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第九話 和さんの焼き鳥

田中は進んではならない一歩を踏み出した。進むべきではなかった道へと歩み出した。

黒いタイルと薄汚れた白い壁は、田中の運命を暗示していたのかも知れない。

田中はビルに挟まれた薄暗く細い隙間道を進んでいった。


薄暗い隙間道を抜けたその先は明るくて人々が酒と食事を楽しんでいるようだった。

店内と言う感じではなく道路にパイプ椅子やキャンプで使うような簡易的なテーブルを置き、瓶ビールのケースまでが椅子やテーブルとして使われていた。

そこにいたのは10人といったところだろうか。

黒、白に赤に黄色に茶色。おそらくはすべて外国人だった。

料理とお銚子にジョッキとグラスが置かれた小さなテーブルを前にパイプ椅子に座る大福のような白い肌と日本でなら天パーと言われるだろうクルクルッとした金髪の男性はおそらくフランス人か。同じテーブルには艶のある黒髪にやや茶色い肌、刷毛のような立派なまつ毛のおそらくアラブ人と思しき女性と、黒髪を綺麗に撫でつけて掘りの深い目元と同じくらい色っぽい顎を持ちモデルのような体形のイタリア人男性が座っていた。

その横のテーブルにいる銀と言っていいほどに輝く長い髪をなびかせる女性は北欧系だろう、その前には笑顔で楽しげにしてはいるがそのいかつい目が笑顔の一部になることはなさそうなおそらくドイツ人の男性。ウォッカのボトルを乗せたビールケースを挟む様にスラブスクワットでしゃがんでいるアディダスのジャージの男女は間違いなくスラブ系だ。二月の夜の寒さなど少しも感じさせないひときわ輝く笑顔で今にも踊り出しそうなラテン系の女性もいる。その横にいる闇に溶け込むような肌をした黒人の国籍は想像もつかない、ケニヤ人かもしれないしアメリカ人かもしれないしフランス人かもしれない。

そんな中、ひときわ小柄で見るからに東南アジア系のこげ茶肌だか妙にごつい体格の男性もいた。

祖父から受け継いだ年季の入ったコードバンの財布のような肌を持ち立派な口ひげを蓄えた男性はネイティブアメリカンだろう。二十代から三十代のバックパッカーの集団と思しき中では異色の存在で50か60過ぎと思えたが偉ぶる様子も周りから距離を置かれるような雰囲気も全くなく不思議とその場に溶け込んでいた。

そのうちの一人が新たな客である田中に目を向けた。酒と仲間との談笑を楽しむ風だったその顔は途端に怪訝そうな表情に変わった。それに釣られる様に一人、また一人と田中に目を向けた。みな最初の一人と同じように楽し気な表情を怪訝そうな視線に変え田中に向けたがすぐに手にした酒を共にする者達との賑わいに戻った。

だが、東南アジア人と思しき男だけはその視界の隅で田中をチクチクと刺し捉え続けていた。


田中は浅草の警察官の習性とでも言えばいいのか、その場の外国人を一通り見定めた。横を向くと店内とは言いにくい椅子が四つしかない小さなカウンターの中で調理に没頭する店主らしき人物。そしてその前に座る二人のおそらく日本人の老人。一人は80近いと思える老人。もう一人は70前後と言ったところだろう。

田中は少しホッとしてカウンターに歩みを進めた。カウンターの中にいた恰幅の良い男性はすでに田中の来店に気が付いていたようだったが、カウンターに座る二人の老人は田中の事などまるで気にせずに何やら言い争いを続けているようだった。


田中はここが普通の居酒屋でないことは既に察していた。このカウンターに座る二人の日本の老人と、道路で酒を楽しむ外国人たちの間には目には見えないがお互いを遮断する何か障壁があるようだった。

田中はカウンターを目の前にしたがすぐに座ることはためらった。

普通の居酒屋ならとっくに「いらっしゃいませ」と言われ座るべき席に案内されているはずだった。

だがカウンターの中の店主は田中に気が付いているだろうに黙々と目の前の焼き鳥に集中し田中を無視していた。

「あの、ここいいですかね?」

田中が四つしかないカウンター席で奥の二つに座る二人の老人に一つ間を開けた手前の席に手をかけ店主に尋ねた。

店主は今初めて気が付いたとでもいう風に顔を上げて田中を見つめた。カウンターの奥に座る二人にチラと目を向けたから田中に向き直り、椅子を顎で示しながら「どうぞ」と言った。

田中は無事に席についたが肝心な物が無い。メニューが無かった。二人組の老人に目を向けてもその手元にはそれらしき物はない。先ほど見渡した外国人達の手元にもメニューらしきものはなかった。この手の居酒屋によくある壁に貼られた手書きのメニューと言った類の物も一つもない。


二人はまだ何か言い争っているようだった。

「なんだこれ?ショボい指輪だな五万で買ってやるよ」そう言う手前の椅子に座る老人は80手前くらいか。

「五万!?冗談じゃない!!返してください!!」そう憤る奥に座る老人は70前後か。

手前の老人が握る手を奥の老人が必死に両手でこじ開けようとしている。二人の老人はオモチャを奪い合う子供のようなやり取りを続けていた。

「いてっ!!なにすんだ砂!」

「なにじゃないでしょ!返してください!」

「いてえよ!離せ!」

「離すのは佐川さんの方でしょ!」

「いてえなぁ!ほら」佐川と呼ばれた手前の老人が何かを投げ捨てると奥の席に座る砂と呼ばれた老人が椅子から跳ね飛ぶように床に這いつくばり必死に何かを探し始めた。

「どうせ俺の仕事でくすねたんだろうが」佐川が床に這いつくばる砂を見下すように吐き捨てた。

「仕事ぉ?冗談じゃないですよ!奥多摩の山奥まで行かされたのに結局なにも貰ってないですよ」

「あぁ?長野?」

「そうですよ、丸一日かかったんですから!ああ、よかったあったぁ」砂と言う老人がやっと落とし物を見つけたようで宝物のように大事にポケットにしまい込み、再び席についた。

「長野?ああ仲田のやつか。あいつのせいで何もかもダメになったんだ!おれがこんなショボい店で飲んでるのも全部あいつのせいだクソ!縁起わりいいらねぇそんな指輪」

「いらないも何もあげないですよ」

「うるせえ!!」


子供の喧嘩のようなやり取りがやっと落ち着いたようだがメニューも何も見当たらないことに困惑しきりだった田中に店主は焼き鳥から目を離さず「ビールでいいかな?」と言った。

「あ、お願いします」田中が答えると店主はこちらに顔を向けるがその視線は田中の後ろに向けられていた。

「グェン、ビールを入れてあげてくれるか」

田中が振り向くとすぐ後ろに先ほどから首筋に棘がチクチクするような視線を向けてきていた東南アジア人が立っていた。身長は160を少し超すくらい言ったところだろう。椅子に座る田中とあまり変わらない高さで視線が交差していた。小柄ではあるが体格はだいぶ立派なようで作業着のようなシンプルだが頑丈そうな厚手の防寒ジャケットを着ていても肩周りの肉付きの良さは少しも隠れていなかった。ここが日本の浅草ではなくアメリカのニューヨークだったなら用心棒に見えただろう。

田中は(この東南アジア人は客ではなかったのか?)と訝しんだ。

グェンは店主に対して「なんでおれが?」と非難めいた視線を向けたと思ったが違った。田中に「なんでこいつに?」という睨みつけるような視線を刺してきた。

「頼むよ、な?」店主が言うとグェンと呼ばれた東南アジア人はチィッとハッキリと田中に向けて舌打ちしてから田中を刺すような視線をガムテープでも剥がすかのようにやっと外してくれた。

グェンはカウンターの脇にしゃがみ込むとケースを開けビールジョッキを取り出し立ち上がり、ケースの上に置かれていたビールサーバーでジョッキにビールを注ぎ始めた。

「おう!にいちゃん!俺にも頼むわ!」カウンターに座る二人の老人のうち八十弱と思しき佐川と呼ばれていて老人がビールを注ぐグェンに空になりかけのジョッキを掲げた。

「佐川さん・・」店主が軽い非難めいた視線を向けた。

「いや、松さん俺がやりますから」カウンターに座るもう一人、砂と呼ばれていた老人が店主に向けて言いながら慌てて席を立った。

グェンは佐川と呼ばれた老人を薄く睨みながら手にしたジョッキをビールで満たし田中の前に置いた。

「どうも」田中はそう言ったがグェンは田中に一瞥もくれずに背を向けカウンターから離れて行った。

もう一人の方の老人、砂がグェンと同じようにジョッキを取り出しビールサーバーで中身を満たし佐川の前に置き、再び席についた。

「松さん困らせちゃだめですよ」

「うるっせぇ!」

また子供の喧嘩が始まるかと思ったが二人の老人はそれ以上は騒ぐような真似はせずに静かに飲み始めた。


田中はやっと落ち着けたかと思いジョッキに手を伸ばしたが、スーパードライと書かれたジョッキの中身は7割ほどが泡で満たされていた。

(これは?)と田中が思ったところで松と呼ばれる店主は苦笑いしながら田中を見ていた。

「ウチはセルフサービスってやつなんですよ、次からは自分でお願いしますよ」

田中は困惑気味に頷きながら「メニュー・・は?」(どこですか?)と聞くと奥の席に座る砂が声をかけてきた。

「メニュー?そんなもの無いですよ。でも大丈夫、松さんは何を作らせても美味いですから」

(料金は?)と訝しむ田中の背後に再びグェンが立っていた。全く気が付かなかったがその手には小さな木箱があった。

「ああ、ありがとう」松はグェンに向けてそう言ってから田中に伝えた。

「ウチに来たらそこに千円でも入れてください。で、酒を飲んで何か食べてね、また来たいと思ってくれたら帰り際に駄賃でも入れてください。ウチはそういう店です」


千円?スーパードライの生ビールをジョッキで二杯も飲めば元が取れるだろう。田中は手元の泡だらけのジョッキを見て三杯ならと修正したがそれにしても安すぎるんじゃないか?と思った。田中が財布を取り出し千円札を箱に入れるとグェンはビールサーバーの向こう奥に箱を置いてから道路に置かれたパイプ椅子に戻っていった。


また来たいと思ったら金を入れてくれ・・。随分と自信を持っているようだが客のほとんどはあまり金を持っていなさそうなバックパッカーにしか見えない外国人ばかりだ。リピーターとして期待できるとはいいがたい客ばっかりという事だ。つまり・・・。


「焼き鳥、どうですか?」松が焼きあがったばかりの焼き鳥を乗せた皿を田中に差し出してきていた。

「いただきます。どうも」

田中は軽く頭を下げ謝意を示しつつ松が差し出した皿を受け取った。皿にはタレの絡んだ鶏皮、つくね、ねぎまが二本ずつ乗っていた。

客は日本の老人二人と金に厳しそうな外国人。つまり、この焼き鳥には大した期待は持てないという事だ。見た目では判断がつかないが、おそらく安く脂ぎったブラジル産の鶏肉を濃いタレでごまかしたような代物だろう。

「おーい!焼き鳥上がったぞー!」松が大皿に焼き鳥を盛りつけながら外に向けて声をかけると道路にいた外国人たちが一斉に振り向き幾人かが歓声を上げた。一人の外国人が待ってましたとばかりにすぐさま立ち上がりカウンターに来た。

「焼き鳥ぐれぇでうるっせぇなぁ、貧乏外人どもが!帰るぞ」佐川は顔をしかめて立ち上がった。

砂がその背に「どうぞ」と言うと佐川は振り向き「あぁん?」と砂を睨みつけたが舌打ちをしただけで歩み始めた。

佐川は田中の前に置かれた皿に手を伸ばしねぎまを一本手に取った。

「え?」困惑しながら振り向く田中に見せつける様に佐川は串の先端に刺された鶏肉を口にし「まじぃな」と残った食いかけの焼き鳥は皿に放るように返した。

「佐川さん!」松が咎めるように言ったが佐川は気にも留めず「今日もマズかったぜ」と捨て台詞のように吐き捨ててそのまま店から去っていった。

「すいませんね、難しいお客さんでして」松が田中に手を伸ばしてきた。食べかけになった焼き鳥の皿を戻せと言ってるのだろう。

「いや!俺が貰いますよもったいない!」奥の席から砂が寄ってきて田中の隣に座ると焼き鳥を自分の前に引き寄せた。

「砂場さん?」松がどこか凄みのある声をかけると砂は小さく「あっ」と言って焼き鳥の乗った皿を抱えるように持つと奥の椅子に戻っていった。

松はそれを横目に見ながら二枚の大皿に焼き鳥を盛り終え、外国人に渡した。二枚の大皿を両手に戻る外国人に道路にいた全員が「早く持ってこい」「ここに置け」と言った視線を向けていた。

ウェイター役の外国人が特権とばかりにこれ見よがしに手にした皿の上でその匂いを堪能するように顔を振ると幾人かがブーイングを飛ばした。

「松さんの焼き鳥はうまいですからねえ」奥の席から砂場が田中の背中に声をかけた。

田中が振り向くと砂場は手にした鶏皮串を皿の上のタレにたっぷりとこすりつけてから口に運んだ。砂場は口内を見せつける様にクチャクチャと食べ始めた。わざとではないだろうがいい気分にはならない。少なくともうまそうに見えることはない。

「すいませんね、これで」と松が再び焼き鳥の乗った皿を田中に差し出した。ねぎまは二本だったが鶏皮とつくねが一本づつに減っていた。

「テリヤキ」が日本の味と思っている外国人と味覚の鈍った年寄りは、脂ぎったブラジル産の鶏肉をタレの濃さで誤魔化す焼き鳥が大好物なのだろう。そういうアテは酒も進むものだし安酒にはもってこいだからだ。


田中にとって前に置かれた皿は試練だった。ダメもとでもこの松と言う店主から後藤の事を上手く聞き出さなければならない。そのためには試練を口にしないわけにはいかないだろう。

だが少しでも先送りにしたいし口中を洗い流す物を用意しておく必要がある。その思いからか田中は泡だらけのジョッキを傾けて空にすると再びジョッキを満たすべく席を立った。

飲み干すたびにジョッキを変えるのはおそらくこの店ではマナー違反だろう。田中は泡が多くこびりついたままのジョッキに自分でビールを注いだ。それなりに上手くできた。

ビールに満たされたジョッキを手に席に戻り焼き鳥を見つめる。脂の塊であろう鶏皮は幸いにも一串だけだ。意を決すべく自分で注いだビールを口にする。


ビールは予想外にまともだった。

いや、うまい。

こういった安さを売りにするような店ではビールサーバーの手入れを疎かにしていることが多い。ビールと言うのは麦から、つまり穀物から作られている。当然腐りやすい。柑橘系の缶チューハイの空き缶よりビールの空き缶の方が強い腐臭を発するようになる。

ビールを注ぐ装置であるビールサーバーは頻繁に手入れをしなければ内部に残ったビールが腐敗し、当然そこを通って出てくるビールもその影響を受ける。マズくなるという事だ。

だが田中が口にしたビールはそんな腐臭やカビ臭さは全くなかった。


うまい。発泡酒ではない。うまかった。

スーパードライのキリッとした飲み干すと言う感じではなく、重い、いや深い味わいのあるじっくりと飲むビールだ。サントリーのモルツ?いや、キリンの一番搾りだろうか?と田中は思ったが手にしたジョッキにはアサヒスーパードライと書かれている。

もう一口飲んだ。田中はビールには詳しくはないがスーパードライではないと思えた。もう一度ジョッキを見つめた。当然そこにはSUPER゛DRY゛と書かれていた。

「エビスですよ」

困惑顔をしていた田中に気が付いたのか、松が忙しそうに鍋を振りその横のフライヤーではなにやら揚げ物を作りながらカウンターの中から声をかけた。田中は相手の忙しそうな様子を見て、このままかまにかけて後藤の事を聞き出そうとも思ったがそれはどこか失礼である気がして焼き鳥に目を落とした。そもそもいきなり一見の客が出入りの酒屋の事を聞いたところで「ハイどうぞ」と教えてくれることは無いだろう。しかしそれでも自らその可能性を狭めるようなことはしたくはない。田中は小さく息を吐いて意を決した。


脂の塊の鶏皮はキツい、つくねも得体が知れない、となるとねぎまだろう。

田中はねぎま串を手にした。二切れの鶏肉と小口に切られた二つのネギが交互に刺されていた。鶏肉はまだしもネギがマズいという事は少ないだろう。鶏肉を口にした次は微かな休息を得られるという事だ、ネギも好きではなかったが脂ぎった鶏肉よりはマシだろう。

田中は諦めてねぎま串の最初の鶏肉を口にした。しつこい脂とみたらし団子のタレのような甘さが口に広がると覚悟してビールで流し込むべくジョッキを手にしていたが、そんな心配はまるで必要が無かった。

口にした鶏肉は少し皮が残っていたが脂っぽさは控えめで逆にそこにまとったタレが足りないコクを足していると思えるほどだ。いや皮は残っていたのではなく敢えて適度に残してあったのだろう。しかもそのタレも濃いというわけではなく、臭みなどまったくないあくまで淡白な鶏肉を引き立たせる程度の役割で焼き鳥のタレとしてはやや控えめな味付けだった。

脂ぎった鶏肉を濃いタレで誤魔化す焼き鳥と思っていたがとんでもなかった。一切れの鶏肉を口に入れるとまず甘辛いタレの味が口の中に広がり、そこで鶏肉を噛むと肉の旨味が滲みだし口の中でタレと混ざりあう。

ブラジル産の安鶏肉ではないだろうが、高価なブランド地鶏と言うわけでもなさそうだった。鶏肉の切り方と焼き方、そしてタレの味。これらが絶妙なバランスを保っていた。大きすぎず小さすぎもなく程よく皮を残す切り方、中までしっかりと火が通っているがパサつくことなく肉汁が滲み出てくる焼き加減。

そして極めつけはこのタレだ。

田中はたまらずネギを口にした。田中はネギはあまり好きではなかった。納豆やそばに入れる薬味としての刻みネギは好きだがこういう小口に切った丸々としたネギは好きではなかった。噛んだ時に芯の部分がヌルっと出てくる感触とネギ特有の臭みが苦手だった。だが思った通りやはり美味い。表面が程よく黒く焦げたネギを噛むと予想通りにねっとりとした芯が飛び出してきた。苦手なはずのネギ特有の臭みが口に広がったが不快ではない。不快さなど微塵もない。それどころか今までネギを口にして感じたことのない妙な甘さがあった。しかしやはりキモとなるのはタレだった。

甘辛でどこか香ばしさがあるしっかりとした味付けだったがネギや鶏肉の旨味をしっかりと感じることが出来る濃さだ。だがもちろん薄いというわけでない。これが市販品であったなら嬉しいのだが、間違いなくそんなことは無いだろう。


田中は右手に持った串を見た。鶏肉とネギが一片ずつ残っている。左手にはジョッキだ。

食い意地の張ったとても卑しい仕草だ。田中はジョッキを置いて残りの鶏肉とネギを立て続けに口にした。

その旨さを堪能しホウっと息を吐き皿に目を落とす。まだかすかに湯気か焼き煙を立てている三本の串。ねぎまと鶏皮と、そしてつくね。

次はどれに手を伸ばすべきか?46年の時を経てほんの数秒前に好物へと変わった焦げたネギが挟まれたねぎまか。それとも先ほどまで脂の塊にしか見えなかったきつね色に焼き上げられた鶏皮か。得体の知れないどころか今まで知らなかった感動を与えてくれそうなつくねに行くべきか?

田中は、いったん落ち着けとばかりに道路に目を向けた。外国人たちは歓喜で迎えた焼き鳥を取り合うこともなく意外とおとなしく分け合っていた。一番人気はねぎまのようだ。本数が多かっただけかもしれないが。


それを見た田中が選択したのはやはりビールだった。ねぎまの次は鶏皮かつくねが妥当だろう。そうなるとまず一旦ビールで口の中をさっぱりさせるのが得策と思えたから・・・と言うわけではない。

この店はメニューがないからだ。見たところ店主が気の向くままにまとめて作った料理をふるまう形式のようだ。おそらくこの焼き鳥が旨かったからと言って「もう一皿」と注文しても出てくるとは限らないだろう。この三本を大事に食べなくてはならない。


ジョッキを右手に持ち替えエビスビールを飲む。やはりうまい。安居酒屋とは思えないビールだったが、ビールは所詮ビールだ。サーバーの手入れを怠りマズくすることは出来ても旨くすることは出来ない。

田中はいったんジョッキを置いて考えた。次に手にするべきはつくねか鶏皮か。もちろん、つくねと鶏皮を一口ずつ交互に食べるという手もある。しかしそれは食いかけの串を並べるようで下品だろう。

田中はどうしても決めかねて再びジョッキを手にしビールを口にした。やはり旨い。旨いが寒い。

(熱燗)と言う思いが頭をかすめ田中はつくねを手に取った。

田中は大葉が、つまりは紫蘇が苦手だった。この手の自家製つくねにはたいてい紫蘇が入っている。個人的にはあの妙な清涼感と焼き鳥のタレの甘辛な味は合わないと思うのだが。苦手な物を先にやっつけようという気持ちでつくねを手にし口にしたが、あの妙な清涼感は感じられなかった。

ねぎまを口にしたときと甘辛なタレは同じだったが肉団子からあふれる旨味は、ねぎまの鶏肉からの物とはまた別物だった。ねぎまとつくねの唯一の共通点はどちらも旨いという事だけだった。

たまらずもう一つ口に運ぶ。

僅かにシャクっとした歯ごたえがあった。つくねに細かな鶏軟骨を混ぜる店は多いが軟骨のコリコリとした歯ごたえとは全く違う。もっと柔らかい感触だった。

田中はゆっくりと味わいながら食べ進んだ。もう一つ口に運んだ。

このシャクっとした歯ごたえは?おそらく根菜だろう。蓮根?いや、蓮根よりも柔らかい歯ごたえだ。ふわっとしたつくねの食感を邪魔しない程度に柔らかい。

答えの出ぬままにいると鍋を振る松がやや楽し気にこちらを見ていた。

「ゆり根ですか?」田中が聞くと松は「クワイですよ」と答える。

「くわい……」ふーむ。

なるほど。と思えるほどクワイのことは知らない。食感はゆり根にとても似ている気がするが、鶏挽肉の粒に合わせているくらいに細かくしてあるのでハッキリとはわからない。

しかしつくねのふんわりとした食感の中で時おり現れるこのシャクッとした食感は楽しい。ビールは冷たいほうが旨いように食事は楽しい方が旨いものだ。

田中は串に残る最後の一つを皿に残るタレに付け直してから口に入れた。

このつくねを食べていると軟骨入りのつくねが酷く邪道に思えてくる。あのコリコリとした食感も嫌いではないがこのクワイ入りのつくねを味わってしまうと鶏軟骨はつくね自体の食感を消し去っている気がする。

松のつくねは思わず笑顔になりそうなどこか懐かしい味がした。


「ね?松さんの焼き鳥は美味いでしょ?」奥の席から砂場がビールジョッキを手に声をかけてきた。

「ええ、おいしいです、本当に」

安酒と安肉だろうという予想を見事に裏切られたせいも少しはあるだろうが間違いなく旨かった。

「人のとこに手を出してマズイなんて……すいませんねホント。組長も素直にウマイって言えばいいんですけど、ひねくれてるから」

砂場はそのおかげで手に入った焼き鳥を前にしながら串に残った最後の一切れを口に入れるとすぐに次の串を手にした。

「砂場さんも、そろそろ……」

先程まで田中に向けていた時とは違い、含みのある表情に変わった松が静かに言った。

「あ、じゃあこれ。これ」砂場が残った焼き鳥を指さしながら言った。食べ終わったら帰るといったところか。


しかし田中は別のことが気になり始めていた。

(組長?)さきほどの老人のことだろうが、浅草近辺に関わり合いを持ちそうな暴力団の組長クラスの顔は一通り記憶しているつもりだが、さきほどの老人の顔は見覚えがない。

もちろん、○○組と名乗る土建屋などもあるし、その従業員が社長を「組長」と呼ぶこともなくはないだろ。だがジョッキを手にする土建屋の従業員の小指が短いという事はあまりないだろう。

(組長……)些か気になる言葉だが見過ごせない言葉というわけでもない。

今はそれより大事なことがある。田中は皿に残る最後の鶏皮串に目を向けた。

区切れが分からないが5、6切れと言ったところだろうか。この鶏皮も旨いだろう。

しかしタレとネギの旨さに驚かされたねぎま、クワイの食感が楽しいつくねの後では鶏皮では分が悪い。

おそらく無駄な脂は丁寧に除かれているだろうし、焼き具合の心配も無用だろう。ところどころ僅かに焦げが付き全体的には濃いめのキツネ色に焼き上げられている。焦げ目の付き具合から見てねぎまとつくね、鶏皮で焼き具合を変えているようだ。ねぎまはネギにしっかりとした焦げ目がつく様に、つくねは僅かにタレが焦げる程度。鶏皮の焼き具合はねぎまほど強い焼きではないが、つくねほどやさしくもない問いいたところか。しかし鶏皮にはそれ以上手を加えるポイントはない。

タレのついた鶏皮の味。それ以上になることはないだろう。

しかも鶏皮は冷えれば冷えるほど不味くなるものだ。田中は串に刺さった鶏皮を口にした。口の中に二切れの鶏皮が入った。

旨い。表面はパリっと焼き上げられているが噛むと鶏皮のクニュッとした食感もちゃんと残っている。そこにもう十二分に分かっているタレの味が広がる。旨い。

旨いがどこか物足りなさを感じて串に残った鶏皮を皿の上のタレにたっぷりとこすりつけてから口に運んだ。

旨い、3割増しに旨い。分かった!タレだ。鶏皮の主役はこのタレだ!

ねぎまは旨かった。つくねも旨かった。ねぎまもつくねもこのタレがその旨さを引き立てていたが鶏皮は逆だ。この鶏皮がタレの旨さを引き立てている。

田中はたまらず割りばしを手にして串に刺さった鶏皮を先端に移動させてから皿に残るタレをたっぷりと付けて口にした。

パリッと焼き上げられた鶏皮表面の食感を味わった後にすぐに広がる絶妙な味わいのタレ、そこにクニュッとした鶏皮のコクが足される。

口中の鶏皮を胃に落としてからビールで一度感動をリセットする。次の鶏皮もたっぷりとタレをまとわせて口に入れた。

そう、この鶏皮は旨い。旨いからいつまでも噛み切れないクニュクニュッとした食感をチューインガムのようにいつまでも味わっていたくなるがそれは間違いだ。タレの味わいと共に潔く飲み込むことが肝要だ。

田中は最初の一口で二切れの鶏皮をまとめて口に運んだことを後悔した。

タレだ。タレを味わうべきだった。タレをたっぷりとまとわせて楽しむべきところを二切れをまとめて口にすることでその機会を一回減らしてしまったのだ。

もうない。田中は名残惜しそうに串を置いた。最後のねぎまが皿に残るのみだ。

ビールを口にし最後の串を手に取った。鶏肉を口に噛みしめる。肉汁が染み出し口の中でタレと混ざりあう。旨い・・・。だがやはりキモはネギだ。田中はしばしネギを見つめてから口に入れた。

ゆっくりとネギをかみしめる。ヌルっとしたネギの芯にある特有の臭みが広がるがタレと絡み合い不思議な甘みがだけが残る。

そうだ。このネギはとても柔らかいのだ。玉ねぎよりも簡単に嚙み切れる。頑強な繊維っぽさがまるでないのだ。

「うまいなぁ・・」思わず本音が漏れた。

それを聞いた奥の席の砂場に小さく笑われたが、旨いものは旨い。

「ネギ、お好きなんですか?」カウンター越しに松が声をかけた。松も笑っていたが砂場のそれとは違い嬉しそうな笑みだ。

「ええ、それが・・・」田中は串に残った最後の二切れを名残惜しそうに口にした。

「ネギ、嫌いだったんですよ」その言葉を聞いて松は少し不思議そうな顔をしたがすぐにその意味を理解した。

「矢切の寺山って人からいただいているネギです」

「矢切?」

「ええ、千葉県の。矢切の渡しの、矢切ですよ」

「ああ、松戸の」

「そうです。そこまで気に入ってもらえたら寺山も喜ぶと思います」

松は笑顔でそう言ったがやはりタレだと田中は思った。もちろんこのネギ自体も十二分に旨いのだろう。だが、それほど好きではなかったネギを旨いと思ってしまうほどこのタレが絶品なのだ。

ジョッキに残ったビールを飲み干すと身体が二月の寒さを思い出し少しブルっと震えた。カウンターではあるがここは店内とはいいがたい。時折訪れる夜風も外と少しも変わらない、飲み屋のカウンターでコートも脱がずに座っているのだ。カウンターの中で火を扱う恰幅のいい松には寒さが届いていないようだが、奥に座る老人が寒そうな素振りすらせずにビールを飲んでいるのが不思議なくらいだ。

「熱燗でも入れましょうか?」

寒そうな素振りをする田中に松が聞いた。

「ああ、いいですね。ぜひ」道路に目をやると外国人たちは寒さなどまったく気にしていないようだ。しっかりと十分な寒さ対策をしているのは、その肌と同じくらい年季の入ったいそうな毛皮のコートを着たネイティブアメリカンの男性と、先ほど田中に舌打ちをしてきた東南アジア人くらいのものだった。

「トイレは?」と田中が聞く。

松は右手で砂場が座る奥を指し「あのドアの向こうです。奥の右側にドアがありますからそこがトイレです」

「どうも」席を立とうとする田中に松が続けた。

「奥にあるんで持ってきてください」

「なにを?」首をかしげて尋ねる田中に松は言った。

「まあ、うちはセルフサービスってやつなんですよ。奥が倉庫ですからお願いします」

「分かりました」田中は松の言葉の意味を理解し軽く会釈を返して奥のドアに向かった。

寒いそぶりさえ見せない老人の後ろに来るとその理由が分かった。ここだけ暖かい。老人の頭上の天井に見慣れない黒いバーが設置されていた。遠赤外線ヒーターのような暖房器具なのだろう。こんな老人でも二月の寒さの中でもビールを飲めるわけだ。

田中はゆっくりとドアノブを捻り、慎重にドアを開けた。この暖かさを少しでも多く味わいたい。

田中はドアのくぐり倉庫へと歩を進めた。


田中はまた一歩、青い小さな箱にその身を収める一歩を進めた。




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