表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

企画参加作品

「雪鍋」

作者: 雪縁

『春センチメンタル企画』参加作品です。


       雪鍋


 遠くに聞こえる山バトの鳴き声。

 道路脇の生い茂った緑から、ひらひらと風にこぼれる山桜。

 アスファルトに散った薄桃色の花びらが、時おり走り過ぎる車に、ふわりと舞いあがる。

 ここは、小学生の頃に毎日通った道だ。

 この峠を過ぎれば、やがて実家のある集落が見えてくる。

 久々に故郷に帰ってきた。まるっと五年ぶりだ。

 ひと足ごとに心がはやる。なつかしさがこみあげてくる。


 作家になることを夢みて十八才で上京し、大学卒業後も、その夢を追い続けてきた。

 しかし、それは思っていた以上に厳しかった。

 出版社に作品を持ち込んでは突き返され、コンクールの最終選考に残ったことはあっても、夢はいつも、はかなく打ち砕かれていた。


 今回で最後の挑戦にしよう……毎回、そう自分に言い聞かせてきたが、どうしてもあきらめきれない自分がいる。宙ぶらりんの夢を背負い続けたまま、気がつけば十年以上が過ぎてしまっていた。

 学生の頃は、盆と正月には必ず帰省していたのに、ここ五年ほどは、故郷から足がすっかり遠のいていた。

 体の弱い両親のことは、常に気がかりだった。けれども、夢をかなえてみせると心に決めて上京したからには、どうしてのこのこと里帰りできるだろうか……。

 そして……。

 最近は食べていくために、バイトに追われる日々である。夢を追うどころか、原稿用紙に向かうことさえめっきり少なくなっていた。

 夢をかなえるまでは帰るまい。その決心は、今では大きくぐらついている。

 そんなぼくだった。


 一度、帰ってみようか……。

 そういう気持ちにさせたのは、姉からの一本の電話だった。

 姉は五歳上である。未だ独身で、実家の両親を看ながら、町の福祉センターの介護士として働いている。

 里帰りさえしようとしない、この不出来な弟に、お金はあるか、病気をしてないか、ちゃんと食べているのかと、毎月欠かさずメールをよこす。

 父が心臓発作で倒れ、もともと丈夫でなかった母が床に伏すようになったときも、

「二人のことは心配しないで。がんばり続ければ、いつかきっと夢がかなう時が来るんだからね……」

 いつも励ましてくれたのは姉だった。本当は、どんなにか心細い思いをしていただろうに…。

 しかし、あのときの姉は、それまでとは少しちがっていた。

「ねえ、優樹、近いうち帰って来たら? お父さんたちに元気な顔を見せてあげてよ」

 言われてみれば、ずいぶん長いこと顔を見せていない。姉の言うとおり、一度は帰るべきなのだ。

「そうするよ。じゃあ、次の日曜日に帰る」

 ぼくは、素直にそう答えていた。

 電話を切る直前に、姉は思い出したように言った。

「そういえば、ヒロくん、パパになったのよ。若い若いと思ってたけど、すっかりおじさんの仲間入りなのね」

 ヒロは幼稚園からのおさななじみだ。そうか……。あいつ、もうオヤジなのか。

 もう三十なのだから、当然といえば当然だけど……。

「それを言うなら姉ちゃんこそ、とっくの昔おばちゃんだろ?」

「まあ、失礼ねえ」

 お互いに笑いながら、電話を切った。

 家族とはいいものだ。どんなにブランクがあったとしても、ことばを交わしたとたんに気持ちが通い合う。心の中に、ぽっと灯りがともる。

 

 早春の山道を、ぼくは歩き続ける。

 久しぶりに坂道を歩くせいか、額にうっすらと汗がにじむ。

 ふっと、脳裏に遠い日のことがよみがえった。ランドセル姿の、幼い姉とぼくがいる。

「走ろう! 姉ちゃん」

「待ちなさいよ。そんなに急がなくても大丈夫だから」

 一緒に登校したのはわずか一年間だったけど、毎日のように、こんな会話が繰り返された。


 通学路だったこの山道は、地元の人たちからは「アミダ峠」と呼ばれている。その昔、弘法大師が布教のために歩いて通ったという言い伝えから、そういう呼び名がつけられたのだという。

 姉は歩きながら、「アミダ峠」のフシギな話をよくしてくれた。

 ひとりでアミダ越えをしていると、どこからともなく聞こえてくるという、南無阿弥陀仏の念仏の声。

 歴史的な真実は定かでないけれど、幼いぼくにはたいそう怖いことだった。

 日暮れの早い季節はひとりでは帰れず、姉の授業が終わるのを待った。そして、姉としっかり手をつなぎ、夕暮れの山道をいちもくさんに走って帰った。

 走って、走って、ようやく村里が近くなったところで、見なれた建物が現れる。

 「おこぼうさま」と呼ばれる、小さなお堂である。ここまで来れば、もう帰り着いたも同然。

 おこぼうさまが、おかえりと出迎えてくれるようで、ホッとしたものだ。

 お堂の中の弘法大師の像の前には、いつだってお菓子や果物のお供えがされていた。村には信心深い人が多く、ぼくの両親もそうだった。


 ようやく、一本杉まで来た。

 ここが峠のてっぺんで、これからはずっと下り坂になる。

 里が近づくにつれ、だんだんまわりの視界が開け、なつかしい家や畑が小さく見えてきた。

 おこぼうさまのお堂まで、あと数メートル。

 心がはやる。足の運びが速くなる。

 けれども着いてみると……。


 あれ?

 あるべきお堂は、かげもかたちもなくなっている。

 なぜか、そこには小さな屋台の車だけがあるのだった。

 なんで、こんなところに屋台が……?

 それは、昔ながらの古びたリヤカー式だった。大きな土鍋をのせている。ずいぶん年期の入っていそうな、黒くどっしりとした土鍋である。

 そばには、長イスがひとつだけ。こんな人通りのないところで、果たして商売になるんだろうか?

「いらっしゃい」

 屋台のかげから、主人らしき老人が現れた。

 白髪頭はかなり薄く、下がり気味の目尻が、人のよさを感じさせる。

 老人はぼくを見て、なつかしそうに目を細めた。

「あんた……山野さんとこのぼっちゃんじゃないかね? お父さんにそっくりになって……久しぶりに帰ってきなすったんだね」

 村の人ならたいてい覚えている。見覚えがないところからして、おそらく両親の知り合いなのだろう。

「あんたは知らないだろうけど、ご両親はいつもいつも、あんたのことを心配されとるんだよ。よく帰ってきてくれなさったねえ」

 老人に言われ、お堂に手をあわせる父と母の姿が、ふと思い浮かんだ。

 両親は、どんな気持ちでいたのだろう……。

 盆や正月すら、帰ってこない息子。それでも元気でいてくれるよう、ひたすらに祈ってくれていたにちがいない。それなのに、ぼくときたら……。

 情けなさが、どうしようもなくこみあげてくる。

 ぼくは、ペッタリと目の前のイスにすわりこんだ。


 顔にかかるあたたかい湯気で、ハッと我に返った。

 土鍋からは、白い蒸気が、ふつふつと上がりはじめている。

 シャリシャリと大根をすり下ろしながら、老人が言った。

「鍋料理だけど、食べていきなさるかね?」

 腕時計に目をやると、とうに昼も下がっている。

 駅からずっと歩き通しだったせいもあって、ずいぶんおなかがすいていることに気がついた。

「ええ。ぜひ。それにしてもめずらしいですね。鍋料理の屋台だなんて……」

 老人はそれには答えず、ぼくを見つめて、ただほっこり笑った。やわらかなまなざしに心が和む。

 ここで昼ご飯はすませて帰ろう。姉に連絡を入れようと、ぼくは携帯をとりだした。ところが、運悪く圏外の表示である。

 仕方がない。携帯をしまい、ふたたび鍋に目をやる。

「なんの鍋ですか?」

「おそらく、あんたが食べたい鍋じゃと思うがのう」

 土鍋のふたをあけると、熱い湯気が立ち昇り、だしの香りが漂ってきた。思わず、鍋の中をのぞきこむ。

 大根下ろしだけが入っている。それも鍋いっぱいたっぷりに……。

 大根下ろしが鍋の縁から浮いてきたところで、老人はそろりと豆腐を加えた。それから塩をひとつまみ入れ、ゆっくり中身をかきまぜた。

 大根下ろしと豆腐だけの、真っ白な鍋……。まちがいなく、ぼくがいちばん食べたかった雪鍋だ。


「さあ、どうぞ」

 老人が赤いお椀によそって、ぼくの前に置いてくれた。やわらかな湯気がぼくの頬を包み込む。

「雪鍋って、よくわかりましたね」

 ぼくのことばに、老人はうれしそうに微笑んだ。

「おいくらですか?」

「年よりの道楽じゃから、うちの屋台は金額を決めとらんのじゃよ。お客さんの気持ちということでね」

「それじゃあ……」

 いくらがいいのかわからない。とりあえずぼくは、ポケットに入っていた五百円玉をそっと鍋の横に置いた。

 だしを含んだ大根下ろしを口に入れると、それはとてもなつかしい味がした。ぼくの頭の中に、母の声が聞こえてくる。


「今夜は雪鍋にしようか?」

 母は、大根を丹念に洗いながら言った。

 寒い日は家族四人で、よく雪鍋を囲んでいた……。

 あれは、高校二年の冬のことだった。

 やはり雪鍋を囲みながら、ぼくは父と母に打ち明けた。

「東京の大学に進学したいんだ。作家になって、小説を書きたいんだよ」

 口を真一文字に結んだまま、父はあきれたようにぼくを見つめた。

「おまえが考えてるほど、たやすいことじゃないぞ。だいたい、作家で食っていけるはずないじゃないか」

「わかってるさ。だけど、それがぼくの夢なんだ」

 重苦しい沈黙が続き、やがて母が口を開いた。

「やってみたらいいじゃないの。それがいちばんしたいことなら……」

 母には、わかっていたのだろう。たとえ反対しても、息子の夢は、簡単には変わらないということが……。

 そして、母のそのことばが、ぼくの背中を強く、強く押してくれたのだ。


 それから四年。

 卒業後、決まった仕事にもつかず、作家だけをめざそうとしていたぼくを両親は温かく迎えてくれた。 おそらく胸の内では、地元での就職を望んでいたにちがいない。

 東京に戻る前の晩。

 家族で囲んだ食卓は、やはり雪鍋だった。

 あたたかな湯気と家族の笑顔に包まれながら、ぼくは改めて心に誓ったのだった。

 必ず作家になる。

 自分で決めたことだ。ぜったいに弱音なんて吐くものか。

 あの晩の強い決意は、どこに置き去りにされたのだろう。

 いつ心からこぼれ落ちてしまったのだろうか……。


「あら? 優樹、ここでなにしてるの?」

 不意に名前を呼ばれて振り向くと、あきれたような表情で姉が立っていた。

「おこぼうさまに用事があって来たの。だけど、まさかあなたがいるなんて!」

「ごめん。電話したんだけど、圏外だったんだ」

「それでなにしてたの? そんなところに座り込んじゃって」

「この屋台で、昼ご飯を……えっ?」

 雪鍋がない。主人もいない。屋台そのものがない。

 さらには、さっきまでなかったお堂があって、ぼくはそこの石段に座っていたのだった。

 おこぼうさまは、以前と変わらずお堂に座っている。何事もなかったように、すましかえった顔をして……。

 目を疑うというのは、まさにこういうことを言うのだろう。

「う、うそだ、うそだろ、こんなことって!」

 立ち上がって取り乱すぼくに、まあ、そこに座りなさいと姉は言った。

 

 姉は相づちをうちながら、ぼくの話にじっと耳を傾けてくれていた。そして、ひととおり話し終えたぼくに向かって、こう言った。

「おこぼうさま、あなたの帰りを待って下さっていたのよ……」

 うなずきながら話を続ける。

「父さんと母さん、今でも調子のいいときは、よく二人でここにお参りに来てるの。きっと優樹のことが心配でたまらないのよ」

 父と母は老いた身体で、わざわざお堂までお参りに来ては、ぼくのために手を合わせ、祈ってくれていたのだ。

「父さんと母さんの気持ち、おこぼうさまは、ちゃんとわかって下さっていたのね」

―よく帰ってくれなさったねえ―

 老人のことばがよみがえる。

 そうか……そうかもしれない。ここはアミダ峠なのだ。フシギなことがあっても、おかしなことではない。


 姉が、手にしていた風呂敷づづみをほどき始めた。

 果物、お菓子、お花、そして、ふたつきの赤いお椀……といろいろなものが出てきた。

「きょうは、オセッタイの日でしょう。おこぼうさまにお供えを持ってきたのよ」

「オセッタイ……」

 なつかしいことばだ。


 それは毎年一度、早春の頃に、弘法大師をお祭りする地区の行事である。

 地区当番の家が大師さまの像を飾り、子どもたちまでもが拝みに行く。そしてお菓子をいただいて帰るのだ。

「よく行ったわね、二人で……。優樹ったら、お菓子を食べちゃうと、また拝みに行くんだって、地面に座りこんで泣いてたのよ……。自分のは先に食べといて、私のお菓子にまで手を出してくるんだから」

「そう? ぜんぜん覚えてないなあ」

 照れくさくて、シラを切った。けれども、記憶の引き出しには、あせることのない思い出のひとつひとつが、大切にしまわれている。

 姉は、おこぼうさまの像の前に、手際よくお供え物を並べていった。花を飾り、果物やお菓子を供えた後に、お椀のふたをとった。

「あ!」

 思わず、声が出た。

 それは、まだほんのりと湯気のたつ雪鍋だったのだ。

「今日は調子がいいからって、母さんが作ったのよ。まずおこぼうさまにお供えして、優樹が帰ったら、一緒に食べようって待ってるわ」

「その雪鍋、さっき屋台でも……」

「今日はオセッタイ。優樹は、おこぼうさまに、特別にセッタイしていただいたのね。畏れ多いことだわ」

 姉は線香に火をつけ、静かに手を合わせた。

 ぼくも並んで、手を合わせる。

 ふと、線香立ての横にある五百円玉が目に入った。さっき、ぼくが屋台で払った五百円玉にちがいない。そっと賽銭箱に入れておいた。

 姉が、ぼくの方を見た。

「優樹、昔から泣き虫だからさ、久しぶりに父さんと母さんに会ったからって泣いちゃだめよ」

 姉の方こそ、すでに鼻声になっている。

「泣くもんかよ」

 強がってはみたものの、胸のうちには熱いものがこみあげていた。


 お堂を去り際、ふと背後から呼び止められた気がした。

―あんたが、置き去りにしたものは見つかりそうかな―

 置き去りにしたもの……それは、作家になる夢だ。真っ白な熱い心で抱いていたぼくの夢だ。

 おこぼうさまは、きっとそれを思い出させたくて、ぼくに雪鍋をご馳走して下さったにちがいない。あの晩と同じ雪鍋を……。

 

                                 




 

 



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 本気をだす? 今までは 本気じゃなかったの? いやいや、違うでしょう… なりたい、と成れるが違うように 東京でなければ成れない職業じゃありませんよ? 【小説家】 …
[良い点] 人は どんな高尚な志しがあったとしても 忘れちゃいけない大事なものがあるんだと思いました。 本文 大きな志しを応援してくれる家族の想いに いつまでも芽の出ない、主人公は…
[一言] 最初主人公が男性か女性か分かりませんでした 敢えてどちらにも取れる書き方かなと勘ぐりましたが 途中に『ぼく』と表記があったので男性だと分かりました (ただ、引っ掻けの可能性もあるので断定はは…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ