第26話 人魚姫
青い、青い海の中だった。
ただただ美しく、人と触れることのないその場所に人魚たちは暮らしていた。
十五になれば海上へ上がり、海の上の世界を見ることだけは許される。それをこの人魚たちは楽しみに生きていた。
そして人魚のお姫さまの姉たちは、十五になると海上へ上がり、楽しい思い出を持って帰ってくる。聞かされるお話はどれも楽しくて、面白くて可笑しくて――そして、人魚姫の乾きはどんどん増していく。
『ああ、あたしも、早く十五になれないかしら』
ただ呟く。乾きは止まらない。
『海の上の世界と、そこに家をたてて住んでいるという人間が、きっと好きになれそうだわ』
暗転。
やがて人魚のお姫さまは十五歳となり、海上へ出る為にめかしこみ、心を躍らせながら支度を進めていった。
――演じながら、俺は気付いてしまった。
この人魚の王子は、俺だ。
俺は傍観者を気取っていながらも、恋愛という美しい世界と、そこに住む水崎たちに憧れていたのだ――
やがて人魚姫は海上の世界を楽しんで、そして出逢う。
海に浮かぶ船の上。
そこに、王子はいた。
ただただ美しく、その姿は、あまりに輝いて見えた。
何かの祝いを船の上でしているのだろう。夜の海上を昼間のように明るく染めるほど、綺麗な花火がたくさん打ち上げられている。
王子は船室で大勢の貴族たちと握手を交わしている。それだけなのに、その王子はにこにこと微笑んでいて、それは、とても心惹かれる笑みだった。
だけどその顔は、すぐに曇ってしまう。
嵐。
落雷で船が真っ二つに割れ、乗っていた乗客みんなが海へ投げ出される。――もちろん、王子だって例外ではない。
『ああ、王子さまを死なせてはいけない! どうしても死なせてはならない!』
そう思って、お姫さまは必死に泳いで王子へと手を伸ばす。既に疲れきって泳げなくなってしまった王子を抱きかかえて、人魚のお姫さまは嵐が過ぎ去るまでずっと王子と共にいた。
やがて大人しくなった海でお姫さまは王子の額にキスを残し、そっと髪を撫でる。
――それだけで、俺の胸は高鳴ってしまう。
でもそんな事実にすら、俺はそっと目を逸らす――
それからしばらく泳ぎ岸へと辿り着くと、王子をそっと横たえた。
鐘が鳴り響くと、何かの用で通りかかったのか、シスターが姿を現す。お姫さまは彼女たちに見つかる前に海へと戻っていった。
しかし、そっと海から王子の様子を見ていたのだ。
だが、目を覚ました王子は微笑みと共にシスターにお礼を言っていた。助けた人魚のお姫さまには、微笑んでもくれなかったのに。
――当然だ。
だって王子はお姫さまに助けられたことなど知らないのだから――
暗転。
海に戻ったお姫さまは、また王子の傍に行きたいと願ってしまう。何度か海上へ出てみるが、やはりどうすることも出来ずに海の底へと戻っていく。
そして、人魚のおばあさまに疑問をぶつけた。
『人間というものは、おぼれて死ななければ、いつまでも生きていられるんでしょうか? 海の底のあたしたちのように、死ぬことはないんですか?』
『いいえ。おまえ、人間だって死にますとも』
おばあさまは言う。
『それに、人間の一生は、かえって、わたしたちの一生よりも短いんだよ。わたしたちは、三百年も生きていられるね。けれども、死んでしまえば、わたしたちはあわになって海の面に浮いて出てしまうから、海の底のなつかしい人たちのところで、お墓を作ってもらうことができないんだよ。わたしたちは、いつまでたっても、死ぬことのない魂というものもなければ、もう一度生まれかわるということもない』
気が付けば、おばあさまの言葉に耳を澄ませていた。
『ところが、人間には、いつまでも死なない魂というものがあってね。からだが死んで土になったあとまでも、それは生きのこっているんだよ』
そうして幾度となく言葉が重なっていく。
『ああ、どうにかして、いつまでも死なないという、その魂をさずかることはできないものでしょうか?』
『そんなことをいってもねえ』
おばあさまは渋ったように言う。
『でも、たった一つ、こういうことがあるよ。人間の中のだれかが、おまえを好きになって、それこそ、おとうさんよりもおかあさんよりも、おまえのほうが好きになるんだね。心の底からおまえを愛するようになって、牧師さまにお願いをする。すると、牧師さまが、その人の右手におまえの右手を置きながら、この世でもあの世でも、いついつまでも、ま心はかわりませんと、かたいちかいをたてさせてくださる。そうなってはじめて、その人の魂が、おまえのからだの中につたわって、おまえも人間の幸福をわけてもらえるようになるということだよ』
その言葉をじっとお姫さまは聞いているのだった。
……やがて時間は過ぎ、お姫さまは声を代償にその魚のしっぽを足へと変えて、王子の下へ行った。一歩ごとにナイフで突き刺されるような痛みが走る、その足で。
その代わりに、二度と人魚の姿には戻れず、もしも王子が他の誰かと結婚したら水の上のあわになると分かっていて、それでもお姫さまは、その道を選んだのだった。
そうして地上に上がり、足の痛みで倒れたお姫さまは、王子に拾われた。事情を聞かれても声を失った彼女は何も喋れないまま、そして王子は彼女が自分の命を助けたことに気付かないままに、けれど、優しくもてなしてくれた。
それでも、この乾きは治まらない。
『ああ、王子さま、あなたのおそばにいたいために、あたしは、永久に声をすててしまったのです。せめて、それだけでも、わかってくださったら』
――それは、俺の心の底からの叫びでもあった。
決して、決して届くことのない――
お姫さまは痛みを堪えてでも王子と踊り続け、その痛む足でも彼の言うところについていき、山に登りさえもした。
そうして日は過ぎていき、徐々に王子とお姫さまの距離は近くなる。
それでも王子の目に映るのはかつて自分を助けてくれたと誤解しているシスターだけで、お姫さまは、あくまで二番目だ。
王子さまはあの日から、ずっと、あのシスターに恋焦がれているのだから。
『あたしが、だれよりもかわいいとはお思いになりませんか?』
『うん、おまえがいちばん好きだよ』
――その言葉が、痛い。
そう口にしていながら、彼女が見ているのは、俺ではないのだから――
しかし望みがないわけではなかった。王子が見ているその人は一生修道院に仕えている。どんなに願い望もうと、例え応じであったとしても、決して手の届かない人だ。こうして傍にいて、慕い続けることが出来るのは自分だけだ。
だから、彼が望むならこの命も喜んで捧げようと、そう思っていたのに。
やがて王子は貴族のお見合いのようなものに出向き、出逢ってしまう。
その彼女に。
彼女はシスターではなかったのだ。ただ修道院でシスターとして花嫁修業をしていただけで、本当は、王子さまに相応しいくらいの貴族だった。
『あぁ、あなただ! ぼくが死んだようになって、海べにたおれていたとき、ぼくの命を助けてくださったのは!』
――そうして喜び叫ぶ王子の姿に、俺は何かを重ねていた――
そうして運命の再会を果たし、あっという間に二人は婚約し、結婚式も過ぎていく。
お姫さまの――俺の――心は、ただ軋み悲鳴を上げていた。
もうこれで全ては終わり。今夜限りで、お姫さまと王子は別れてしまう。彼女は、あらゆるものを捨てたのに。でも彼は、そんなことを知りもしないのだ。
そうして海を眺めていたお姫さまの下へ姉の人魚が現れ、一本のナイフを差し出した。魔法使いから授かった、そのナイフを。
これを刺して王子さまの血を浴びることで、お姫さまは元の人魚に戻れる。そんな奇蹟みたいなナイフだった。
もしも人魚に戻らなければ、人間の足を手に入れた魔法の代償で自分は死ぬ。ならば、ここで取るべき選択は、決まっているはずだった。
――そのナイフを眺めて、俺は思った。
あぁ、これは、本当に俺だ。
傍観者を気取っていながら、その中の水崎たちの世界へ、憧れた。やがて俺は水崎に手を差し伸べ、彼女に魅かれていってしまった。
憧れとは、飢えだ。その時点で、俺は傍観者ではなくなっている。それでも俺は居心地の良かったその場所をあっさりと捨てて、水崎の為に尽くした。
だが彼女はそれに気付かないまま、嘉地との仲は進展していく。
俺は、その気持ちを声には出せなかった。水崎を助けるといって彼女のそばにいる以上、俺はその代償にその気持ちを声に出すことは出来なくなった。
その世界に身を置くうちに俺の心は、人魚の足のように強烈な痛みを訴え、軋み、歪んでしまった。
そして、現在。
俺は村阪から一本のナイフを授かった。
嘉地が加藤を好きになってしまったという、ただそれだけの事実。
それを突き刺せば、水崎の心は死んでしまうだろう。その結果、たとえ彼女が俺を振り向いてくれなかったとしても、俺は、もう一度今までの場所に戻れるのだ。
今まで通り、白けたモノクロの世界の世界に。誰も傷つけず、誰も傷つかない、甘く朽ちたその居場所に。
分かっていて、それでも――
お姫さまは、王子とシスターの眠っているテントへと足を運んだ。そして王子の額にそっとキスをして、ナイフをじっと見つめた。それからまた、王子を見た。
彼女の唇が、微かに動く。
そして彼女は、そのシスターの名前を呼んだ。他のことなど何も知らないで、ただ花嫁のことでいっぱいいっぱいだったのだ。
人魚のお姫さまの手の中で、ナイフが震え出した。
これで終わる。
これを刺せば、元に戻れる。まだ生きながらえることが出来る。
分かっていて、そうすれば彼女は――俺は――この苦しみから解放されると知っていて、でも、それでも――……。
そのナイフを遠くの波間に投げ捨てた。
お姫さまは海へ跳び込み、あわとなって姿を消す。
――俺は、あわになる道を選んだのだ。
彼女を傷つけることだけは、絶対にしたくなかったから。
そんなことをするくらいなら、俺は、死んでもいいと思ったから。
これが、加藤の言うことだったのだろう。
彼女を一身に想い、彼女を一番に考え続けたこの想いを、醜いなどと言うな、と言ってくれたのだ。
彼女に恋焦がれていて、それでも責任を背負い、嘆き、苦しみながら、それでも彼女の為にその身を犠牲にしたその感情を、穢れた独占欲などと評してはいけない。
元から、綺麗なものなどどこにもなかった。
それでも、たとえ自分はそれが汚いと思っていても、最後の最後で自分よりも相手を思えるのなら、それはきっと、立派で、素晴らしい想いなのだ。
だから俺は認めて、誇っていいのかもしれない。
まだ俺の心は、彼女たちのいる世界にはほど遠いとしても――
あわとなったお姫さまは、一緒に上へ上へとのぼっていく何かに声をかけていた。
『どなたのところへいくのでしょうか?』
『空気の娘たちのところへ!』
――その元気な声に、俺は驚かされた。
その不思議な声は、水崎のものだった。
台詞の終盤は既に水崎たちに任せっきりだったせいで、ナレーションや他の兼役なんか、俺は大して覚えてはいなかった。だが、この声に驚かされた理由はそこじゃない。
あまりに、違うのだ。
普段の彼女の怯えた様子など微塵もない。どこまでも底なしに明るい、純真無垢なその声音に、俺はただ魅せられていた。
《だから、見てて》
《人は変われるっていうことを、舞台の上で、わたしの一番近くで》
あぁ……、見ているよ。
水崎は、確かに変わった。
ほんの僅かでも、自分の本当の気持ちはまだ揺れ動いて上手く制御できていないようだけれど、それでも、こんなにも明るく元気に振る舞えるように変わったのだ。
なら、俺は変われるのか。
彼女と同じように、変われるのか。
その答えが、そこにはあった――
『人魚がいつまでも生きていられる命を得るためには、ほかのものの力にたよらなければならないのです。空気の娘たちにも、やっぱり、死ぬことのない魂はありません。けれども、よい行いをすれば、やがてはそれをさずかることができるのです』
――あぁ、そうか。
俺はまだ、浮かび上がれるかもしれない。
絶望する必要などない。
俺にあるこの感情は、まだ朽ちてはいないのだ。いつか、きっと、このまま諦めさえしなければ、俺は水崎たちのいる世界へと、手を伸ばせるのかもしれない――
『まあ、お気の毒な人魚のお姫さま。あなたも、あたしたちと同じように、ま心をつくして、つとめていらっしゃいましたのね』
――俺を誉めてくれるかのようなあったかい言葉。
俺の奥から何かが満ち満ちて、溢れ始めてしまう――
『ずいぶんと苦しみにお会いになったでしょうが、よくがまんしていらっしゃいました。こうして、いまは、空気の精の世界へのぼってらっしゃったのですよ』
――どこまでも優しい、水崎の声だった。彼女の吹いたフルートの音色のように、その言葉は、俺を優しく包んでどこかへといざなってくれる。
ようやく何かが報われたような気がした。
彼女の声、彼女の言葉で、慰められ、認められたことが。
俺の中に開いた穴をきっちり埋めて、満たして、溢れさせる。
目や鼻の奥が、沁みるように熱くなる。
肩や胸が小刻みに震えようとする。それを深呼吸で抑えようとするけれど、何の役にも立ちはしない。
張りぼての後ろに隠れて、俺はただ喉から漏れ出そうになる声を押し殺していた――
次回、最終話となります。
最終話の投稿は本日午後10時から12時の間を予定しております。最後までどうぞお付き合いくださいませ。




