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第三十九話 山葵を食うと死にかける男は玉子巻きがお好き

キンキの寿司はマジで美味かった。

キンキってあんなに美味いんだな。

道路にいた連中は(やっと離れてくれたか)という顔でオレを見ていた。

どうせ寿司の味なんかわからないくせに!と思うのは良くないな。

キンキの寿司の味なら道路で飲んだくれている外人連中よりオレの方が分かっている自信はあるが、冷静に考えるとオレは一人前の寿司を出されても食えるのは半分くらいだからな。山葵が入っていなくてもだ。

それならこいつらの方がよっぽど和さんの寿司を楽しめるだろうよ。


オレが岸と田中さんの元へと戻ると岸のヤツがどこか慌てた風だった。それだけならまだしも田中さんもどこかよそよそしい感じだ。

オレだけ和さんの寿司を堪能してきたのを妬んでいるのか?それなら大丈夫だよ・・。

「先に外人連中に出すだろうけど、二人分の寿司は別に作るってさ」

「そっか」岸は心ここにあらずと言った返事だったが田中さんは食いつく様に「本当ですか!?」と言ってきた。


和さんが三人をカウンターに並ばせずオレだけ一人先に寿司をふるまったのは、オレが玉子巻きを独占したいと思っているのが分かっているからだが理由はそれだけじゃない。オレが山葵を食うと死にかけるからだ。いや、それよりも便所を独占されたら困るからだな。

寿司を握る時、山葵は指ですくってネタに付けるだろ?仮にオレの隣で山葵たっぷりの大トロの握りを田中さんが鼻をつまみながら堪能したとする。その次にオレがカンパチの握りを頼んだらどうなるか?

オレがその後の彩の便所を独占する羽目になるんだよ。オレに便所を独占されないようにするためには和さんはオレに寿司を握ろうとするたびに念入りに手を洗わなくちゃならない。

利き酒ならぬ利き山葵ってもんがあるならオレは百万分の一ミリグラムまで利き分ける自信があるぜ。なんせ命がかかっているからな。

辛い物がダメってわけじゃないんだけどな。カレーは辛い方が美味いし、ラーメンには胡椒をたっぷりかけるぜ。ただ山葵はダメなんだ。

ああ、そうかカラシもダメだな。和さんが出すオデンにはオレの皿にだけカラシが乗っていない。納豆に少しだけ入れるカラシは好きなんだけどな、トンカツやシューマイにカラシを付けて食う事はない。

ただ山葵はダメだ。マジで死にかける。


「和さんと何かあったのか?」岸が心配そうな顔で聞いてきた。

「別に」オレがそっけなく答えるとそれが余計に心配を誘ったみたいだった。

「それならいいけどよ」岸はそう言ったがその顔はまるで納得していなかった。それを見てオレはタクアンとか言う金星人が持ってきたような食い物を食わされたのを思い出した。

「今日の和さん、ちょっと感じわりぃな」

「なんだよそれ、止めろよ」

「知らねえよ、オレさサキタンに額にチューされたんだ、和さんそれを嫉妬したみたいだ」

オレは自慢げに言ったつもりだったが二人とも呆れたようにオレを見ていた。

そこで新たな客として入ってきていた台湾人カップル、ワンとゼロワンがマイクを持った。

流れてきたのはザ・ティンティンズの グレイトDJだった。二人は練習してきたのだろう、息の合った様子で体を前後に揺らし左手で後ろを叩くような仕草をして右手を上げてまた後ろを叩くような仕草をした。ダンスというほどではないが練習してきた甲斐はあったようだな。


次はまたサキタンだった。マイクの代わりに一輪の真っ赤なバラを持っていた。

まあ確かにみんなマイクは持っていたが電気的な意味はなかったからな。

ディスプレイから流れ始めたのはマイリーサイラスのフラワーズだった。


サキタンはバラの花に歌う。


二人の居場所が燃えていく

あなたと一緒にいたかった

嘘は言いたくないの

私は泣いたけど思い出したの

私は自分で花を買える

私は自分ですぐに消える名を記す

私が何を聞いても

あなたは答えない

私は一人でダンスをして

自分の手を握り慰める

もっと愛を囁いて

もっと愛を囁いて

もっと愛を・・・。


お?なんだ結婚パーティで早速痴話ケンカか?

たしかにサキタンは世界中を飛び回っているがベトコンは軍人だしそうそう国から出れないだろうからな。すれ違いってのは多いんだろう。

でもそれで良く結婚したよな。結婚するほどの接点はなさそうだったんだけどな。

サキタンは席についてバラの花をベトコンの前に置いた。


次にマイクを持ったのはイギリス人のビッグベン。

今日はデニムのカーゴパンツにところどころ擦り切れていそうな革ジャンを着ているがダビデほどじゃないにしろこいつもそれなりのエリートサラリーマンなんだよな、いつもは「ちょっとそこで商談をまとめてきたんです、億の」とでも言いたげなパリッとしたスーツを着てくるんだが、今日に限ってこんな恰好をしている理由は直ぐに分かった。こっちがこいつの本性なんだろう。

ビッグベンがギターを受け取りポールがサムアップしてオーケーの合図を送る。

ドラムの前奏が流れ始めビッグベンのギターがシューティングゲームで撃墜されたときの様な音を叫ぶと

オアシスのブリンギットンダウンが始まった。


あの音は何だ

おまえの頭を揺さぶる音は

おまえボケッとしてるなよ

何も考えずに歌えよ

あの音は何だ

おまえの頭を揺さぶる音は

おまえが一人なのは誰のせいだ

おまえは底辺で除け者だぜ

でも気にしてないだろ

おまえは誰よりも強い

おまえはみんなに早く帰れと思われているぜ

でも知っているぜ

おまえが女神にぶつけられた答えを出さなきゃいけないことはな


ちょこちょこ歌詞を変えていたが間違いなくオアシスの最高の一曲ブリングイットオンダウンだった。

しかしよ、なんでみんなそんなにギターが上手いんだよ。アパッチのギターは最高だったがあのジイサンがインディアンで歌ったのがアメリカンイディオットってところがデカいな。

だがビッグベンのギターは「お前本当にエリートサラリーマンなのか?」って言いたくなるほどの腕前だった。どっちかにしろよ、まったく。

ビッグベンが最後に「サンキュー!」と言うと歓声が上がった。

ビッグベンは絶賛の賛辞を浴びそれに答えながらベトコンを手招きしマイクを渡した。

「かましてやれよ」ビッグベンの顔はそう言っていた。

しかしベトコンはマイクを置いた。

ビッグベンは「お前マジかよ!」と両手を拡げた。

マイクを置いたベトコンはサキタンの元に帰って行った。

せっかくおぜん立てしてやったのによ!ビッグベンがベトコンに落胆したようだ。いや、みんなベトコンに対して少しガッカリしていた。

だがベトコンはサキタンの横に座り直すことはなく一輪のバラを手に観衆の前に戻りポールに何か言っている。

ベトコンが振り返り手にしたバラをサキタンに向けた。

チェインスモーカーズのハイが流れ始めた。

流石にベトコンまではギターは持たなかったがその声が。

アジア人特有の少し甲高い所がある声なんだが、長い軍隊生活のせいか少し枯れたというかハスキーさがあって同じアジア人として舌打ちしたくなるような歌声だった。


なんで気分のいい時しか愛してるって言ってくれないの?

僕らがいつも同じなのはどうしてなんだろうね

キミは変わると言うけれど決して変わらない

どうして気分のいい時しか愛してるって言ってくれないの?

僕らがいつも同じなのはどうしてなんだろうね

キミは変わると言うけれどそうは見えないよ

ドンドン増えるキミの友達の全てと付き合えるほど僕は若くはないんだ

本当の愛を知らなくても知っているフリくらいできるでしょ


中々のカウンターパンチ、返歌だな。

まあバラの花を片手に歌うのはやりすぎただろうけどな。残念ながらベトコンには似合ってないと思うぜ。そう言うのが似合うのはダビテみたいなやつだけだぜ。

だが全員が二人に祝福の拍手と声援を送った。

まあそうだな、外国じゃそうなんだろうな。けどここは日本だぜ。夫婦の喧嘩は話のタネにはなるが惚気は犬も食わないんだぜ。


場が充分に盛り上がったところで和さんの寿司が出来たようだ。桐さんが大判の寿司桶を手に出てきた。

オレはすかさずにカウンターに走る。岸は来ない。岸まで来たらまるで自分の分を催促しているように見えるからな。

桐さんが手にする寿司桶には色とりどりの様々な寿司が入っていた。

しかしオレが和さんから受け取った寿司桶には詰め込まれる様に一種類しか入っていない。全部同じ軍艦寿司だ。

「直樹、味見してくれよ」和さんがそう言って一つオレの前に置いた。もう寿司桶一杯に出来上がっているのに今更味見もないと思うんだが、和さんにとってそれだけ自信作なんだろう。

それは細かく刻んだサーモン軍艦だった。当たり前に回転寿司屋に行けるようなヤツらはサーモンの寿司ってのが当たり前に思えるんだろうがオレは苦手だ。

食ったことがない。オレにとって鮭って言うのは小麦粉をまぶしてムニエルにするもんだし、皮がパリッとするまで焼いた塩鮭の事だ。鮭を生で食ったことはない。

少し前まではそれは日本人の当たり前だったはずだ。

しかしノルウェー人の商人が日本人は魚を生で食うって習慣に目を付けて生で食えるという「サーモン」を日本に売り込みに来たんだ。もちろん最初は誰もサーモン寿司なんか食わなかったし、どこの寿司屋だって出さなかった。そこでノルウェー商人が目を付けたのが当時増え始めていた回転寿司屋だった。

脂の乗ったノルウェー産の養殖サーモンは今じゃ日本の味になりつつある。いや、もうなっているのか。

生の鮭「サーモン」を日本の味にしたのは回転寿司屋と言っていいだろうな。トロのように脂が乗っているがトロより断然安かった「サーモン」は回転寿司屋の目玉となった。

「サーモン」を武器に回転寿司屋がここまで増えたのは間違いなくノルウェー商人が日本に「サーモン」を売り込んだからだろうな。


この和さんの特製軍艦は海外で流行っているというよりもはや一般的と言っていいくらいメジャーになっているドラゴンロールと言う巻き寿司を参考に和さんが外人向けに和風に作り直したものだな。オレに言わせれば少しも和風じゃないけどな。

海外の巻き寿司ってのは海苔が内側に巻いてあるのが普通だ。これには理由が三つある。

一つは欧米人にとって「海苔」ってのが真っ黒い紙で、とてもじゃないが食い物に思えないって理由が大きい。だから海苔を内側に巻くことで見えないようにする。海苔がなけりゃそれはただのおにぎりだからな。

もう一つは海苔を内に巻くことで巻き寿司を大きめに作れるってことだ。日本の細い巻き寿司は欧米人には物足りないだろうからな。だからサキタンがペロッと六つの玉子巻きを食っちまった・・・なんていうつもりはないけどな。和さんの玉子巻きは本当に美味いからな、仕方がない。

で、一番重要な最後の一つは欧米人は出来上がった寿司の上に色々とトッピングするからだな。イクラやトビコをトッピングしたりしてな。日本人からしたら出来上がった寿司の上にあれこれ乗せたり特製ソースをかけたりするなんて想像もつかないけどな。

海苔を内に巻きシャリが剥き出しの真っ白なスシロールを醤油に浸けて食うのは難しいだろうしな。それこそシャリがボロボロと落ちて見た目にも良くないだろう。

だからドラゴンロールはネタに味付けしてあったり、ソースがかかっていてそのまま食えるようになっている。それはマヨネーズベースのソースだったりピリッと辛いチリソースだったりするらしい。

その時に真っ黒い海苔より、真っ白のシャリに赤いソースやイクラを乗せた方が見た目も良く映えるからだろうな。

寿司に関して日本人の様な固定観念のない欧米人ならではの発想だな。

その上で和さんが敢えて外に海苔を巻いている軍艦にしたのはもはや欧米人にも海苔に対する嫌悪感が無くなっているだろうって判断からだろうな、実際そうなんだろう。まあ和さんは海苔を内巻きにするって事に慣れていないってのもあるんだろうな。

軍艦寿司に乗っているのは刻んだサーモンにポツポツと見える緑、何かに和えてあるのだろうねっとりとテカっている。

オレはそれを手にし、醤油にかすらせ口にした。

うん?美味いな。

シャリに味が付いている、うっすらめんツユのような味。それに揚げ玉が混ぜてあるな、時折サクッ、カリッとした食感が良い。ああ、そうかシャリに味を付けてあるんじゃなくて、めんツユを揚げ玉に絡ませてそれがシャリに混ぜてあるんだな。上に乗った刻んだサーモンはさらに細かく刻んだキュウリと卵黄で和えてあるようでコクがある。そこに少しばかりチリマヨネーズのソースが垂らされている。

これが寿司と言えるかどうかは難しい所だ。ラーメンだって日本人に馴染む様に作り上げられた味噌に醤油、塩にとんこつラーメンと本場中華の拉麺では全く別物だろ。

欧米人が、というより現地の日本人が試行錯誤を繰り返し欧米人に受け入れられるまでに創意工夫し尽くし作り上げたドラゴンロールを日本で「これは寿司だ」と言い張るのはどこかズルい気がする。

この軍艦は海外で生まれた新しいスシロールを和さんが逆輸入し日本風に仕上げた一品だ。

「これはウケますよ、あいつら喜びますね」オレがそう言うと和さんは満足げに、そして嬉しそうに頷いた。

まあオレはやっぱり生のサーモンを好きになれないけどな。オレは「あいつらは喜ぶ」って言ったんだ。嘘は言っていない。

オレが寿司桶を持って振り返るとビッグベンのヤツが待ち構えていた。

「オー!ビッグカズ!!」ビッグベンはそう言って早くよこせと言わんばかりに寿司桶に手を伸ばした。

「ビッグカズ?」

「そーそー、これカズさんのスペシャル、みんなだいすき!」

ビッグベンは嬉しそうな顔で道路の連中から見えないようにビッグカズとやらを一つ摘まみ口に放りこむと「これこれ!サイコー!」と言って寿司桶を持って「ビッグカズいっぱいある!」と道路の連中に言うとヤツらは途端に早く持って来いとばかりに歓声を上げた。

どうやらオレが賛辞を口にするより先にこの寿司を知っていたらしい。

しかしビッグカズってネーミングはどうなんだ?日本人には大ウケするだろうけどな。


「直樹」和さんに声をかけられオレは振り向いた。

「あの二人の分もすぐできるからな」

「そうですか。んじゃ、粉茶もう一杯ください」オレはそう言ってまたカウンターに座った。桐さんが外人連中の為に小ぶりの醤油をいくつも持って行った。最近よく見かける空気に触れない醤油ってやつだ。一滴づつ垂らせるから箸の苦手な外人連中には好評だ。いちいち寿司を転がしたり、醤油皿の中に落としてベッタリと醤油をつけるハメにならないからな。

和さんが粉茶を淹れてくれてオレはそれをチビチビと飲んで和さんが寿司を握る姿を見ていた。

オレがガキの頃に行っていた近所の寿司屋のオッサンも見事な手際だったが和さんはそれ以上だ。和さんが寿司を握っている、それだけでもう美味そうなんだ。

アレは中トロか。昔は中トロなんてほとんどなかった。畜養のマグロは今までは赤身と呼ばれていた部分にまで脂が乗るから中トロや大トロって呼ばれる部分が増えたんだろう。

日本がバブルって泡に乗っかっていた時代はマグロを獲ってもトロの部分だけを切りとって残りは海に捨てていたらしい。マグロで一番美味いのは天然物の赤身なのに!!


和さんは次から次へと寿司を握り寿司桶に並べていく。

和さん一押しのイカの沖漬け軍艦も乗った。あまり好きじゃあない。

皮を引かずにとっておいた昆布締めのキンキ。マジで美味そうだ。山葵が入っていなけりゃな。

お次はエンガワか?美味そうだ。うっすらと緑色の劇薬が見えていなけりゃな。

雲丹の軍艦。食えない。気持ち悪い。生きている雲丹を見たことがあるか?真っ白い触手を出して岩に張り付くんだぜ。ナマコと同じくらい気味が悪いぜ。

イクラ軍艦。美味そうだ。美味いイクラは黄身のようなコクのある味がする。

アナゴ。マジで美味そうだ。岸に食わせても「ウナギ?」とか言うぜ、もったいない!

赤貝。美味いんだが、見た目がどうにもだな。

光り物。これも食えない。オレはお酢が苦手だ。酢の物は食えないし、モズク酢なんて以ての外だ。

シャリ?シャリはお酢じゃないだろ。シャリはシャリだ。

カッパ巻き。これは美味いマズいじゃなくて一人前の寿司には絶対に必要な巻物だ。脂身の強いトロやエンガワを食べた後に口直しと言うかさっぱりさせてくれるために絶対に必要だ。しかし脂味の強いトロやエンガワに山葵を入れるのはまだ理解できるがなぜキュウリの寿司に山葵を足すのかはさっぱり理解できないな。

さらに海老?いやアレは蝦蛄だな。海老は美味いが蝦蛄はもっと美味い。生きている時の見た目は海老の三倍くらいグロいが。

最後に鉄火巻きに芽ネギの巻き寿司を置いて和さんが仕上がった二枚の寿司桶を見下ろして満足げに一つ頷いた。

和さんは手を洗っておしぼりで念入りに水気を拭き取ると「頼む」と言って寿司桶を差し出した。

蝦蛄が残っていたらいいんだが・・あとで頼んでみるか。

オレはそう思いながら二人に寿司を持って行った。


「変わった子ね」

桐が松に言う。

「だな、でもああ見えて食い物にはうるさいんだよな、それでいて文句を言ったりはしないんだよ、あいつ」

後藤に対する松の感想は桐が思ったこととは違った。桐は倉庫を振り返り見た。

「あの子、酒屋さんなのよね?」

「ああ、売り込みでもかけられたか?」

桐の意図するところはそうではない。

倉庫で後藤の様子は明らかにおかしかった。

かつての、昔の彼女の事を話し始めた後藤の様子。

あの子は間違いなく酒屋なのだろう。だがそれだけではない気がした。

彼女はバラバラになって死んだと言った後藤の口はかすかに微笑んでいた気がした。

「あの子、結婚は?」

「いやあ、モテそうなヤツらなんだが二人とも彼女もいないみたいだ。狙っている女がいるならいつでも連れてこいとは言っているんだがな」

桐は下唇を噛んで道路で寿司を堪能する岸と田中、そして後藤を見据えた。

「キリさん!いいかな!」さすがに肌寒くなってきたのかサキが着替えたいとばかりに両腕を抱えるように「さむい」と言うジェスチャーをしていた。

「そうね、風邪ひいちゃうわよ着替えましょうね、サキちゃん」

セーラー服の女の子を倉庫へと導き入れ、ふと振り返るとこっちを見ていた後藤を目が合った。

後藤は咄嗟に目を逸らした。桐はそのまま後藤を見つめていた。後藤が顔を上げ再び桐と視線を交わすと、恥ずかしそうに首すくめた。

それは先ほどの「チューされた!」と喜んでいた男の子だった。

桐は、見納めよと右手を後藤に向け倉庫へと入りドアを閉めた。


「ボリス!」和さんが道路に呼び掛けた。

ビールケースの前でスラブスクワットしていたスラブコンビが勢いよく立ち上がった。

和さんが二杯のドンブリを手にしていた。

オレは座ってろよと二人の肩に手を置くとカウンターに歩いた。

中身はもちろん和さんの特製ジャガイモ丼だ。オレが湯気の立つ二杯のドンブリを受けとると和さんはそこにスプーンを差し込んだ。

これはロシア料理ではないんだが、日本料理ってわけでもないな。和さんの特製どんぶり飯だ。一番近い例えは肉じゃが丼とでも言えばいいか。だがこのスラブコンビの為だけに特別に毎回作られるどんぶり飯は白飯の上に挽肉が少し混じったジャガイモがのっているだけ。ジャガイモは半分くらいトロトロに溶けていてそこにじっくりと炒められた挽肉が混じっている。どんぶりから立ち上る湯気からは醤油の甘辛そうな香りがする。思わず唾液が出てくる。

スラブコンビはオアズケを食らった犬みたいに半口開けて座ったままオレが手にしているどんぶりを見つめている。オレはさすがに意地悪することもできずに二人の前のビールケースにどんぶりを置いた。

二人は鏡を挟んでいるかのように両手を組んで湯気の立つドンブリに首を垂れた。

「美味そうだなあ」思わず余計な一言が漏れちまう。

スラブコンビがオレを見上げ、その顔は「あげない!」と言っている。冗談だよ、お前らがどんだけこのジャガイモ丼を待ちわびていたか知っているよ。和さんの寿司に見向きもしないのはお前らだけだからな。しかしお前らこれを食うために日本に来ているんじゃないか?

しかもこいつら犬みたいに掻き込む様に食いそうなのに意外と行儀よく溶けたジャガイモと白飯を混ぜてスプーン一杯ずつ心の底から堪能するかのようにゆっくりと噛みしめて食っている。本当に美味そうだ。


サキタンが倉庫から出てきた。もう振袖でもセーラー服でもなかった。

ジーンズにハイカットのトレッキングシューズ、上は濃紺のカーゴジャケット。いつものサキタンだった。

和さんが忙しそうに焼き鳥を焼いているのを香ばしい煙りで気が付いたサキタンはカウンターを覗き込み小さく舌なめずりしてた。たまに子猫が舌の先をチョコッと出したままにしている時があるだろ?あんな感じだった。はあぁ、サキタンは本当に何しても可愛いな・・・。


サキタンが通りすがりに「ウアーミャ、なにをたべているの?」とスラブコンビのドンブリを覗き込んだ。

サキタンに声をかけられたスラブコンビは「え?・・・欲しいとか言わないでくれよ・・・」と言った感じに戸惑っていた。

サキタンはそんな二人を気持ちをすぐに察知して両手を拡げて否定した。

「かずさんがやきとりやているよあとでボリスもいっしょにたべよ」

二人が安心したかのように頷くんだが、サキタンはやっぱり意地悪な小悪魔かもしれない。「やっぱりちょっとほしいなあ」と人差し指を唇に当て二人のどんぶりを見つめた。

ハッとした二人にサキタンは直ぐに「うそうそ」と言ってテーブルへと戻って行った。

アディダス、お前今どんぶりを差し出しかけていたよな?見ていたぜ。

・・・・。

オレもさっきこんな情けない顔をしていたのかな。


焼き鳥を焼き続けている松が桐に皿を出してくれと頼むと、桐は焼き鳥を乗せる皿を横に置きつつ松に聞いた。

「和くん、なんで直樹くんに玉子焼き焼いてあげないの?」

「あ?」

「直樹くん玉子巻き好きなんでしょ?」桐は「チューされた」と自慢する後藤の顔を思い浮かべ少し笑った。いい年した男の子が玉子巻きを食べられなかったからと言って告げ口の様なことをしてきたのだ。

「ああ、悪いことしちまったな」

「和くんがそこまで言うなんて直樹くんは本当に玉子巻きが好きなのね。玉子がないなら買ってくるわよ」

「いやそれじゃダメなんだ。そんなもん出したらあいつをがっかりさせちまうよ」

「え?何か足りない物があるの?」

「ああ、時間だ」

「時間?」

松は皿に焼き鳥を並べながら桐が浮かべている当然の疑念に答えた。

「出汁巻き卵はそりゃあ焼きたての方が美味いんだけどな、玉子巻きにする出汁巻きは二時間は寝かせなきゃダメなんだよ。出汁が落ち着くって言うのかな」

「そうなの?そんなの初めて聞いたわよ」

「ああ、本当だ。これを教えてくれたのは誰だと思う?」

誰?誰と言われても桐には想像もつかなかった。松と出会ったのは20年以上前だし、すでに銀座に店を任されていた。その後すぐに佐河組の借金の一部を押し付けられて流れの腕貸しの板前になった。十年と掛からずにそれを返し終えると松は全国を放浪し始めた。その中で松が誰に師事し誰に教えを受けたのかなんてわかるわけがない。

桐が軽く首を振ると松は言った。

「あいつだよ」松は道路を顎で指し示した。

「え?まさか直樹くん?」

「そうだよ、あいつオレの玉子巻きが本当に好きらしくてな。だから特別に焼きたての出汁巻きを焼いて握ってやったらいつもと違うって言ったんだ」

「焼きたてだからじゃないの?」

「まあそうなんだが、あいつは不満そうな顔をしていた」

「いつもと違ったってだけでしょ?」

「いや、オレもそう思ったんだけどな、試しに寝かせた出汁巻きと焼きたての出汁巻きで玉子巻きを作って食べてみたんだが、確かに寝かせた方が美味かった」

「本当に?」桐には焼きたての出汁巻きより二時間も寝かせて冷え切った出汁巻きの方が美味しいとは思えない。

「本当だった。わずかな差なんだが玉子巻きとして食う時は出汁巻きを寝かせた方が美味かったんだ。出汁がなじむとでも言えばいいか。握りにするときは焼きたてでもいいんだが、巻きにする時は寝かせた方が美味かった」

桐が信じられないとばかりに道路を見るとデレデレとした顔でサキちゃんを見つめる後藤の姿が見えた。

「ふーん・・・変な子ね」

「でも、あの子が玉子巻きが好きな理由は分かるわ」桐がほくそ笑んで言った。

「そうなのか?なんでだ?」

「玉子巻きには絶対に山葵が入っていないでしょ」

松は少し考えながらも焼き鳥が乗った皿を桐に差しだした。

松は道路の後藤を見て納得も得心もしたかのように笑った。

「確かにな」

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