ジャック・ザ・リッパー 第2話
妖怪を大量発生させた話です
あまりにも唐突な確認だった。しかし薫はきょとんとしつつも頷く。
「ええ、見えますが……あらたまって聞かれると、なんだか不思議な感じですね」
妖怪が見えるというのは比喩ではない。
すっと視線を上へ向けた。丁度、ぶらりと逆さまに垂れ下がる少年の姿が見える。
赤褐色の肌の少年は、薫の視線に気づいてにたあ……と笑った。可愛い。にこりと微笑み返す。
天井下りだ。吹き抜けになっている図書館の天井は高いので、二階にある天井ではなく一階の本棚にぶら下がることもある。一階のほうが人が多いから楽しいのだろう。
薫はふっと集中力を高める。意識していなかっただけで、あらゆるところにあらゆるものが存在していた。
元々この図書館は随分と歴史のある本がぽんっと置いてあることも珍しくないので、至るところに九十九神がいる。それらを束ねる文車妖妃がお気に入りの恋愛小説の棚で優雅に微笑んでいた。かと思えば、いたずら好きの五徳猫がするりと人の足元をくぐり抜け、二股に分かれた尻尾を引っかけて遊んでいる。哀れな男子学生は持っていた歴史書を取り落として足にぶつけていた。あれは痛い……
さらには、傘立ての中に放置された傘からはぎょろりと目玉が見える。どこから紛れ込んだのか分からない唐傘小僧だ。窓の外にはこれまたどこからやってきたのか、羽衣のように柔らかい煙の妖怪、煙々羅が漂っていた。タバコを吸っている人がいるのかもしれない。
薫には昔からこういうものが良く見えた。どこにだって妖怪──物怪はいる。見えないだけで、聞こえないだけで、彼らが干渉しようと思わないだけで、そこにいるのだ。
幽霊が見えるという人には何度か会ったことがあるが、正直、幽霊しか見えないという感覚がよく分からない。あまり知られていないが、幽霊だって結局は物怪の一種なのに。
薫は物怪が見えるということを他人に言ったことはない。ないが、大体行動が「見える」人のそれなので分かりやすいらしい。図書館では静かにしていたのだが、星野には光の速さでバレた。
しかし彼は女性に偏見はあっても「見える」人に偏見はなかったようで、すんなりと受け入れられている。スワローを働かせてもらっている手前何も言わないが、ちょっと変な人だと思う。
「妖怪が見えるなら、都市伝説はどうなんでしょうか?」
「都市伝説?」
いわんとしていることが良く分からなかったが、薫はとりあえず答えた。
「八尺様とか猿夢とか、コトリバコとかのことですか? うーん、呪いならともかく『現象』に由来するものは、多分歴史が浅すぎると思いますよ」
物怪も元は「現象」であったことが多い。それが実体を持つようになったのは、ひとえに人間の信仰心の強さと信仰した期間の長さゆえだ。特に長さは重要で、十年や二十年ではどれだけ信仰心が強くても実体化はほぼ無理だ。九十九神ですら百年必要なのだから。
薫は人間が物怪を生み出したことを知っている。正確には、得体の知れない現象に理由付けをして、それを信じた期間が長かったから生まれたことを知っている。
都市伝説では明らかにその期間が短すぎる。
「そうですか……それでは、切り裂きジャックもでしょうか?」
「え?」
思わず薫はスワローと顔を見合わせた。普段あまり表情を動かさない彼もきょとんとしていた。
「切り裂きジャック、ですか?」
一体何がどうなってそんな話題になったのか分からない。なるべく平静を装って問いかけると、星野はおや、とでも言うように片眉を上げた。
「知らないのですか? 最近切り裂きジャックの事件が続いていますよ」
時代を飛び越えたような発言に再びスワローを見た。彼は首を横に振る。
「僕も知らなかった」
「……まあ、そうだよね」
何か知っていたら言うはずだ、そんな危なげな事件。
「そういうことには情報通なのだと思っていましたが。ほら、これですよ」
星野が差し出した地元の新聞には「切り裂きジャック、四件目防げず」の文字がある。
記事を見る限りはどうやら連続殺人事件らしい。被害者は全員女性で、夕暮れ時、一人で帰っているところを襲われている。執拗に下腹部を切り裂かれているとのことだった。
「こういうのにも詳しいのかと思いましたが」
「そんな万能じゃないですよ。私たちほとんどニュースなんて見ませんし」
「そうですか」
毛ほども興味がなさそうだ。本当に、本以外には全く頓着しない御仁である。
「では、切り裂きジャックというものが現代に現れることはあるんですか? 本物としてではなく、人々から恐れられた『怪異』として」
「うーん……」
薫は曖昧に微笑んだ。どう答えたものだろう。
すると不意にスワローが口を開く。
「物怪が、人を傷つけることはないよ」
透き通った声に星野が反応する。
「そうなのですか?」
「僕には見えないからよく分からないけど……薫はいつもそう言ってる。何もしてない人間に物怪が積極的に何かをすることはないって」
「なるほど」
相変わらずスワローの話は熱心に聞く人だ。だいぶ慣れてきたのであまり気にしない。
女性が苦手という点ではスワローと同じだし、そう思うと少し可愛いではないか。
「貴女、何か失礼なこと考えてませんか?」
「いいえ、まさか」
意外と察しがいい人だった。さらりと薫は話を元に戻す。
「大体の妖怪……物怪には役割があります。だからといって、物怪が無差別に人を襲うかというとそういうわけでもないんです。彼らにとって人間は生みの親だから」
薫にとっては隣人だし、人によっては時に恋人にすらなる。異類婚姻譚は現代でもなお健在だ。
「それに、切り裂きジャックは、歴史はあっても西洋の妖怪として存在できるかっていうと微妙ですね。図鑑に乗るようなものじゃないし、噂の一種でもない。不安定なんです。正体が不明すぎて、存在はしていたとしても特徴が定まらない。そうなると、実体を持つのは難しいと思いますよ」
物怪のように生態が記されているわけでもなく、さりとてフォークロアとして残っているわけでもなく。
切り裂きジャックの存在は「得体のしれない何か」という認識が一番強い。それは形が定まらないということで、つまり「誰も知らない」のとほぼ同義だ。
切り裂きジャックが存在していたこと、彼が行ったこと。それだけが世の中で一人歩きしている。
「なるほど、ありがとうございます。興味深かったです」
律儀に頭を下げ、彼は薫から新聞を受け取った。
「ああ、スワロー君」
「ん、なに?」
そのまま去っていこうとした足を止めて、彼は薄く微笑んだ。
「今日は早めに帰っていいですよ。こんな物騒な事件もあることですしね」
「え……いいの?」
「ええ。構いません」
スワローは何故かそこでちらりと薫を見た。薫は曖昧に頷く。
「先帰ってていいよ、スワロー。出来ればご飯作ってくれるとありがたいけど」
薫とスワローは同居人同士だ。というよりスワローが薫の住む家に転がり込んできたといったほうが正しい。奇妙な関係であることは分かっている。だから薫は、付き合っているわけでもないのに、という不満なら少しは甘んじて受けることにしている。
スワローは何かを考えるように顎に手を当てたが、すぐにいつものように薄く微笑んで頷いた。
「……分かった」
ぽんっと頭に手が乗り、そのままわしゃわしゃと撫でられた。
「えっと……スワロー?」
「気をつけて帰ってきてね」
「うん、分かってるよ」
心配してくれているらしい。だがそれにしてもちょっと遠慮のない手つきだ。多分寝癖が復活している。
どうにか離してもらおうと奮闘していると、星野が何故か呆れた表情で二人を交互に見ていた。
「あなたがた、何故付き合っていないんです?」
強烈な一撃だった。薫は予想外の攻撃に面食らう。
「星野さんまでそういうこと言うんですか?」
「いえ、誰だって変に思いますよ。私がおかしいみたいな言い方やめてください。おかしいのはあなたたちです」
毒舌の集中攻撃を浴びている気分だった。意味が分からないので痛くも痒くもないが、なるほど、綺麗な顔で毒を吐くと威力も増すようだ。周りの女性たちが怯えたように離れていく。
「まあ、変なことは自覚してますよ。でもこれが今は一番いいんです」
きっぱりと断言すると、星野は特に反論せずに「そうですか」と肩をすくめた。そのまま去っていく。
「あ、スワローごめん、私授業行かなきゃ」
だいぶ時間が経っていた。慌てて準備を始めた薫の手をスワローがぱしりと掴む。
「? どうしたの、スワロー」
「……気をつけて帰ってきてね」
先ほどと同じ言葉だが、そこには静かな強さがこもっていた。
「何、突然……ああ、切り裂きジャックのこと?」
薫は苦笑する。
「分かってるよ。授業は最後のコマまで入ってるけど、なるべく急いで帰るから」
「……約束だからね」
「はいはい」
本当に心配性だと思いつつ、するりと手を離した。そろそろ本当に授業に遅れてしまう。
そのまま去っていく彼女を、スワローは透き通った瞳でじっと凝視していた。