第25話 ここから始めよう
そして、朧月祭当日。
空梅雨だった分を取り返すかのように朝から土砂降りの雨だったが、それでも学校の文化祭の雰囲気がその程度で壊れることなどなかった。
八時四十分からのオープニングセレモニーに合わせて登校すればいいのだが、練習や準備などがあるから、大抵はそれよりも遥かに早くに来ている。
俺が学校に足を一歩踏み入れた時点で、その慌ただしい祭のムードが充満していた。
そこからの二時間半、生きた心地がしなかった。
舞台上で使える時間のメモの付箋を張っていた台本を破けるほど読み漁り、頭に叩き込み直していた。セレモニーなど出席だけしてずっと台本を読んでいたので、校長は珍しく軽いテンションで挨拶したらしいが、それすらろくに耳に入って来なかった。
セレモニーの後もひたすらに練習を繰り返していた。ただ時間通りに動き、委員長の要望通りに感情を込めた動きに焼き直す。
どうにかまともに出来るのではないか、と思えた頃にはもう本番直前、クラス揃って体育館の前にいた。
舞台に立つ演者は、俺を含めて既に衣装に着替え済みだ。
人魚姫ということで、俺は上半身だけだが割と露出して泳ぎやすそうに思える格好だ。脚は短パンだが、舞台に立つ直前でこいのぼりを改造した魚の足で包み、人間の足を得た後はドレスへチェンジする。
メイクも既に施されている。衣装・小道具班は嘉地を相手にするつもりでいたはずなので、俺なんかが代役ということに申し訳なくなったのだが、彼女たちはさほど気落ちした様子もなかった。それは地味なことだが精神的に結構ありがたかった。
「――コレ、マジか……」
そんな中、俺は渡された手鏡を見て絶句した。
それは気持ち悪いとかそういうことではなく、むしろその逆。
宝塚のような舞台メイクを、六割ほど薄くしたようなメイク。が、それだけでこの俺が見事な少女になっていた。
――これがメイクの力なのか。世の中の女性の顔を信じられなくなりそうだ。
「可愛いわよ」
そんな俺を見て、シスター役の加藤はにやにやと笑っていた。
「うっせーよ」
加藤はシスター服に身を包んでいた。――こうして見ると、たぶん加藤の顔立ちもいんだなと思い知らされたような気分だった。
そのほか、人魚姫の姉役の村阪たちなんかも同様にメイクや衣装に身を包んでいた。大道具の搬入も終わり、いよいよ舞台の様子が整ってきた。
「あ、いたいた」
そんな、少し緊張したような震える声があった。
水崎奏だ。
王子らしい、綺麗な衣装だった。モーニングスーツにも似た服だが過剰なアクセサリーによって、高貴な出であることを遠目でも十分に知らしめることが出来るだろう。
男装用のメイクはしているものの少々幼く見える水崎は、格好良さと可愛さの同居するとても魅力溢れる王子になり切っていた。
――いや。
言葉は、要らないかもしれない。
ただ、目を奪われる。
「似合ってる、かな」
そんな俺の視線に気づいたのか、少し照れたような笑みと共に水崎が声をかけてきた。
「似合ってるから、見せるなら俺じゃなく陽斗にしとけ」
「うぅ……。そんなのすぐに出来ないの分かってるくせに……」
うらみがましい水崎の声を聞き流して、俺は台本に視線を戻した。
そんな中で、自然とクラスメートが一カ所に集まり円陣めいたものを作り始めた。
ぼっち志向の強い俺は輪の外に行こうとしたのだが、加藤に首ねっこを掴まれて無理やり中に入れられてしまう。
やがて、中央で松葉づえをついていた嘉地が口を開いた。
「みんなごめん。俺が怪我したせいで、負担かけたよな」
「バカか。んなこと言いだしたら誰のせいで怪我をしたとか、そもそも水崎がよろけたのは誰のせいか、とか誰に責任があるのかも分からん話になるだろ。だから、誰も悪くない」
俺は台本に視線を向けたまま言った。今は少しでも頭に動きを入れておきたかったというのと、クラスの視線が集まる中で発言したから、目線を上げたくなかったという理由だ。
「……そうだな。でも、一番負担かかってるのは達也だろ」
「もう一度言うけど、バカか。最初っから演技指導とかの時点で負担かかりまくってるっつの。今さら仕事が一つ増えようが増えまいが、元から俺が一番負担かかってんだ」
「……分かったよ、この話はやめとく」
嘉地が先に折れてくれた。その呆れた様なため息は、何となくだが、ただ呆れているわけではないような気もした。
「……俺は舞台を降りちゃった。けど、気持ちまでは降りてないからな。袖から見るだけだけど、一緒に、このクラスで、文化祭を成功させよう!」
オォーっ! とクラスが湧く。
きっとこういうのが上手いから、嘉地は誰からも好かれるのだ。
「――……じゃあ、もう入るよ」
そう言った委員長を先頭に、前に舞台を使っていたクラスが出てくるのと入れ違いになるようにして、俺たちも体育館の裏へと入った。
――凄まじい熱気だった。
むせかえるような汗のにおいと、気が滅入るほどの圧倒的な熱さ。だが不思議なことに不快感はまるでなかった。梅雨ということで湿度が高く気温もそれなりにあるだろうが、そういう類の温度だけではないからだろう。
ただひたすらに暑くて熱い。部活の発表の場だとか最後の思い出作りだとか、色々な人の想いで飽和しているのだ。その何もかもが、この中で沸き立っている。
袖からちらりと体育館を見れば、かなりの数の人が座っていた。
手前と奥の二ブロックに分かれてパイプ椅子が並べられているのだが、前のブロックは全て埋まっているようで、後ろも三分の一ほどしか残っていない。
どくり、と心臓が跳ねた。
緊張などしないかと思っていた。今の俺にはそれだけの余裕もないし、俺の思考を埋め尽くすのは罪悪感とかそういう感情だけだと思っていた。
だが頭で理解するよりも遥か速く、肌が、肉が、骨が、この空気に当てられた。
どこからか、俺の身体は震え始めていた。
止めようと思うのに、止まらない。
震えは次第に大きくなって――……
「……大丈夫だよ」
水崎が、そっと震える俺の手に触れてきた。
彼女の手も震えている。だけど、それは何よりも安心できた。
「わたしも不安だけど、頑張るから」
そんな言葉に、思わず俺も笑みが漏れた。
俺が彼女に抱く感情は、ただの醜い独占欲だ。そう思わなければやっていられなかった。
だが加藤が言うには、それは違うらしい。
何が違うのだろうか。
人魚姫のような綺麗な恋愛など、俺にはほど遠い。
俺が持つのはそんなに綺麗なものじゃない。傍観者ぶっていたのに下手に引きずり込まれていったが故の、醜く歪んだ感情だとそう決めつけていたのに。
俺はまだ、何も知らないのかもしれない。
だが、きっと、ここに答えがある。
この幕の向こうに。
開演のブザーが鳴る。
「――あぁ。そうだな。がんばろうか」
震えは止まった。
思考も視界もクリアになり、俺は台本を舞台横のボールかごにぶち込んだ。
始めよう。
ここから、何かが変わると信じて。




