第2話 汚い景色
「おぉッ、ォォぉぉぅッ……ぅ、ぅぉぉォぉ……!」
手が……右手が痛い。物凄く痛い。
ジンジンと凄い痺れている。
「ッッ……何故、俺がこんな目に……ッ」
何の因果か異世界転移直後にいきなりゴブリンと出くわし、そして襲われた。
やられたらやり返すの精神で反撃しようとした矢先、何者かに横から獲物を掻っ攫われてしまった。
その結果、望まぬ自傷行為によって手を痛めた。
間抜けな自分に呆れてしまう。
それと……。
「此処の地面どうなってんだよ?」
叩いた感触が土のそれではなかった。
幾らなんでも硬過ぎる。
普通の土や砂利をどれだけ踏み締めたところで、ここまでの硬さになるとは思えない。
仮にこの周辺一帯の地面は土と一緒に鉄も敷き詰めていますと言われても信じられそうだ。
ちなみに二度も地面を殴打することになった棍棒は、無残にも半ばからへし折れた状態で俺の傍に転がっている。
それはもう見事なまでにポッキリと折れてしまった。
流石に木製棍棒の強度では、このバリ硬地面に打ち勝てなかったらしい。
「なんだってんだよもう……」
まだ大分痺れの残る右手を気にしつつ、前方に目を向けてみる。
俺がこうなった原因でもある人物の姿を拝ませてもらうとしよう。
「やぁぁあああッ!」
登場した時と変わらず大変威勢の良い掛け声を発しながら二匹のゴブリンをたった一人で相手取っている件の人物―――女剣士。
手にした両刃の長剣を右へ左へと力強く振るい、ゴブリン共を果敢に攻め立てている。
ついでにポニーテールの形に結われた赤茶色の長髪も右へ左へと揺れていた。
後ろ姿しか見えないので、彼女がどんな顔をしているのかまでは分からない。
攻撃を受けているゴブリン二匹は、見るからに必死な様子で自分達の身を守っていた。
身を守るといっても、棍棒をデタラメに振り回して長剣の一撃を防ごうとしたり、短い両脚をシャカリキに動かし、半ば転がるようにしながら攻撃を回避するといった程度のもので、全然上手くいっていなかった。
事実どちらの個体も既に全身のあちこちに鋭い裂傷をこさえて血塗れ―――血は毒々しいまでの紫色だった―――となっており、動きも徐々に鈍くなっている。
奴らが仕留められるのも時間の問題だろう。
目の前の危機が去りつつあることに一先ず安堵する。
気付けば痺れもかなり抜けてきた。
お手々にぎにぎ。うむ、ちゃんと動く。
「あのぉ」
掌の開閉運動を繰り返しながら調子を確かめていると、すぐ近くで躊躇いがちな声が聞こえた。
声のした方に顔を向ければ、見知らぬ少女が腰を屈めながら「大丈夫ですか?」と心配そうに俺を見ていた。
「あっ……はい、多分?」
咄嗟に答えてから気付いたのだが、果たして今現在俺が置かれている状況を大丈夫と言ってしまってもいいのだろうか。
首を傾げる俺を見て、少女も同じように首を傾げた。
少女とは言ったものの、俺からすれば彼女は外人さん―――異世界人だ。
外見だけでは正確な年齢など分からない。
それでもまあ流石に二十歳を越えてはいないだろう。
肩口で切り揃えられた髪は毛先のみが白く、あとは全て黒髪という変わった色合いをしていた。
顔立ちは綺麗というよりも可愛いと評するべきか。
薄茶色の大きな瞳が俺の顔を不思議そうに覗き込んでくる。
動き易そうな服の上から革製の胸当て、手甲、脛当てを装備している。
腰には帯革のようなものが巻かれ、左には鞘に収まった剣が、右にはポーチ、腰裏には円形の盾がそれぞれ吊るされていた。
剣と盾。如何にもファンタジーっぽい装備だが、それにしては随分と軽装に見える。
「あのぉ、わたしの顔に何か?」
自分でも知らぬ間に少女の顔を凝視していたようで、彼女の眉尻が少しだけ下がっていた。
初対面の女性の顔をマジマジと見詰めるなんて、紳士として褒められた行いではない。
だが―――。
「おかまいなく」
―――俺は紳士ではないので関係なかった。
眉尻が更に下がり、美少女の困り顔に荒んでいた気持ちが和らいでいく。
可愛い。
「いえあの、そんなに見詰められるのはちょっと……」
「おかまいなく」
困惑気味な少女。
やっぱり可愛い。
「は、恥ずかしいので……」
「おかまいなく」
羞恥で顔を赤くする少女。
殺伐とした風景を見た後の所為か、心が洗われていくような感覚さえある。
「ですから、その、あのぉ……」
「おかまいなく」
遂に涙目になる少女。
胸の内に芽生えた温かい何か……これが萌えか。
「お、お願いですからぁ」
「お―――」
「おかまえ変態」
ドスの利いた声に割り込まれた。可愛くない。
いつの間にゴブリンを仕留め終えたのか、前方で戦っていた筈の女剣士が、俺のすぐ傍に立っていた。
長剣の切っ先を俺の喉元に突き付けながら、冷たく見下ろすというオマケ付きで。
「終わったぞ、ローリエ」
「あっ、お疲れ様です」
突き付けた剣は動かさぬままに、親し気に少女の名を呼ぶ女剣士。
成程、彼女の名前はローリエか。
「それで貴様は何をしていた変態」
態度を一転させた女剣士は切れ長の青い瞳を更に鋭くし、冷え冷えとした眼差しを俺に向けてきた。
頭髪の色が対照的な赤茶色なので、瞳の青さが実に際立っている。
先程ローリエと呼ばれた少女と同年代に思われるが、身長は女剣士の方が高い。
ローリエと同じような胸当て、手甲、脛当てといった軽装に身を包み、腰には長剣の鞘とポーチが吊られた帯革が巻かれている。
こちらの彼女は盾を持っていなかった。
「おいっ、なんとか言ったらどうだ。この変態め」
返事をしない俺の態度が気に食わなかったのか、苛立ったように詰問してくる女剣士。
あんまり変態変態って言わないでほしい。
「こらこら、初対面の男性を変態呼ばわりするとは何事だ」
「初対面の女性の顔を不躾に眺めるような男など変態で充分だ」
にべもないとはこのことか。
どうやら俺がローリエの顔を見詰めていたことが、お気に召さないご様子。
「それは誤解だ。俺はただ……」
「……ただ、なんだ?」
神妙な表情を浮かべる俺に何かを感じたのか、俄かに緊張感を滲ませる女性陣。
抵抗の意思が無いことを示すため、開いた両手を頭の横に持ってくる。
この間も長剣の切っ先はブレることなく、喉元に向けられたままだったが、取り敢えず問答無用でブスッとやられる心配はなさそうだ。
両手はそのままに、ゆっくりとその場から立ち上がる。
静寂の中、ゴクリと息を呑む音が妙に大きく響き―――。
「ただ……可愛い女の子が困っている姿を見るのが好きなだけなんだ!」
「紛うことなき変態だ!」
―――女剣士の怒りの鉄拳が俺の顔面に突き刺さった。
俺の意思とは関係なく宙を舞う、我が身体。
瞳に映る景色は、空の青さと吹き出る鼻血の赤……きったねえ。
口は災いの元。
身をもってその事実を知った俺は、この身が地面へと叩き付けられる前に、自らの意識を手放した。