余談。
第四話に一瞬出てきた太陽軒の岡持ちの女の子のバックグラウンド。イラスト(もちろん有料)を描いて頂いたので。イラストはXに上げてあります。
楊恵華
北浅草の町中華【太陽軒】の二階に住み込み店を手伝う台湾人女性(24歳)
両親の愛情と祖父母の知恵を一身に受け台湾語と台湾中華語に英語も操る立派なアニメ好きに育つ。
特に日本のアニメが大好きでマストなアニメはジョジョ。
知人を頼り語学留学という形で来日したが本当のところはジョジョシーズン4を絶対に日本で見たかったから。億泰我喜歡它。
もちろん日本語学校に通っている。
ある日、学校の授業を早めに切り上げ昼食を何処でとろうかと探していた時に楊の目についたのが「営業中」「味じまん」のノボリが出ていた【中華料理 太陽軒】だった。
つい坊主頭の4頭身キャラを思い浮かべてしまうのはアニメ好きのサガなのだろう。しかし足を向けたのは大間違い。
引き戸を開け暖簾をくぐった先は薄暗くどことなく汚らしい店内。マンガやアニメには少しも興味がなさそうな老夫婦が二人で営む店のようでニコニコしたお婆さんに優しく「いらっしゃい」と言われてしまうと、間違えましたと踵を返せるほど楊は強気な性格でもなかった。何をどう間違えたといえば言いのか、仕方なく促されるままにカウンターに座りメニュー見る。
そういえば楊は日本に来てから中華料理を口にしたことは一度もなかった。日本人が海外に出向いた時にわざわざ蕎麦やウドンに惹かれないのと同じで楊も日本の中華料理に惹かれることはなかった。それに日本食には美味しいものがたくさんある。天丼カツ丼親子丼、寿司に天ぷら蕎麦うどんといった和食は勿論、洋食と言われるナポリタンにエビフライ、ポークジンジャーにオムライス。極めつけは不安になるほど安いミラノ風ドリア。
それだけではない、街なかの小さなパン屋さんやお弁当屋さんも侮るなかれ。唐揚げ弁当に海苔明太、揚げたてのカレーパンと焼き立てのクリームパンがあったらどちらか一つは選べない。ケーキ屋さんも常にチェック。でもケーキを買いに行く時はグーグルマップやグルメサイトで買うケーキをしっかりと決めてから。そうしないとショーケースに並ぶ綺麗で可愛くて美味しそうなケーキの中から一つを選ぶなんて無理。ケーキ屋さんに入ったら余計なものは見ないようにして決めておいたケーキを頼む。しかし新メニュー!のポップを見てしまったのなら仕方がない、明日のジョギングを3キロ増やすこと。
食べたい日本食は星の数ほどある。アレも食べたいしコッチも食べたい。でも食べることが出来るのはどちらか一つ。大食感などではないごく普通の台湾生まれの女の子、それが楊。
一番好きな日本語はハンブンコ。焼き立てクリームパンをシェア出来る友人を何よりも大事にする24歳の台湾育ちの台湾女子、それが楊恵華。
でもこの店は……。
カウンターの向こうのお爺さんはマスクの下で渋柿でも齧っているかのような視線を向けてきていた。
楊は思わずメニューに逃げる。
もしかしたらこのお爺さんは中華の達人、特級厨師なのかもしれない。ここは日本だ、何があってもおかしくない。しかし楊はメニューを一目見ただけで一瞬でその可能性はゼロだと分かった。
「餃子380円」
これだけでこのお爺さんはが作る料理は中華料理などと呼べるものではないことが分かる。
中華料理に餃子というメニューは無い。餃子は中華料理の1ジャンルだからだ。例えるなら日本の定食屋のお品書きに「丼380円」と書かれているようなものだ。お洒落なカフェのメニューに「ケーキ380円」と書かれているようなものだ。
一口に餃子と言っても水餃子に蒸し餃子、焼餃子に揚餃子だってある。楊の一番はほうれん草を練り込んだ皮で海老を包んだ水餃子、ツルンと食感から美味い翡翠蛯水餃子。生姜を効かせてよく煮込まれた豚肉にたっぷりのネギを加えた餡を分厚い皮で包み金魚の形の蒸し餃子、食べごたえ抜群モチモチ魯肉餃子も捨てがたい。台湾人は餃子に、いや点心にうるさいのだ。
仕方がない。もう餃子でいい。
もう一つ、メインはどうせならいっそのこと中華料理とは思えない物を頼もう。そう思うとそれはすぐに見つかる。
「中華丼」だ。
全く意味がわからない。日本定食、イタリアンパスタと言われてもわからないだろう、それと同じことだ。
楊はお冷や持ってきたお婆さんに餃子と中華丼を頼んだ。
今日は記念日になるかもしれない。日本に来て初めて食事でガッカリする日。
楊は店内を見渡した。なぜ照明を点けないのか、店内は実に薄暗い。
すぐに餃子が出来上がりお婆さんが小皿と共に楊の前においた。
焼餃子。台湾で焼餃子と言えばしっかり焼いた棒餃子なのだがこの餃子は片面しか焼いていない、手抜きなのだろう。楊は傍らに置かれた小皿に卓上に並んだ全ての調味料を入れた。醤油、お酢、胡椒にラー油。少しでも味を誤魔化せれば。そう思った。
楊は諦めてたっぷりと小皿のタレに漬けて餃子を一つ口にする。
ん?んん?
不思議な食感だ。焼き目はカリッとしているのに全体的にはモッチリと蒸し上げられている。
中華の技法は大まかには5つ、炒め、蒸し、揚げて、焼き、煮る。
細かく見ればもっとあるのだが。
この餃子は蒸すと焼くの2つの技法をうまく使いまとめ上げられている。カリッとした焼き目を味わったあとのモチモチした食感は素晴らしかった。中の餡も良い。豚肉がメインだろう。そこに白菜と韮、たっぷりの大蒜に僅かに生姜の香りもする。蒸すと焼くという二つの技法を使った中華料理、台湾にこんな中華はあっただろうか?いや、あるにはあるがこんな不思議な餃子は食べたとこが無かった。
楊は思わずカウンターの向こうにいるお爺さんに言った。
「ヘンハオチー!」
お爺さんは少し首を傾げ怪訝そうな顔を向けた。
楊はすぐに言い直した。
「美味しいです!」お爺さんの口から渋柿が除かれたようだがまだ笑顔ではなく楊に聞き返した。
「中国から?」
「いいえ、台湾は来たです」楊は美味しさから生まれた笑顔で答えた。
お婆さんが深めの皿に盛られた料理とスープの入った小さな椀を楊の前においた。
「あら、台湾の方なのね、お口に合うかしら」
「今うめえって言ってくれたよ」お爺さんが答える。
深皿に盛られた料理はご飯に赤い餡掛けがかけられた物だった。台湾にもこういった料理は多いがどちらかと言うと餡掛けご飯というより汁かけ飯と言った感じの物が多い。
具材は白菜や人参、たけのこに木耳、豚肉も入っている。チョコンと1つ置かれたウズラの茹で玉子が実に可愛らしい。
不安は期待に変わっていた。楊はレンゲを手に一掬い口に運んだ。あっさりしているが旨味が強い。火加減抜群の白菜も豚肉も美味しい、色々な具材が入っているのも良い。添えのスープも美味しかった。もはや日本食と言われても何も反論できないほど美味しいラーメン屋の味に似ていた。
「美味しいです、とっても!」楊は味わったままの感想を口にした。
お爺さんはマスクをしたままだったがその下は甘い干し柿を口にしたような笑顔になっていることはわかった。
楊はあっという間に食べ終えた。これは中華料理ではない。だがとても美味しい。これが所謂「町中華」と呼ばれる日本食の1つなのだと楊が知るのはもう少しだけ後の事だ。
楊はメニューに手を伸ばす。
「まだ食べるの?」お婆さんが言い、お爺さんは苦笑いする。
「まだきます、まだの時の決める」
楊のまだつたない日本語の意味を理解したお爺さんは嬉しそうな顔をしたが、申し訳無さそうに言った。
「嬢ちゃん、悪いけどもう閉めるんだ」
「閉める?」ああもう閉店だから暗かったの?だからお客さんが1人もいないのか。私は今日の仕事を終えたと思ったところに来てしまったのか、申し訳ないことをした。楊はそう思った。
「あぁ婆さんを出前に出すのもしんどいんで、店ぇ畳もうと思っているんだよ」
畳む?出前?
楊はまだ勉強中の日本語でなんとか意思の疎通を図ろうとした。
その結果わかったのはこの店はもうすぐ閉店するということだった。
お婆さんが歳で出前に行くのが大変だからとお爺さんが心配していた。長年この町とやってきて出前も出せないのでは潮時だろう、と。
それは実に残念だがしかし、今日はまだ閉店してもいないのならなぜこんな美味しいお店に客が1人もいないのだろうか?そしてなぜこんなにも薄暗くしておくのか?それを聞こうとするとお婆さんが店の中の照明を点けてから暖簾を店の外にかけた。途端に数人の客が待ってましたとばかりに入ってきた。
楊は理解した。日本の暖簾と言う物を。
しかし店を「畳む」のは止めてほしい。楊は抵抗した。その結果、楊は太陽軒で働くことになった。時給は800円。昼の11時から2時、夜の7時から10時までの計6時間。1日800円✕6時間をお婆さんが5000円にしてくれた。
そして楊は友人宅の居候を止め太陽軒の2階に住むことになった。そこは風呂トイレが共同の二所帯の賃貸だったが老朽化もあり今は貸し出してはいない。つまり楊は2世帯分の部屋と広いお風呂にトイレのある余裕のある世界をタダで独り占めすることになった。
昼は楊が出前に走りお婆さんは接客のみ、夜はお婆さんはお爺さんを手伝い明日の仕込みをし、楊は接客と夜は少ない出前に走る。
そして楊の昼食と晩ごはんは太陽軒の賄いで済ますことになった。中華丼は確かに美味しかったし、台湾人には中華丼と同じくらい謎のメニューである天津丼も美味しかった。これはカニ入りの卵焼きにスイートチリソースのような餡がかけられた丼物だった。もちろん町中華の一つだった。しかし楊が一等だと思ったのは炒飯だった。台湾中華の炒飯とは全く違う。中華炒飯で五目炒飯と言えばニンジンやエンドウ豆入りのミックスベジタブル炒飯が一般的だが太陽軒の五目炒飯はエビや丸太のような卵焼き(伊達巻と言うらしい)や、相変わらず可愛らしいウズラのゆで卵や太陽軒自慢の叉焼(一般的な日本の茹で豚肉ではない中華寄り焼き締めた物だ)の乗った豪華なものだ。
どちらが上かと言いたくはないが、五目炒飯に関して言えば太陽軒の方が上だろう。
さらに言えばまず米が違うという事が分かった。台湾炒飯と日本の町中華の炒飯のどちらが上と言う事ではないが日本のお米はそれ自体が本当に美味しいのだ。日本の石垣島と緯度を同じくする台湾の米は蓬莱米と呼ばれ、日本人が慣れ親しんでいるジャポニカ米と東南アジアのインディカ米の中間種と言った感じの物だ。
米文化のアジアの中でも日本の定食と言った外食文化は珍しい。日本以外でも白飯とオカズが別になっていることはあっても汁気の多い炒め物などを白飯に吸わせて一緒に食べることが多い。台湾名物ルーローハンなどがそうだ。しかし日本の「定食」はオカズと白飯が完全に別になっている。日本の白飯はそれだけで美味しいからだ。
楊は日本のコンビニおにぎりも好きだ。ローソンの鮭ハラミは絶品だし711のホタテ飯も良い!だが一番驚いたのは塩むすびだ。
なにも入っていない。味付けは塩だけ。これがカップヌードルとよく合うのだ。これが不思議と美味しい。蓬莱米ではこうはいかないだろうし仮に台湾で塩むすびを売っても絶対にすぐに消えるだろう。
日本は米が美味しい。これは紛れもない事実だ。
その上で太陽軒では炒飯用のご飯と、定食用のご飯を別に炊いている。炒飯用のご飯は少し硬めに炊いているらしい。
スープも鶏ガラや何やら乾し魚などで作り上げられているようだ。太陽軒の老夫婦は隠すことなく楊の前でこういった作業を行った。
楊は秘伝のレシピを見せて大丈夫でですか?と聞いたが老夫婦は何ら気にも留めずに楊に全てを見せた。楊にできるわけが無いだろうと思ったわけではないのは明らかだった。そんない難しいことはしていない。ただ煮るだけだ。
そして老夫婦が営む北浅草の町中華、太陽軒ではチップが横行するようになった。カタコトの日本語を話し老夫婦を助けてくれる台湾女子がこの店に慣れ親しんできた地元の人々から大人気になったからだ。皆、この店が無くなることを残念に思っていたのだ。この店はそれほど愛されていた。
楊は貰ったチップを老夫婦に差し出した。しかしお爺さんはこの店を何十年もやってるがチップなんぞ貰ったことはないと言い、お婆さんはケイちゃんが可愛いからよと言い(楊は恵華の恵の日本語読みで皆にそう呼ばれた)老夫婦はそれを1円たりとも受け取ろうとはしなかった。
楊は申し訳なく思ったがお金は大事だ。楊には夢がある。夢の実現にはお金がかかる。
楊の夢、それは大好きなアニメをもっともっと勉強し台湾でアニメに関係した会社を立ち上げること。
もう1つは日本の町中華を教えてくれて、海外には行ったことがないと言う太一お爺さんと、陽花お婆さんを台湾に招待し台湾料理の真髄、台湾屋台飯を堪能してもらうことだ。
お婆さんの声がかかる。
「ケイちゃん、浅草寺交番までお願いね!」
楊考案のニンニク抜きのベジ餃子。浅草寺交番でこれを頼むのは谷さんだ。
楊は岡持ちを手に出前に走った。




