「雪鍋」
『春センチメンタル企画』参加作品です。
雪鍋
遠くに聞こえる山バトの鳴き声。
道路脇の生い茂った緑から、ひらひらと風にこぼれる山桜。
アスファルトに散った薄桃色の花びらが、時おり走り過ぎる車に、ふわりと舞いあがる。
ここは、小学生の頃に毎日通った道だ。
この峠を過ぎれば、やがて実家のある集落が見えてくる。
久々に故郷に帰ってきた。まるっと五年ぶりだ。
ひと足ごとに心がはやる。なつかしさがこみあげてくる。
作家になることを夢みて十八才で上京し、大学卒業後も、その夢を追い続けてきた。
しかし、それは思っていた以上に厳しかった。
出版社に作品を持ち込んでは突き返され、コンクールの最終選考に残ったことはあっても、夢はいつも、はかなく打ち砕かれていた。
今回で最後の挑戦にしよう……毎回、そう自分に言い聞かせてきたが、どうしてもあきらめきれない自分がいる。宙ぶらりんの夢を背負い続けたまま、気がつけば十年以上が過ぎてしまっていた。
学生の頃は、盆と正月には必ず帰省していたのに、ここ五年ほどは、故郷から足がすっかり遠のいていた。
体の弱い両親のことは、常に気がかりだった。けれども、夢をかなえてみせると心に決めて上京したからには、どうしてのこのこと里帰りできるだろうか……。
そして……。
最近は食べていくために、バイトに追われる日々である。夢を追うどころか、原稿用紙に向かうことさえめっきり少なくなっていた。
夢をかなえるまでは帰るまい。その決心は、今では大きくぐらついている。
そんなぼくだった。
一度、帰ってみようか……。
そういう気持ちにさせたのは、姉からの一本の電話だった。
姉は五歳上である。未だ独身で、実家の両親を看ながら、町の福祉センターの介護士として働いている。
里帰りさえしようとしない、この不出来な弟に、お金はあるか、病気をしてないか、ちゃんと食べているのかと、毎月欠かさずメールをよこす。
父が心臓発作で倒れ、もともと丈夫でなかった母が床に伏すようになったときも、
「二人のことは心配しないで。がんばり続ければ、いつかきっと夢がかなう時が来るんだからね……」
いつも励ましてくれたのは姉だった。本当は、どんなにか心細い思いをしていただろうに…。
しかし、あのときの姉は、それまでとは少しちがっていた。
「ねえ、優樹、近いうち帰って来たら? お父さんたちに元気な顔を見せてあげてよ」
言われてみれば、ずいぶん長いこと顔を見せていない。姉の言うとおり、一度は帰るべきなのだ。
「そうするよ。じゃあ、次の日曜日に帰る」
ぼくは、素直にそう答えていた。
電話を切る直前に、姉は思い出したように言った。
「そういえば、ヒロくん、パパになったのよ。若い若いと思ってたけど、すっかりおじさんの仲間入りなのね」
ヒロは幼稚園からのおさななじみだ。そうか……。あいつ、もうオヤジなのか。
もう三十なのだから、当然といえば当然だけど……。
「それを言うなら姉ちゃんこそ、とっくの昔おばちゃんだろ?」
「まあ、失礼ねえ」
お互いに笑いながら、電話を切った。
家族とはいいものだ。どんなにブランクがあったとしても、ことばを交わしたとたんに気持ちが通い合う。心の中に、ぽっと灯りがともる。
早春の山道を、ぼくは歩き続ける。
久しぶりに坂道を歩くせいか、額にうっすらと汗がにじむ。
ふっと、脳裏に遠い日のことがよみがえった。ランドセル姿の、幼い姉とぼくがいる。
「走ろう! 姉ちゃん」
「待ちなさいよ。そんなに急がなくても大丈夫だから」
一緒に登校したのはわずか一年間だったけど、毎日のように、こんな会話が繰り返された。
通学路だったこの山道は、地元の人たちからは「アミダ峠」と呼ばれている。その昔、弘法大師が布教のために歩いて通ったという言い伝えから、そういう呼び名がつけられたのだという。
姉は歩きながら、「アミダ峠」のフシギな話をよくしてくれた。
ひとりでアミダ越えをしていると、どこからともなく聞こえてくるという、南無阿弥陀仏の念仏の声。
歴史的な真実は定かでないけれど、幼いぼくにはたいそう怖いことだった。
日暮れの早い季節はひとりでは帰れず、姉の授業が終わるのを待った。そして、姉としっかり手をつなぎ、夕暮れの山道をいちもくさんに走って帰った。
走って、走って、ようやく村里が近くなったところで、見なれた建物が現れる。
「おこぼうさま」と呼ばれる、小さなお堂である。ここまで来れば、もう帰り着いたも同然。
おこぼうさまが、おかえりと出迎えてくれるようで、ホッとしたものだ。
お堂の中の弘法大師の像の前には、いつだってお菓子や果物のお供えがされていた。村には信心深い人が多く、ぼくの両親もそうだった。
ようやく、一本杉まで来た。
ここが峠のてっぺんで、これからはずっと下り坂になる。
里が近づくにつれ、だんだんまわりの視界が開け、なつかしい家や畑が小さく見えてきた。
おこぼうさまのお堂まで、あと数メートル。
心がはやる。足の運びが速くなる。
けれども着いてみると……。
あれ?
あるべきお堂は、かげもかたちもなくなっている。
なぜか、そこには小さな屋台の車だけがあるのだった。
なんで、こんなところに屋台が……?
それは、昔ながらの古びたリヤカー式だった。大きな土鍋をのせている。ずいぶん年期の入っていそうな、黒くどっしりとした土鍋である。
そばには、長イスがひとつだけ。こんな人通りのないところで、果たして商売になるんだろうか?
「いらっしゃい」
屋台のかげから、主人らしき老人が現れた。
白髪頭はかなり薄く、下がり気味の目尻が、人のよさを感じさせる。
老人はぼくを見て、なつかしそうに目を細めた。
「あんた……山野さんとこのぼっちゃんじゃないかね? お父さんにそっくりになって……久しぶりに帰ってきなすったんだね」
村の人ならたいてい覚えている。見覚えがないところからして、おそらく両親の知り合いなのだろう。
「あんたは知らないだろうけど、ご両親はいつもいつも、あんたのことを心配されとるんだよ。よく帰ってきてくれなさったねえ」
老人に言われ、お堂に手をあわせる父と母の姿が、ふと思い浮かんだ。
両親は、どんな気持ちでいたのだろう……。
盆や正月すら、帰ってこない息子。それでも元気でいてくれるよう、ひたすらに祈ってくれていたにちがいない。それなのに、ぼくときたら……。
情けなさが、どうしようもなくこみあげてくる。
ぼくは、ペッタリと目の前のイスにすわりこんだ。
顔にかかるあたたかい湯気で、ハッと我に返った。
土鍋からは、白い蒸気が、ふつふつと上がりはじめている。
シャリシャリと大根をすり下ろしながら、老人が言った。
「鍋料理だけど、食べていきなさるかね?」
腕時計に目をやると、とうに昼も下がっている。
駅からずっと歩き通しだったせいもあって、ずいぶんおなかがすいていることに気がついた。
「ええ。ぜひ。それにしてもめずらしいですね。鍋料理の屋台だなんて……」
老人はそれには答えず、ぼくを見つめて、ただほっこり笑った。やわらかなまなざしに心が和む。
ここで昼ご飯はすませて帰ろう。姉に連絡を入れようと、ぼくは携帯をとりだした。ところが、運悪く圏外の表示である。
仕方がない。携帯をしまい、ふたたび鍋に目をやる。
「なんの鍋ですか?」
「おそらく、あんたが食べたい鍋じゃと思うがのう」
土鍋のふたをあけると、熱い湯気が立ち昇り、だしの香りが漂ってきた。思わず、鍋の中をのぞきこむ。
大根下ろしだけが入っている。それも鍋いっぱいたっぷりに……。
大根下ろしが鍋の縁から浮いてきたところで、老人はそろりと豆腐を加えた。それから塩をひとつまみ入れ、ゆっくり中身をかきまぜた。
大根下ろしと豆腐だけの、真っ白な鍋……。まちがいなく、ぼくがいちばん食べたかった雪鍋だ。
「さあ、どうぞ」
老人が赤いお椀によそって、ぼくの前に置いてくれた。やわらかな湯気がぼくの頬を包み込む。
「雪鍋って、よくわかりましたね」
ぼくのことばに、老人はうれしそうに微笑んだ。
「おいくらですか?」
「年よりの道楽じゃから、うちの屋台は金額を決めとらんのじゃよ。お客さんの気持ちということでね」
「それじゃあ……」
いくらがいいのかわからない。とりあえずぼくは、ポケットに入っていた五百円玉をそっと鍋の横に置いた。
だしを含んだ大根下ろしを口に入れると、それはとてもなつかしい味がした。ぼくの頭の中に、母の声が聞こえてくる。
「今夜は雪鍋にしようか?」
母は、大根を丹念に洗いながら言った。
寒い日は家族四人で、よく雪鍋を囲んでいた……。
あれは、高校二年の冬のことだった。
やはり雪鍋を囲みながら、ぼくは父と母に打ち明けた。
「東京の大学に進学したいんだ。作家になって、小説を書きたいんだよ」
口を真一文字に結んだまま、父はあきれたようにぼくを見つめた。
「おまえが考えてるほど、たやすいことじゃないぞ。だいたい、作家で食っていけるはずないじゃないか」
「わかってるさ。だけど、それがぼくの夢なんだ」
重苦しい沈黙が続き、やがて母が口を開いた。
「やってみたらいいじゃないの。それがいちばんしたいことなら……」
母には、わかっていたのだろう。たとえ反対しても、息子の夢は、簡単には変わらないということが……。
そして、母のそのことばが、ぼくの背中を強く、強く押してくれたのだ。
それから四年。
卒業後、決まった仕事にもつかず、作家だけをめざそうとしていたぼくを両親は温かく迎えてくれた。 おそらく胸の内では、地元での就職を望んでいたにちがいない。
東京に戻る前の晩。
家族で囲んだ食卓は、やはり雪鍋だった。
あたたかな湯気と家族の笑顔に包まれながら、ぼくは改めて心に誓ったのだった。
必ず作家になる。
自分で決めたことだ。ぜったいに弱音なんて吐くものか。
あの晩の強い決意は、どこに置き去りにされたのだろう。
いつ心からこぼれ落ちてしまったのだろうか……。
「あら? 優樹、ここでなにしてるの?」
不意に名前を呼ばれて振り向くと、あきれたような表情で姉が立っていた。
「おこぼうさまに用事があって来たの。だけど、まさかあなたがいるなんて!」
「ごめん。電話したんだけど、圏外だったんだ」
「それでなにしてたの? そんなところに座り込んじゃって」
「この屋台で、昼ご飯を……えっ?」
雪鍋がない。主人もいない。屋台そのものがない。
さらには、さっきまでなかったお堂があって、ぼくはそこの石段に座っていたのだった。
おこぼうさまは、以前と変わらずお堂に座っている。何事もなかったように、すましかえった顔をして……。
目を疑うというのは、まさにこういうことを言うのだろう。
「う、うそだ、うそだろ、こんなことって!」
立ち上がって取り乱すぼくに、まあ、そこに座りなさいと姉は言った。
姉は相づちをうちながら、ぼくの話にじっと耳を傾けてくれていた。そして、ひととおり話し終えたぼくに向かって、こう言った。
「おこぼうさま、あなたの帰りを待って下さっていたのよ……」
うなずきながら話を続ける。
「父さんと母さん、今でも調子のいいときは、よく二人でここにお参りに来てるの。きっと優樹のことが心配でたまらないのよ」
父と母は老いた身体で、わざわざお堂までお参りに来ては、ぼくのために手を合わせ、祈ってくれていたのだ。
「父さんと母さんの気持ち、おこぼうさまは、ちゃんとわかって下さっていたのね」
―よく帰ってくれなさったねえ―
老人のことばがよみがえる。
そうか……そうかもしれない。ここはアミダ峠なのだ。フシギなことがあっても、おかしなことではない。
姉が、手にしていた風呂敷づづみをほどき始めた。
果物、お菓子、お花、そして、ふたつきの赤いお椀……といろいろなものが出てきた。
「きょうは、オセッタイの日でしょう。おこぼうさまにお供えを持ってきたのよ」
「オセッタイ……」
なつかしいことばだ。
それは毎年一度、早春の頃に、弘法大師をお祭りする地区の行事である。
地区当番の家が大師さまの像を飾り、子どもたちまでもが拝みに行く。そしてお菓子をいただいて帰るのだ。
「よく行ったわね、二人で……。優樹ったら、お菓子を食べちゃうと、また拝みに行くんだって、地面に座りこんで泣いてたのよ……。自分のは先に食べといて、私のお菓子にまで手を出してくるんだから」
「そう? ぜんぜん覚えてないなあ」
照れくさくて、シラを切った。けれども、記憶の引き出しには、あせることのない思い出のひとつひとつが、大切にしまわれている。
姉は、おこぼうさまの像の前に、手際よくお供え物を並べていった。花を飾り、果物やお菓子を供えた後に、お椀のふたをとった。
「あ!」
思わず、声が出た。
それは、まだほんのりと湯気のたつ雪鍋だったのだ。
「今日は調子がいいからって、母さんが作ったのよ。まずおこぼうさまにお供えして、優樹が帰ったら、一緒に食べようって待ってるわ」
「その雪鍋、さっき屋台でも……」
「今日はオセッタイ。優樹は、おこぼうさまに、特別にセッタイしていただいたのね。畏れ多いことだわ」
姉は線香に火をつけ、静かに手を合わせた。
ぼくも並んで、手を合わせる。
ふと、線香立ての横にある五百円玉が目に入った。さっき、ぼくが屋台で払った五百円玉にちがいない。そっと賽銭箱に入れておいた。
姉が、ぼくの方を見た。
「優樹、昔から泣き虫だからさ、久しぶりに父さんと母さんに会ったからって泣いちゃだめよ」
姉の方こそ、すでに鼻声になっている。
「泣くもんかよ」
強がってはみたものの、胸のうちには熱いものがこみあげていた。
お堂を去り際、ふと背後から呼び止められた気がした。
―あんたが、置き去りにしたものは見つかりそうかな―
置き去りにしたもの……それは、作家になる夢だ。真っ白な熱い心で抱いていたぼくの夢だ。
おこぼうさまは、きっとそれを思い出させたくて、ぼくに雪鍋をご馳走して下さったにちがいない。あの晩と同じ雪鍋を……。