第31話 誘拐 前編
トゥーラのところで時間を潰し、夕食を予定していた時刻よりも少しだけ遅れて宿に到着する。防寒着が無い状態で日が完全に落ちて気温の低下している中を歩いてきため、体はすっかりと冷え切っていた。
早く温まりたいと思いながら寒さで感覚が鈍くなっている手で宿の扉を開けた。
「本格的な冬ではないというのに暖炉に火を入れてくれたみたいですね。生き返ります」
「ああ、暖かいのは良いことだな」
フィリカがうれしそうな声で言った。開いた扉の隙間から、外気とは違う暖かな風が心地よく感じる。
ここ最近は気温がだいぶ下がってきたため、暖炉の整備だとか燃料になる薪の準備を行っているという話は聞いていたが、早い時期に運用を開始してくれるとは思っていなかった。心の中で宿の主人に感謝をする。
この暖かさは宿のホール部分にある暖炉から発生している熱気だけではなく、暖炉の上部に設置した通気管の働きによることが大きい。煙を排出する煙突とは別に通気管が敷設されており、温められた空気が天井や床下を通ることで宿全体を温めることのできる構造となっている。
この仕組みを初めて見たとき、空調機が無くても快適に過ごせる空間を作り出せるということによくできているなと少しだけ感心した。
冷え切った体を室内の暖気で温めながら、食堂の中の様子をちらりと横目で見る。少しばかり待ち合わせの時間よりも遅れていることから、ミストを待たしてしまっているのではないかと不安になっていた。
その予想は当たっており、食堂の中央に位置するテーブルに腰かけている。
待たせたことを謝罪する意味を込めて手を挙げるが、反応がなかった。俺たちがミストの姿を確認できるように、ミストからも出入口にいる俺たちを視認できるはずである。単純にミストはこちらに気が付いていないのか。
よくよく見てみると、何かを考え事をしているようで、仏頂面を浮かべながら、手のひらを額に当てたり腕組みをしたり落ち着かない動きをしていた。
「どうしたのでしょうか?」
普段は見ることのできない仕草をしているミストを見て、フィリカが疑問を口にした。
「アイツの奇行は今に始まったことではないが、いかにも悩んでいますという動きをするのは初めて見たな。……どうせ、今日の夕飯は何を注文しようか、なんてくだらない悩みだろう」
「あはは、そんなことでミストさんは悩まないと思いますよ。食事に関しては悩む前に注文すると思いますから」
……最近、フィリカも言動に遠慮が無くなってきた気がする。仲が良くなってきたことは良いことなのだが、ミストの毒舌が映ってしまったのではないかと時折不安になるのだが。
「考えられる原因があるとすれば、……お客様」
「まあ、そうだよな」
それぐらいしか俺たちには思い当たるものがなかった。フィリカと違い来客の顔すら見たことない俺には、来客の存在をイメージすることが出来なかった。
「ここでわたし達が悩んでも仕方ありませんし、ミストさんを待たせるのも悪いですから、早く行きましょう」
「それはそうだけど」
ミストに視線を向けるが、こちらに気が付く様子はなく相変わらず彼女は仏頂面だった。
「話しかけづらいな」
見るからに機嫌の悪そうな状態であるのだ。話しかけたら思案の邪魔をするなと杖で殴られるのではないかと勘繰ってしまう。
しばらくの間は放置しておくべきではないかと、フィリカに提案しようとしたが、それよりも早くミストがこちらに向かって手を振った。どうやら気づかれてしまったらしい。
フィリカが手を振って挨拶を返し、ミストのテーブルに向かって歩き出した。それにつられるようにして、俺もフィリカを追いかけた。