第24話 変わりたい
俺は、朧月祭準備で騒がしい校内で最も静かな場所を選んで、そこを目指した。
校舎のほとんどや中庭は、クラスと部活の模擬店や展示などでいっぱいだ。廊下も大きな看板の製作などで占拠されて、とても落ち着ける場所ではない。
だから、俺が来たのは駐車場だった。
ここは先生たちしか用がない。それも、その先生たちですら出勤時等以外にここに足を運ぶことはない。
どこか遠くに喧騒を感じながら、俺は曇り始めた空をただ眺めていた。
思えば、ここが全ての始まりだった。
このどこか廃れたような感じさえある貧相な場所へ、水崎に呼び出されたことから全ては始まったのだ。
水崎と嘉地の淡い恋模様も、文化祭の忙しい準備も、――俺の、醜い勘違いも。
ただ、ぼーっと無駄に時間を潰す。
もう頭が働かなかった。何をどうすればいいのかも、分からない。
――そうやって考えた結果、俺はまた俺の欲望を勝手に実現してしまうかもしれない、という恐怖があったのかもしれない。
「……達也くん」
そんな俺に、誰かが声をかけてきた。
――いや、誰か、なんて俺が気付かないような人間じゃない。
水崎奏だった。
「何だよ、まだ悩み中だぞ」
答えを出すかどうかさえも、決まってもいないが。
「最近の達也くん、少し変だから……」
「元から変だろ――じゃねぇか」
茶化そうとしたが、泣きそうな水崎の目を見ればそうするのは難しいことは分かった。
「もしかして、ここ最近のことを、責任を感じてるんじゃないのかな、って……」
ぴくりと、肩が揺れた。あんなにも鈍感だった水崎に見破られたことで、俺はごまかす余裕を失ったのかもしれない。
「……もし、そうならね。そんなに、背負わないで」
躊躇うような口調ではなかった。
あんなに弱く、消えそうな普段とは違って、その声はただ力強かった。
「……違うな。感じてるわけじゃない。本当に、俺が悪いんだ」
俺が全部、間違えた。全て俺が狂わせたのだ。
「俺は最低な人間だ。さっき嘉地が怪我をしたときですら、俺は頭の隅では心配する前に別のことをいくつも考えてた」
俺は、嘉地を心の底から心配できなかった。
水崎を助ける場面を奪われた、などとそこまでのことは流石に感じなかった。
だが、だからこそ余計に自己嫌悪に陥った。
俺はあの瞬間に、クラスの決定でこうなる可能性を予期していた。俺が代役をするかどうかは別にして、降板した嘉地の為に、という一つの意志でバラけたクラスが元に戻るだろうと、そう思ったのだ。
他人の怪我を見て、心配するよりも何よりも先に、そんなことに思い至ったのだ。
俺はどこまでも傍観者で、たとえ誰が手を伸ばそうとそれに手を差し伸べたりできない。
そう、思い知った。
なのに。
「違うよ」
否定された。
俺は、俺がこうだと決めつけた自分を、否定された。
「達也くんは優しい人だよ。――だって、そうじゃなかったら、わたしのお願いを聞いてくれるわけがないもん」
「やめろよ。そんなわけあるかよ」
俺は打算で水崎に手を助けようとした。本当にただそれだけのちっぽけな人間だ。
こんな風に水崎と親しく出来るような、そんな資格はない。
「じゃあ、断る方法が本当になかったの?」
その言葉に、俺は言葉を詰まらせた。
本当にどちらへ転んでも詰んでいたのか?
決まっている。
――そんなわけがなかったのだ。
あの場で断ろうとどうしようと、ほぼ初対面の水崎に嫌われたところで、俺は痛くもかゆくもなかったはずだ。ましてそんな冷たい態度を取ったところで、水崎が誰かに言いふらせるわけもない。
「だから、達也くんは優しい人なの。だから、ずっと一人で背負い込んじゃうんだよ」
「……、」
反論できない。――いや、したくなかっただけなのかも、しれない。
「でもね、さっき達也くんはわたしを励ましてくれたよ。陽斗くんはわたしを責めたりしないって。それは、きっと達也くんも同じだよ」
「……そうかも、しれないけど……」
それでも俺が、最低な人間ではないとは言えない。
だって、俺がやったことは。
誰に責められたっておかしくない、そんな最低なことばかりなのだ。
「まだ、自分が信じられないんだ?」
俺はその水崎の問いに答えられなかった。
「……もし、達也くんは達也くん自身が思うような嫌な人間でも、ね」
だから水崎は、優しく言ってくれた。
「人は変われるんだよ。――わたしが、達也くんのおかげで、ほんの少しだけだとしても変われたみたいに」
そう、だ。
彼女は俺と出会ったころ、とてもか弱い少女だった。
嘉地への想いだけですぐに感情が飽和し、何も出来なくなる。村阪を前にすれば縮こまってしまう。
そんな彼女が、さっき、クラスで視線を集めて発言をしたのだ。
村阪が茨のような怒りを撒き散らす空気の中で、クラスじゅうの視線を浴びて震えながら、それでも嘉地の為に文化祭を成功させたいと、そう思ったから。
彼女はこのたった数週間で、成長したのだ。
「だから、見てて」
そう言って、彼女は手を差し伸べる。
「人は変われるっていうことを、舞台の上で、わたしの一番近くで」
――あぁ。
そうして彼女はまた、俺を引きこんでしまうのだ。
その純粋な瞳で、俺をまたそんな綺麗な世界へ連れていってしまうのだ。
だから。
もう一度だけでも、夢を見てもいいだろうか。
「――分かった。舞台に立つよ」
それで、俺は変われるのだろうか。
こんなにも最低な俺も、水崎の傍へいけるのだろうか。
「うん。じゃあ、中林さんに伝えとくね。達也くんは、もう少し休憩してていいよ」
水崎は駆けていくのを俺はただ眺めていた。
そして、一つの視線に気付く。
「……ずっと覗いてたのかよ。趣味が悪いな」
「別に。声をかけるタイミングがなかっただけよ」
加藤が、校舎の影から姿を現した。
「……舞台、立つのね?」
「どうせ俺以外に出来ないんだ。ただ駄々をこねてみただけだ」
俺は、加藤に何と言おうか迷っていた。
隠した方がいいのかもしれない。だが、加藤には選択してもらわなければいけないだろう。
「……何か言いたいことでもあるの?」
やはり、すぐバレた。長い付き合いというのは、どうしても隠し事が出来ない。
「陽斗に、好きな人が出来た。――奏じゃない」
「そう」
分かっていた、というような反応だった。
「知ってたのか」
「あんたみたいに鈍感じゃないしね。陽斗の目を見たら、自意識過剰ってわけじゃなくても感づくわよ」
その言いようでは、おそらく全て加藤は気付いているのだろう。その上で、やはり加藤は嘉地には興味がない、といった風に見えた。
「結局、俺は最低だ。そういう結果にしちまったんだから」
「あのさ、さすがに卑屈になり過ぎよ。――それに、人の感情があんたの思い通りになるなんて、自虐であろうと思わないで」
冷たく、そして重い声だった。
いつも加藤は俺に怒鳴ってどつき合っている。だけどその声はちっとも大きくないのに、いつもの怒鳴り声よりよっぽど俺の腹へ響いた。
「あんたがどうしようが、こんな結果にはなってた。無意識の内にあんたが何かをして、みんなが手のひらで踊ってた、なんて高慢すぎるわよ」
……そんな風に考えたことはなかった。
だが、それはそうかもしれない。そう、思わされた。
「それに、あんたはもともとそんなに最低な人間でもないし、あんたが抱くのは醜い感情でもない」
「何を根拠に、言ってんだよ」
「……あんたさ、人魚姫の話って全部覚えてる?」
「いや……」
まったく覚えてない、とは言わない。嘉地や水崎のセリフでも重要なものは覚えているつもりだし、そうでないとシーンごとの振り付けなんかは考えていられない。
けれど、全てを覚えているわけでもない。村阪など他班が絡んでくると曖昧になるし、重要なシーンでもない限り、そもそも大した振り付けもありはしない。台詞の収録は先に終えており、それもかなり前の話だ。そんな細かなところまでは記憶しちゃいない。
「なら最後の、奏がやる不思議な声の台詞も覚えていないわけね」
最後のシーンは、泡になった人魚姫とその泡たちの会話で動きは完全になくなる。ましてや最後ということは、こちらが指示を出さなくても水崎たちは十分に上手い演技が出来るようになっていた頃だ。――そんなところまで、覚えているはずがない。
「じゃあ、明日を楽しみにしてなさいよ」
加藤は少し笑っていたような気がした。
はぐらかされたような気もしたが、それを追求するような真似を俺はしたくはなかった。
「……よく、こんな俺と仲良くできるな」
「長年付き合って来てんだから分かるわよ。あんたが思っているようなあんただったら、私は達也とこんだけ仲良くしてるわけないでしょ」
加藤のその優しい朗らかな笑みに、俺は思わずつられて笑ってしまった。
随分と久しぶりに、笑った気がする。
「……何だよ、そんなに励ましやがって。何、お前俺のこと好きなの?」
「あほ。そして死ね」
極寒の視線だった。
――そして、とてもあたたかい微笑みだった。
「ありがとな」
俺は笑いかけて、加藤に背を向けた。
ほんの少し、心は軽くなった。
まだ手足は鉛のように重く、俺の決断を鈍らせようとしてくる。でも俺はそれでも進もうと思ったんだ。
「……がんばってね」
加藤の温かい声を背に、俺は一歩を踏み出した。




