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第二十三話 未亡人と赤ん坊

後藤は大学を卒業したあとは木工所に勤めていたと言った。

そして四年前に橘京子が死に後藤はその後なのか既に相続していたのかは分からないがこの元製材所で卸しの酒屋を始めた。岸が後藤をこのゲームに誘ったのは・・いや巻き込んだのが二年前。この二年間で後藤が自分から橘京子の事を語ったことはなかったし岸も聞くことはなかった。

何故岸は二年もの間、親友だった橘京子の事を聞くことがなかったのか?

それは、あの子が後藤のそばに存在していてほしくなかったからだ。

それは、もしかしたらこのイカれたゲームに巻き込んだ後藤と共にもう一人巻き込むことになったのではないかという現実を突きつけられたくなかったからだ。女っ気のない後藤のエビス屋に安心した。後藤が妻と子供が待つエビス屋と別の自宅に帰ることが無いという事に安堵した。

岸は後藤に「お前のせいで二度と会えなくなったんだろうが!」と怒りをぶつけられることが何より恐ろしかったのだ。

岸は後藤を助けたとは微塵も思っていない。俺は後藤を巻き込んだんだ。そして今日、橘京子が死んでいたことに少し安堵した。頼もしくもあり恐ろしくもあった後藤の狂気の源が分かって心の奥底でホッとした。

だがその狂気は後藤の心の奥で静かに眠っていたのかもしれない。

それをもう一度呼び覚ましたのはこのイカれたゲームなのかもしれない。

それをもう一度呼び覚ましたのは後藤をこのゲームに引きずり込んだ岸なのかもしれない。

すまなかったと一言いえば岸は楽になれるだろう。罵倒されようが殴られようが構わない、それで岸は楽になれる。

だからこそそれは決して口には出来ない一言なのだ。

もはや岸と後藤は人を殺し続けるしか道は無いのだ。


階下でシャッターの上がる音が聞こえる、後藤が帰ってきたようだ。もう陽が落ちかけて外は赤く染まっていた。

後藤は階段を上がり岸の部屋のドアをノックした。岸がドアを開ける。

「ちょっとシャワーを浴びるから待っててくれよな」

「ああ、分かった」

「今日は和さんの店にさ、バイクで行こうぜ」

「タクシーじゃなくてか?」岸は僅かに眉をひそめて聞き返した。

「たまにはいいだろ?」後藤は久しぶりに乗ったバイクの興奮を抑えきれないようだった。

「まあいいか、たまにはな」

岸が答えると後藤は親指を立ててノリのいいロックでも聞いているかのように肩を揺らし自室に入っていった。


後藤はあの河川敷では暴れ馬を乗りこなすようにバイクを操っていたが二人乗りとなると笑えるほどに慎重な運転をする。車と車の間をすり抜けるような真似は絶対にしない。信号が赤になっても車の後ろについて信号を待つ。目の前にバイクがいることに気分を害するような車には早々に道を譲る。目の前にいるのが車ではなくバイクであるという事にストレスを感じる輩。こういった輩は稀どころか意外と多い。目の前にいるのが車だったら追い抜くことは出来ないが、バイクなら追い抜けると思うのだろう。だがそのバイクが車線の真ん中に陣取り追い抜くことを妨害していることにストレスを感じる。後藤はこういった輩を早々に察知して道を譲る。おそらく一人の時もそうなのだろう。

もう後藤が岸をリアシートに乗せることは彩に行く時のみになったがそれですら稀だ。たいていはタクシーを使う。

だが今日は後藤がバイクで行こうと言った。岸もそれを断ることはなかった。


岸がバイクのリアシートから降りてビルの隙間に入り彩へと歩いて行った。

後藤はヘルメットを外し革ジャンのポケットからタバコを取り出し一本咥えた。

右手で心臓を叩き、我ながら気が早いなと思い一度咥えたタバコを箱へと戻し再びポケットに突っ込んだ。

オレはライターを持ち歩かないからな。ポケットにライターが入っているなんてことはあるわけ無いんだがつい、クセっていうのかな。


彩のシャッターが開いた。オレたちが彩に来る時は殆どタクシーで来るが今日はバイクのニケツだ。一応、岸が和さんに声をかけてバイクを倉庫に置く許可を貰う。もちろん和さんは断ったりしないぜ。そしていつものように岸が開けてくれたんだが、岸はいつものように「シャッターは閉めておいてくれよ」と立ち去らずに何か言いたそうにこちらを見ていた。

正直、そこに立たれると邪魔なんだよな。だがそれにも理由があるんだろうな。そう思った後藤はいつもよりもゆっくりとシャッターをくぐりバイクを倉庫へと入れた。

後藤のすぐ脇に立った岸が顔を近づけ耳打ちしてきた。

「昨日の警官が来ている」

「あぁ!?なんでだ」

「分からないが、当然俺のことは知っていたな」と岸が答える。

「じゃあオレのことも・・」

「そりゃあ覚えているだろうなぁ」岸のヤツが(そりゃあそうだろ・・・)と言った顔をした。

「何か、残していたか?」何か怪しまれる物を残していたか?何か見られていたのか?あの時を頭の中でトレースしてみる。あのプリウスが信号無視をしたところからでいいだろう。

あのパトカーがそれよりも前からオレたちの後ろにいたのならあのプリウスが信号無視をした時点でサイレンを鳴らしていたはずだ。


オレは吾妻橋の交差点でちんたら歩いている歩行者に呆れたがクラクションを鳴らしたりはしていない。江戸通りを上りタクシーが前に入ってきた時に減速したな。でも何もおかしいことはないよな。

その後は・・・駒形橋の信号が赤だった、もちろん停止した。

そうだこの時にサイドミラーでだいぶ後ろにパトカーを見た。でもそれだけだったよな、サイレンを鳴らされたわけでもないし普通に信号が青になってから左折した。違反はしていないし、もし何かあったらそこでサイレンを鳴らしていたはずだよな。

交通違反はなかった。あれは職務質問だった。以前から目を付けられていたのか?だがそれなら・・。

彩の前でトラックを止めてオレは和さんのところに酒を運んだ。その時はパトカーはまだいなかった。

和さんのところで一服して、トラックに戻ったらあのブタのクソみたいな口臭のチビがいて袋の中身を見せろと言った。だが見せなかった。当然だろう、見せていたら今はこんな風に和さんの飯を食いに来これていない。

そもそも何か残していたらあの場で追及してくるはずだ。血痕でも見たのか?それもない。あの男は岸が首を折って始末した。出血はしていないはずだ。ちゃんと確認もしたし、念のため岸と二人で床の掃除もした。何か見落としていたのか?あのバカが撃った銃弾は回収した。もちろん薬莢もだ。

なら銃痕か?あのバカが撃った銃弾は荷台の床で跳弾し奥の壁にめり込んでいた。オレは床の弾痕を隠すように立っていたし、奥の弾痕を見たのか?(あの暗さでは見えるわけないと思うが)それをブタのクソ臭い警官が言っていた火薬のにおいと繋げたのか?それならエビス屋に警官が押し寄せるんじゃないか?今更和さんの店に、証拠の残っている(見ていればだが)トラックもないこの状況で何しに来た?以前から目を付けられていたのならあの時に・・。

お前はどう思う?と顔を向けると岸もオレと同じようにあの時の記憶を反芻しているかのように眉を寄せて左上に視線を上げ、言った。

「無いと思うけどなぁ」

おいおい、ずいぶん軽い口調で言うじゃないか。警官だぞ?お前、人を殺し過ぎて頭がマヒしてんのか?

オレはバイクを一吹かししてからエンジンを切りバイクから降りた。岸がシャッターを閉めロックした。岸はオレの前を通り過ぎながら厳しい視線に気が付いたが意に介さずに、なるようになるだろと両手を広げた。そして岸が倉庫のドアを開けた。


だがそこには警官はいなかった。警官はいなかったがカウンターには薄い茶色のトレンチコートを着た知らない男が座っていた。そこはこのビルのオーナー、あのいけ好かないジジイの席だ。誰だコイツは。後藤がそう思った瞬間にカウンターに座る男は後藤に振り返り、後藤に会釈をした。岸はその男から椅子を一つ空けてカウンターに座った。この男と岸は既に挨拶を済ませていたのだろう。

後藤は助けを求めるかのように思わずカウンターの中の和さんに顔を向けた。しかし和さんは「挨拶くらいしろよ」とばかりにカウンターに座る男を顎で指し示しただけだった。

仕方なく後藤はカウンターの男に顔を向け戻し会釈を返した。

「どうも」後藤が小さく言うと男は「こんばんは」と控えめな態度で言った。

田中だ!そうだあの警官だ、ブタのクソじゃない方の警官だ。岸のヤツがあの警官がいるって言うからオレは制服姿を想像していたんだよ。だが警官の制服を着ていないならなぜそこに座れるんだ?いや、制服の警官が居酒屋のカウンターに座っていたらそれはそれでおかしいけどな。

だってそうだろ?和さんは一見の客はまず入れないんだ。入ってこれるのは常連の外人客が「知り合いなんでお願いしますよ」と連れてくる別の外人くらいだ。まあ常連と言っても彩の客はどいつもこいつもバックパッカーくずれの貧乏外人だから年に4回、1シーズンに一回も来れば常連だ。

看板もない彩に、何かこの奥にあるぞとばかりにフラフラとビルの隙間を入ってくる日本人の酔客はやんわりとお帰りいただく。いつもそうだ。

この和さんの店で飲んでいると日本人がいかに酒の飲み方を知らないかってことが良くわかる。酔っぱらった日本人は他人を尊重せず自分勝手になるヤツが多い。こんな個室どころかろくに椅子もない店では特にだ。

まずあの細道を抜けて外人だらけの光景を見たら自分が来ていい店ではないと分かるはずだ。だが構わずに入ってきて「空いてる?」とか言いながらカウンターに座ろうとする。和さんが首を振ってもお構いなしだ。「空いてるじゃん」そう言ってカウンターに座る。


岸とオレがいる時ならまず岸がニコニコしながら対応する。まあこれは半々ってところだな。岸でダメならオレの出番だ。酔っ払いの日本人なら180を少し越えるオレに見下ろされればだいたい素直に出て行ってくれる。オレ達がいないなら外人客の誰かがその役目を担うだろう。

道路に置いたビールケースの前にスラブスクワットをしてレモンを絞り垂らしたウォッカを嗜み和さんのジャガイモ丼が大好物のロシア人のアディダスとナイキのコンビかもしれないし、フランス外人部隊にいたというケニヤ人のマサイかもしれないし、ナイフすら刺さらなそうなグランドキャニオンみたいな赤茶色の肌をしているネイティブアメリカンのアパッチが立ったらおめでとう!SSRを引き当てたなってところだ。命は大事にした方が良いぜ。呪いってもんを信じないか?信じないならそれでもいい。オレは信じるぜ、命は大事だからな。知っているか?命って一つしかないんだぜ。

彩で飲んでいる外人客の中には常に誰か一人くらいは、いや数人だな。迷い込んできた日本人客を追い払うバウンサー役がいる。一番ヤバいのはベトコンだけどな。ベトナム人のグェンティキムだ。あいつはヤバい。この店に来る客の中じゃとびきり小さい男だけどな。オレはこの店に来る外人たちに自分勝手にあだ名をつけて好き勝手に呼ぶがグェンだけは別だ。岸より小さいからってあいつにベトコンなんて言ったら「俺がベトコン?じゃあこれが必要だな」とか言ってどこからともなくAKライフルを持ち出したっておかしくはない。グェンは父親も爺さんもベトナム戦争で戦ったという軍人一家なんだってさ。そしてキム自身はベトナム軍のエリートコマンドらしい。あいつが俺の出番だとばかりに立ち上がるとそれ以外の外人客が一斉に一見の日本人客が無傷でいられるようにと何とか追い返そうと奮闘するらしい。


ここに来る外人の常連たちは酒の飲み方ってもんを良く知っている。細道から中を伺い、混んでいるようなら黙って踵を返し別の店に行く。席を開けろだとか誰か帰れだなんて口が裂けても言わない。まあそんなことを言うヤツには和さんは何一つ料理を出さないけどな。

運よく道路に自分のスペースを確保できたからと言って二千円の元を取るどころか少しでも多くの酒とメシを胃袋に詰め込もうといつまでも意地汚く居座ることもない。みんな、和さんの店が貧乏外人たちの憩いの場だって分かっているからな。細道から覗き込んで帰ろうとする客を見たら誰かしらが「ここ空くぜ!」と声をかける。まあ道路で好き勝手に飲んでいるんだし空くもクソもないんだがな。それでも和さんのキャパってもんがあるからな、和さんの腕は二本しかないってみんなちゃんと分かっている。世界中からいろんな国の色んな人種の外人どもがこの店にやってくる。日本の東京の浅草の影裏にあるこの店だけはアメリカのニューヨークにでもなったかのように色んなヤツらが来る。それなのにトラブルなんかほとんどない。日本に初めて来たっていう台湾人の男二人が知り合いのフィリピン人女性イギーリに連れられて来た時だって、その二人をチビだのゲイだのバカにするようなヤツはいない。俺は台湾人の友達は初めてだって右手を差し出すヤツらばっかりだ。

みんなお互いを尊重している。何千キロも離れた国で全く違う風習や慣習を持っているヤツらが和さんの店ではお互いの価値観ってやつを尊重し共有しようとしている。確かに和さんの店で騒ぎを起こしたヤツは二度とあの細道を通ることは出来ない。だがヤツらは和さんのメシが食えなくなるからっておとなしくしているわけじゃない。酒の飲み方ってもんを知っているんだ。


和さんの店に来る貧乏外人どもはもれなくバックパッカーみたいなもんだ、世界中を旅しているヤツらばっかりだ。だから自分の持つ風習や価値観が絶対唯一の物ではないってことを知っているんだ。自分が信じてきた価値観は世界に数多ある中の小さな一つに過ぎないってな。だからこそ他人の価値観を当たり前に尊重できる。仲よくしようってことじゃない、それは結果だ。お互いの価値観を尊重する結果、みんなが楽しく酒を飲める。そして仲良くなれる。

まあこれはオレの持論ではなくサキタンからの受け売りだけどな。


アパッチのオッサンが「全ての物には精霊が宿っている、そこの黒い川にも、あの春には花をつける木にも、そこの小さな石コロにもだ」と言っても誰もバカにしたりなんかしない。みんな神妙に聞き入っているところで誰かが「この酒にもか?」と言うとアパッチはより厳格な表情になって「そうだ、全ての物には精霊が宿っているのだ。だから大事にするのだ」と言う。

そして「まあこの酒の精霊はあそこにいるな」と言って岸とオレに杯を向け、みんな笑いながら乾杯する。「エビス屋に」ってな。


和さんの彩はそんな店なんだ。みんなそれぞれ自分だけの綺麗な彩を持っている。オレの彩が一番きれいだなどと主張するヤツはいない。お前の彩は醜いなどと言い放つヤツもいない。みんな他の人が持つ彩を見つめそれを尊重するんだ。みんな他人の彩の美しさを理解しようとするんだ。


そんな店でなんで1警官だが私服の田中がいるんだ?なぜこの大家の席に座っているんだ?

で、岸はもう座っている。え?オレが田中の隣に座るのかよ、ふざけんなよ。

後藤はその席に座るのを少しでも遅らせるべくビールを注ぎにサーバーに向かった。

「ジョッキか?グラスにするか?」岸に聞いた。

「寒いしグラスにするかな」岸が答えた。

後藤は岸の分のビールを細めのグラスに注ぎ岸の前に置いた。そして言った。

「あんたは?」だが反応は無かった。

「あんたは?」もう一度言った。今度は「お前に言っているんだ」という口調で。

それを察した田中が後藤に振り返った。そして岸と和さんもオレを見た。

岸は少し驚いた感じだったが和さんは明らかにオレを咎めるような目つきだった。

田中は自分のジョッキを掲げ控えめな様子で「まだ大丈夫です」と答えたが和さんは「ナオキ!」と叱りつけてきた。

いや、目上の人に対してオレがこんな態度を取るのを和さんが怒るのは分かるさ、ここは和さんの店だからな。

でも今日は和さんがオレ達を呼んだんだぜ。呼ばれてきてみりゃ昨日一悶着あった警官がいる、偶然なわけはない。和さんだって何か含みがあってオレ達を呼んだんだろ?それならオレだって拒否する権利くらいあるぜ。

オレは自分の分のビールをジョッキに注ぎカウンターに置いた。椅子には座らなかった、そんなのはゴメンだ。偶然だっていうならせめて席を一つ開けて座るべきだろ。隣に座るなんて冗談じゃあない、オレが帰るかお前が帰るかだ。

「で、なに?」と立ったまま聞くと田中って警官は少し驚いたようにオレに向き直った。岸と和さんが様子を見守っている。和さんは少し不安そうだったが岸は他人事の様にビールを飲んでいた。

「いえ、謝りに来ました」田中は言った。

「なにを?」オレは立ったままジョッキを手に取りビールをあおった。

「いえ、昨日のことです」田中は頭を下げた。

「で?」そう返すオレに田中って警官はさらに深く頭を下げた。

「昨日はお仕事の邪魔をして申し訳ありませんでした」

なるほど、それは分かった。まあそれはいい。でもこんなところまで何しに来たんだよお前。仕事の邪魔をした謝罪をするためだけにここに来たのか?

「で?なに?」さらに詰めようとするオレに和さんが割って入る。

「ナオキ、もういいじゃねえか」

そうはいかない。謝るためだけにここに来たのか?警官が職務質問でちょっと不遜な態度を取ってしまったから謝りに来る?そんなわけないだろ。

それは和さんだって分かっているんだろう、腑に落ちない部分はあるんだろう。和さんの口調は田中をかばうわけでもオレを強く諫めるでもなかった。

田中は一度和さんに目を向けてからオレを見た。そして意を決したかのように唇を噛みまた深く頭を下げて言った。

「近々昇進試験があるんです」

だからなんだよ、オレの知ったことじゃない。オレはそう思ったが口には出さずに田中の次の言葉を待った。田中はオレの顔を見て、これだけでは何も問題が解決していないことを悟ったんだろう、言葉を続けた。

「だから監察への苦情は出さないで欲しいのです」田中はそう言ってオレの顔を見た。その真意を少し理解したオレは答えた。

「いや、出してませんけど」田中のどこか実直さを感じたオレは自然と口調が変わっていた。田中は少しホッとした様子で説明を続けた。

「次の昇進試験の前に監察に苦情が入ると非常にマズいことになるんです、もちろん私にです」

和さんは既に田中の話など何も聞こえてはいないかのように次の調理に取り掛かっていた。


田中は全てを語った。もちろん渡部との取り決めや鈴木巡査がなぜ絡んだのかは口にはしなかったが。

次の昇進試験に人生がかかっていること。昨日の件で苦情を出されたらそれが閉ざされること。だから監察への苦情は止めて欲しいということ。田中はほぼすべてをさらけ出し後藤を見上げた。


そんなことを言われたらオレの本心を言うしかないだろ。

「そんなこと言われても・・・・」

田中の手が少し握られた。「もう通報しちゃったし」オレがそう言うと思ったんだろうな。でもなオレは思ったことそのまま言ったぜ。

「監察がどこにあるのかも知らないし、通報の仕方も知らないんです、するつもりもなかったですよ」

田中は心底ほっとした様子でオレを見上げた。

「座れば?」問題は解決しただろ?とばかりに岸が言った。

ああ、そうさせてもらうぜ。オレが椅子に座りジョッキを手にした。

田中は後藤に向き直り両手を膝に置いて深く頭を下げた。

「次の昇進試験は本当に人生をかけているんです、どうかお願いします」

「大丈夫ですよ、言い付けたりしません。やり方を教えてくれるって言うなら別ですけどね」オレは答えた。

田中はオレと岸を見て続けた。

「後藤さん、岸さん、誠に申し訳ありませんでした」そう言って何度目か分からないが深く頭を下げた。

オレはカウンターに肘をついて田中さんを見つめた。

「それはもういい、だが大事なことを言っておくぜ」田中は急に厳しい口調に戻ったオレに面食らったようだったが、オレは後ろを指さして言った。

「こいつは岸でいいけどな、オレはナオキだ。」間をおいてさらに続けた。

「ね?間違っても後藤さんとか岸さんなんて呼ばないください。これからもこの店に来るのならですが」オレはフっと笑って、分かってもらえましたか?と首を傾けた。

田中はビックリしたようにカウンターの和さんを見た。和さんは無言で「これからもよろしく」と小さく頷いた。

田中は今日初めての笑顔で後藤に右手を差しだした。

それは違うな。ここは飲み屋なんだぜ。

オレはその手を握らずにジョッキを掲げた。

「何にだ?」岸が言う。

「そうだな、田中さんは昇進試験で何になるんスか?刑事さんとか?」

「いえ、刑事になる予定ではありますけど、刑事という役職はありません、警部補になります」

「うーん、その敬語もやめて欲しいんスけど。まあ、田中さんの警部補昇進に!」三人は杯を重ねた。

そして三人の談笑が始まった。

「あのもう一人の警官には歯を磨く様に言っておいた方が良いですよ」とオレが言うと岸が背中を叩く

。そして田中さんがすまなそうに「すいません、言っておきました」と言う。

「しかし違反もなかったはずだし、なんでまた?」後藤が聞くと田中は言いづらそうにしていたが後藤が首をゆっくりと傾げると田中は諦めたように、そして申し訳なさそうに言った。

「あんまりゆっくり走っているもんだから・・その・・。」

「制限速度を守ってゆっくり走っている奴は、逆に怪しいってことですか?」

「いや、まあその・・」

おそらく後藤の言う通りなのだろうがまさか警察官の口からそれは言えないのだろう。

すると今度は岸のヤツが言った。

「田中さんはだいぶワインが好きみたいですね」

「え、えぇまあそうですね、でもなぜ」わかったんですか?と田中は少し困惑気味だった。

「そりゃあねえ・・」と岸が言いオレの背中をつついた。あんたの部下は口が臭いというオレは中々に失礼だが、お前が言えよとオレの背中をつつく岸もヤツも相当だぜ。まあ言えっていうなら言ってやるがな。

「田中さんさ、あのバケツの雑巾を味見したかったんじゃないっスか?」

田中は、イヤまさか!と手と首を振って全力で否定したが少し赤らんだ顔でそう言っても何一つ説得力が無いんだな。

「田中さんはワインが好きなんですねえ」とオレが言うと岸のヤツが余計なことを言う。

「お前より詳しいと思うぞ。田中さん、こいつ貴腐ワインを岐阜のワインだと思ってたんですよ」

田中の頭の中で貴腐と岐阜がすぐには繋がらなかったようだが少しの間をおいて驚いた様子でオレを見た。

「え?お二人は酒屋さん・・ですよね?」

ああそうだよ!酒屋のくせに貴腐ワインも知らねえよ!でもそんなもん誰が注文するって言うんだよ!ウチの客にそんなもんを注文してくるような小洒落たワインバーなんかいねえんだよ。オレはそう言おうと思ったが釘を刺すような和さんの言葉に遮られた。

「こいつはヴーヴクリクォのヴーヴをベイブ、赤ん坊だと思っていたんですよ。結婚パーティーで出す酒だってのに・・・」

途端に田中と岸が驚いた顔で後藤を挟み込んだ。

「お前マジかよ」

「いや、それはちょっと・・・」

「なんだよ!フランス語なんてしらんねえもん!ベイブじゃなかったら何だよ!」

呆れかえり言葉もない二人に代わって和さんが入ってきた。

「お前はもう少し酒の勉強をした方が良い。言ったよな?結婚パーティーで出すシャンパンなんだぞ」

「なんスか和さんまで!ワインの銘柄なんか一つ一つ覚えてられませんよ!」

「あのな、ベイブじゃなくてヴーヴだ、意味は知っているか?」

「・・知らないっス」

「未亡人だ」

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