。子供が思い描く白馬の王子様のようなものだった。女性店員に兄の事を聞かれ、それに答えるたびに自分が思い描いている兄の姿は空想だという事を突き付けられた気がして耐えられなくなったのだ。
兄の姿を最後に見たのは那奈が8歳の時、兄は15歳で高校へと進学するときだった。これから入学することになる高校の制服である所謂学ランを着た兄は那奈の耳元で「偉い警察官になって那奈を守ってやるからな」と囁いた。それが兄の声を聞いた最後だ。その時、母は「夏奈はとっても難しい勉強をしなくちゃいけないから那奈とは違うところで頑張るのよ」と言っていた。那奈は空手を教えてくれる優しい兄がもっと強くなるんだと無邪気に喜んだ。しかし強くて優しい兄が那奈の前に姿を現すことは二度となかった。見たことがない男性と去っていく黒い制服を着た兄の背中。それが那奈の中での最後の兄の姿だった。それ以来一度も会っていない。母は元気だとは言っていたが・・。
「ありがとうございます」那奈が言うと田中は中腰になり那奈を下ろした。
「じゃあ、帰ります」
「気を付けて」
那奈が歩き出し田中が風神に行こうかと思い悩んでいると那奈は振り返り鼻を触りながら「ごめんなさい!!」と言った。田中は唇をかみ大きく首を振ることで答えた。
「田中さん!今日はありがとうございました!リューさんにも!」田中は笑顔で大きく一つ頷き手を振って小走りにママの元に帰る那奈を見送った。
傍目にはぼろきれでしかないストールをまき終えた那奈は残りの細かな切れ端をチューブトップの中に詰めていき、残りを足元に集めその中に裸足のままの足を突っ込み最後にウェスの何倍も汚れている薄い毛布を被った。
立てた膝とそこに被せた薄い布が枕代わりだ。
膝を抱えて座っていようと横になっていようとスピーカーが発する暴音でどうせ寝ることはできないのだ。
横になってしまうと体温が奪われやすく、ヘッドボードを背に膝を抱えていたほうが体温を維持できる。
夏奈兄ちゃん・・那奈が思い描く兄の姿はどことなく田中の姿に似ていた。
夏奈兄ちゃんがきっと助けてくれる。
別の那奈が頭の中で囁く。
お兄ちゃんが助けに来てくれるよ、ほら、ドアを見て。
那奈は目を瞑って(違う違う・・・)と首を振る。開くはずのないドアを期待を込めた目で見つめてはまた心が折れてしまう。
夏奈兄ちゃんはそんなドラマや映画のように颯爽と登場してくれるわけじゃない。今、この瞬間には来てくれないかもしれないけど、きっと来てくれる。それまで頑張るの。
夏奈兄ちゃんがなんで那奈を助けてくれるの?別の那奈が再び囁いてくる。
夏奈兄ちゃんは強くて優しいんだもん!きっと那奈を助けに来てくれるの!!
恨んでいるのに?助けに来てなんてくれるわけないじゃない。那奈の頭の中に嘲るような笑い声が響く。
恨んでなんかいない!夏奈兄ちゃんは那奈を守ってくれるって言ったもん!!那奈は必死に笑い声をかき消そうとする。
あははは!!恨んでない?あははははは!!そうね、恨んでなんかいないかもね、夏奈兄ちゃんは私の事なんか忘れているもんね!あははははは!!!
忘れてなんか・・いないよ・・・今もきっと、探してくれている・・。
忘れていない。そうかもね。そりゃあ忘れるわけないわよね!!自分を売った母親とその娘の事を忘れるわけがないよね!!
ママは!ママは・・。
ならドアを見て、ほら!夏奈兄ちゃんが助けに来てくれるよ!ドアを開けてくれるよ!
違う、そうじゃない・・・。でも夏奈兄ちゃんはきっと助けに来てくれる。
来ないよ。夏奈兄ちゃんはこないよ。20年も会っていない夏奈兄ちゃんが助けに来てくれるわけないじゃない。
会っていないけど夏奈兄ちゃんは那奈を見てくれていたもん!大学の学費を出してくれたもん!成人式の振袖も貸してくれたもん!!
何を言っているの?それを出してくれたのはママでしょ。夏奈兄ちゃんを売ったお金で出してくれたんじゃない。
違う違う!!違う!!!夏奈兄ちゃんは助けに来てくれるの!!絶対に来てくれる!その時に那奈がダメになっていたら夏奈兄ちゃんが悲しむから・・・。諦めちゃダメなの。
そうね、せっかく助けに来てくれたのに那奈が死んでいたら夏奈兄ちゃんは悲しむよね。でも、那奈が死んでいたら夏奈兄ちゃんは怒ってあの悪い奴らを懲らしめてくれるよ?
うん、そうだよね、那奈が死んでいたら夏奈兄ちゃんは怒ってあいつらを懲らしめてくれるよね。
そうそう、きっとそう。夏奈兄ちゃんはあいつらを懲らしめてくれるよ、那奈が死んでいたらね。
でも、あいつらは那奈が死んだらきっと誰にも見つからないように暗い暗いどこかに隠しちゃうよ。
そうだよね、あいつらはそうするだろうね。あいつらは那奈を隠しちゃうだろうね。
そうなると夏奈兄ちゃんは那奈に気が付いてくれないだろうね。
そうだね、それは・・ヤだな。
那奈はバケツの中からおにぎりを取り出し口にした。