たのしい いせかい せいかつ ①
店は、完全予約の会員制で、夜九時までに受付を済ませない客は入店できないシステムになっていた。
複数ある入り口は、どれも工場の鉄扉に偽装されている。
先には地下へと続く階段があり、暗い通路を進んでいくと、けばけばしい色をした照明が照らすダンスホールにたどり着く。
今夜の客は六十八人。アップテンポのダンスサウンドを、そのうち何人が聴いているだろう。
点在する舞台上では、下着姿の女が棒にしだれかかって踊っていた。ダンサーは舞台の数と同じ四人である。
併設されたバーカウンターでは、バーテンダーが三人。
給仕のバニーガールは全部で十五人雇われており、そのうちの何人かは『トラブル処理担当』も含む。十五人の美女の誰が『そう』なのかまでは把握できていなかった。
くわえて、巡回の警備スタッフは十人。
(……用心深いことで)
通りすがりに、常連らしい客が、警備の一人に囁いたのを耳にする。
「……オーナーはどこに? 」「さあ……? ホールのどこかにいらっしゃるでしょう」
(オーナーか。そいつが今回の『イレギュラー』ね)
さりげなく周囲を見渡すその青年は、鍛え上げた体躯を、着慣れない開襟シャツと、光沢のあるオーダーメイドスーツに押し込んでいた。
横にも厚いが、上背もじゅうぶん育ちきっている。持て余すほど長い手足にはみっちりと筋肉がひしめく。東洋人離れした体格だった。
『……晴光、聞こえてる? 』
「……うるっせー場所だこと」
ハットの内側に仕込まれたマイクに向かって、小声でごちる。少しおどけたような口調に、紛れもない本心が混ざっている。小さな声は、周囲の喧騒にまみれて響かない。
『そういう場所よ。……ねぇ、ブラッディマリーくださる? トマト多めでお願いね』
イヤリング型のイヤホンの向こうで、実に社交性あるあの唇が、美しく弧を描いたのだろうと思った。
互いに別の入口から入場した二人は、まだ顔を合わすわけにはいかなかった。
人に紛れながら、『対象』へと近付いて接触……最終的には確保する。――――それが今回の『任務』の内容だった。
『いまからそっち行くけど、知らないふりしてよね』
「言われんでも。わかってんよ」
ふふ、と女が小さく笑った。
次の瞬間、青年は赤いグラスを持った女とすれ違う。
黒髪の女だ。白い肌と青みがかった暗色の瞳が、女を国籍不明にしている。
黒いドレスは、谷間を隠すようにレースで覆われていた。
首元にはワンポイントの銀色のチョーカー。清楚な装いだったが、歩きながら脱いだショールの下にある背中は、背骨の数を数えられるほど剥き出しになっている。青年はギョッとして、言い知れぬ罪悪感とともに、同僚の白い肌に釘付けになった視線を剥がした。
彼女は、背中を強調するように長い黒髪を胸元へと流し、化粧は威嚇するように煌びやかである。
目蓋は角度によって金色に。いっそだらしないほど、腕から垂れ下がったレースのショール。黒いドレスに縫い付けられた偏光のスパンコールは、光を受けて、薄いオパールでできた鱗のように輝く。
そうしてゆっくりと回遊するように、彼女は壁際にある小島のようなソファに泳ぎ着く。
――――誰もが意識の外では気にしていた、その席だ。
深いグリーンの丸いソファは、座面を囲むように背面が高い。
そこに納まったまま閉じられた彼の目蓋は、大粒のラメが入ったシルバーグレーのグリッターが飾っている。
口紅は、血色とは逆の冴え冴えとしたブルー。丈の長い羽のコートに首まで埋まって目を閉じている姿は、そういうコンセプトの美術品のようだった。
女の装いは、あきらかに、その少年に『あわせて』いる。
女は、雫を垂らし始めた華奢なグラスを、その象牙色をした頬へと当てる。
機械のように目が開いた。睫毛が波打って、水色の瞳が女の顔を映す。
「奢りですわ」
女が言った。漆のように黒く塗られた長い爪を見て、少年は薄く笑む。
「もらってあげる。きみ、趣味が良いから」
喧騒の中でもよく通る声だった。長いコートの下、剥き出しの白い腿を這う蛇を撫でる少年の爪も、黒く塗られている。
「気付いた? この色。おそろいなんだ、この子の鱗と」
「あら、綺麗な方ね。あなたのアクセサリー? 」
「いいや。恋人さ。そこらへんのオッサンたちのペットよりもグレードは上。お互いに愛し合ってるんだ」
少年は、上目遣いに女を見た。
「きみも、おれの恋人になりたくて来たの? 」
首を垂らして囁く。
「あなたが望むなら、その可能性もあるかもしれないわ。だって私たち、共通点があるもの」
「爪以外に? 」
「ここでは私たち、イレギュラーだわ」
「それは、おれもキミも子供って意味? 」
「いいえ、そんなつまらないことじゃあないの。もっと劇的なお話」
「面白い話だといいけれど。違いそう」
「知っているくせに、いじわるするのね。……なら教えてあげる。『イレギュラー』って、一部界隈じゃあ異世界人の隠語なのよ。『セイレーン』さん」
少年はぱちくりと目を丸くした。
「……中二病か? セイレーンってなにさ。まさかおれのこと? 」
そして次の瞬間には、婀娜っぽく細くなる。
「あなた、魅惑のお声をお持ちのようで。そんなあなたに、ウチの組織があなたに付けた通称が『セイレーン』。ふふ、ぴったりでしょう? ちゃんと蝋で耳に蓋もしてきたわ。『魅了』されちゃあ困るものね」
海の女怪セイレーンは、船乗りたちを歌声で誘惑するという。伝説の中でその対策とされたのが、蝋で耳に栓をすることだ。
つまり彼女は、言外に『おまえの能力は効かないぞ』と言っている。
「……なんだアンタ、昨日のアイツらの仲間か」
少年の目が、より細く引き絞られた。笑顔は威嚇の名残りだという言葉を思い起こすような、壮絶な微笑だった。