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第三十一話 瑠衣のサンドウィッチ

照間瑠衣は田中と共に浴槽に浸かり心の底から安堵していた。


女性は、大きく、そして強い男を求める。それはヒトのメスとしての本能のようなものだ。

数多くのメスとの間に子孫を作ることが可能なオスと違い、メスは一人のオスを決めて子孫を残す。

だからその見極めは非常に重要になる。

弱いオスとの間に子を作ってもその子もまた弱い。

だからヒトのメスは強いオスを求め、強い子孫を残そうとする。それは間違いなく本能だ。


そして田中は大きく、そして強い。

照間瑠衣は今、湯につかりながらその背中に田中を、その大きさと強さを感じている。

だから安堵できる。

その田中が今、瑠衣の髪を洗ってくれている。

もう少し強く、乱暴に洗って欲しいのだが田中はどこまでも丁寧で、そして優しく梳く様に瑠衣の髪を洗い続ける。

田中は洗うというより、マッサージでもしているかのように瑠衣の頭を、そして髪を撫で続けた。


シャワーヘッドを手にし「流しますよ」と言う。

田中はシャワーヘッドから出る湯を瑠衣の肩に当てる。

「熱くないですか?」

田中の問いに瑠衣は小さな頷きで答える。

瑠衣は少しの危険も感じずに目を瞑り、田中はその泡に塗れた頭をシャワーで丁寧すぎるくらいに洗い落とした。

ボトルから少量のトリートメントを手に落とすと、最高級シルクを手にしたかのように瑠衣の髪に伸ばしていく。


田中は瑠衣の髪が好きだった。長さはもちろんその艶やかに輝く黒髪が好きだった。

ブリーチなどせず、墨汁のような漆黒なのに輝くような黒髪が好きだった。


田中は手に付いたトリートメントを湯船に浸け洗い落とすと瑠衣の頭皮をマッサージし始めた。

瑠衣が思わず「うん・・」と心地よい声を漏らし僅かに頭を下げる。

寝室で流れている曲が聞こえてくる。

BENEEのSupalonelyだった。


私はクソでただの負け犬。

あなたを背に迎えるべきではない、それは分かっている・・・。

私は惨めな女、世界は広いのに私の世界は狂っている・・。

なぜこうなったのかみんな知っているのにあなたは知らない、知ろうとしない。

私はどこかで間違えたクソでただの負け犬。

あなたを背にしていい女じゃない。

本当は貴方のそばにいたかった。

私はとても寂しかった。

私は一人。

ただの雌犬。

どこまで行っても孤独な雌犬。

湯につかり一人で泣いている。

どこまでも沈み涙が溢れる。

誰かに背中を撫でて欲しい・・・。

私は惨めな女、世界は広いのに私の世界は狂っている・・・・・


田中が頭皮のマッサージを終え髪に付いたトリートメントをやはり優しく洗い流してくれた。

そしてやはり優しく瑠衣の肩を掴み揉み始めた。ゆっくりとそして優しく、やはりもどかしいと思えるほどに時間をかけて瑠衣の肩を、腕を、そして背中を揉んでくれた。

瑠衣が冷えないよう、その肩に湯をかけながらマッサージを続けた。

その手が首にかけられても僅かな恐れさえなかった。

田中はそっと首の後ろや耳の下、顎の骨を柔らかくもみほぐし、瑠衣の顔までマッサージをしてくれた。

こめかみや額、頬骨。耳の周りまで丁寧に揉んでくれた。

特に指を軽く立てて頤を揉んでくれたのは本当に心地よく、思いもよらずに涎が垂れたほどだった。

それは田中が頤を下に引いたから図らずも下唇から漏れたものだが、そうはいってもさすがに恥ずかしくなり、バレていませんようにと願ったが田中がその指についた涎を口にしたことでそれと察した。

瑠衣は恥ずかしさあまり「んー!!」と呻き田中の手を掴んだが、田中は「もっとリラックスしてください」と言ってマッサージを続けるのだった。



ベッドについた瑠衣は田中の胸に顔をうずめその心臓の鼓動を聞きながら心からの安堵を得て眠りにつこうとしていた。

これほど心地よく眠りに浸けるのはいつぶりだろうか。

瑠衣は思い出せなかった。それは遠く、とても遠い昔の話だったから。



朝を迎えていた。

田中がコーヒーを淹れてくれていた。

田中はカップに満たされたブラックコーヒーを口にし、瑠衣にはミルクたっぷり角砂糖を二つ入れた甘く温かいミルクコーヒーの入ったマグカップを渡した。

瑠衣はベッドの上で起き上がり、毛布で胸元を隠しながらそれを受け取った。

瑠衣が早速口を付けようとすると田中は「熱いですよ」と言ってくれる。

瑠衣はマグカップにそっと口をつける。なるほど確かに熱い。わざわざ牛乳も温めてから入れてくれたのだろう。


二人がそれぞれのコーヒーを堪能しカップの底が見え始めると田中が朝食の準備にかかろうとした。

瑠衣がそれを咎める。田中が怪訝そうに振り向くと瑠衣は毛布の下で器用にショーツを履き田中に向かって手を伸ばし甘えん坊のように言った。

「シャツー・・」

田中が瑠衣を見つめ、床に落ちたままのシャツに目を向け、また瑠衣を見た。

瑠衣は片手で毛布で胸を覆い、もう片手を田中にせがむ様に向けている。


結局のところ、瑠衣が朝食を作ることになった。

薄いショーツを履き、全くサイズの合っていない田中のTシャツを着ている。

それは、なぜか蜘蛛を咥えている紫色の髪をしたビリーアイリッシュがプリントされた田中のパジャマ代わりのTシャツで特別に大きく瑠衣が着るとその可愛らしいお尻が隠れてしまうほどだった。


瑠衣が朝食を作ってくれている。

田中がその後ろ姿を見つめている。時折瑠衣が振り向き、もうちょっと待ってねと言う。

大したものは作れないだろうことは分かっている。

ロースハムを薄く切って卵と共に焼き、食パンを焼いてジャムを塗る程度の物だろう。あとはトマトを切るくらいか。

田中の家の冷蔵庫にはそれ以外は氷と酒しか入っていないからだ。


「出来たよー」

瑠衣が言う。


田中がテーブルにつくとそこには皿に置かれた食パンと牛乳がマグカップを満たしているだけだった。

半分にカットされた食パンが田中のさらに三つ、瑠衣の前には一つだけ置かれていた。

さっきまでフライパンで焼いていたハムは忘れたのか?と思ったがそれはサンドウィッチだった。二枚の食パンで作った二つのサンドウィッチを半分に切り分けそのうちの一つは瑠衣の前に、残りの三つが田中の前に置かれていた。

実に薄くスライスされソテーされたロースハムに同じようにスライスされたトマト、更にスクランブルエッグがあり、スライスチーズが挟んであった。

「チーズなんてありましたか?」

「うん、あったよ」瑠衣がサンドウィッチにかぶりついて答える。

チーズ。スライスチーズを買ったのはなんとなく覚えているが、いつの事だったか。

田中の懸念を察したかのように瑠衣が答える。

「大丈夫、賞味期限はまだ半年もあったよ」

田中がサンドウィッチを手にしたまま口にできないでいるのを見て呆れたように瑠衣が言う。

「あのね、プロセスチーズって腐らないんだよ。乾燥してカチカチになったら別だけど、封も開けてなかったじゃない」

それもそうか。田中は瑠衣のサンドウィッチを口にした。

ハムは薄く切って焼いた方が美味しいことを、トマトは丸ごと齧るだけではないという事を、ほんのりと甘い卵焼きがこんなにも美味しいことを、そこにマヨネーズをかけてチーズと共にパンにはさむだけでこんなにも立派な朝食になることを田中は初めて知った。

いや、思い出した。


田中はかけがいのないものが目の前にある気がした。


しかしそれは終わりへの入り口だった。

照間瑠衣と言う女と、後藤直樹と言う男。

田中の首を二匹の死神がそれぞれの鎌で撫でているのだった。




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