第23話 まだ終わりじゃない
結局、水崎には怪我がなく倒れたのも軽い熱中症で立ち眩みを起こしたから、というような理由で彼女は十分ほどで教室に戻ってきた。
だが、いつまでたっても嘉地は戻ってこなかった。
代わりに来たのは、北村先生だ。
「嘉地は保険医の先生曰く、軽い捻挫だそうだ。今さっき念の為ということで。部活の方の顧問の車に乗せてもらって病院に向かっている。じゃあ、私は親御さんへの連絡とかあるから一旦ここを離れる。他の教師たちと話し合った結果、準備はしてもらって構わないし文化祭も続行だが、無茶はしないように」
慌ただしく北村先生はそう言って、またすぐに職員室へと戻っていた。
しかし、だからといってすぐに作業に戻れるような図太い神経の人間はここにはいない。
「……どうする?」
加藤が問う横で、水崎は青い顔で小さくなってしまっている。
「とりあえず電話してみるよ。病院がまだなら電話くらい出るだろ」
俺は言いながら、ケータイに登録された少ないアドレス群から、嘉地の電話番号を選んでタップする。
耳に当てて、だいたい五コールで繋がった。
「もしもし?」
「もしもし、無事か」
「そりゃな。身体は打ったけど大した高さじゃなかったし。せいぜい足首の捻挫と、膝の靱帯が少し伸びてるのくらいかな。痛いは痛いけど、正直、小学校とか中学校の試合中でもあった程度の怪我だ。酷くないから大丈夫だろ」
思ったより元気な声だった。それに少し安心しながらも、それでもまだ不安は消えない。
「……文化祭、どうなりそうだ?」
俺は電話の向こうと話しているだけだというのに、その言葉で教室中が静まり返った。
「……駄目、かな」
残念そうな声がした。だが、俺は何も反応できなかった。
「経験則だけどな。それにもう台詞は録ってて時間が決まってるから、他の人の演技を詰めてカバーする、とかもできないだろ?」
「まぁ、な」
「人魚の格好してる間は脚を包んで動きまわるから負担もありそうだし……」
「……降りるのか」
――俺は、望んでいたのかもしれない。
水崎の相手役を嘉地が演じることを、嫌っていたのかもしれない。
だから、この結果さえも俺は期待していたのだろうか。
俺は嘉地からの否定と肯定、どちらの言葉を待っているのかさえ分からなかった。
「たぶん。俺の意志は置いといて、どうせドクターストップか、北村先生の方からストップがかかるだろうしな……」
「クラスの方に、伝えて大丈夫か?」
「あぁ。俺の代役とかも決めないとだもんな」
既に割り切っているらしく、嘉地の声にはそこまでの悲壮感はなかった。だが、それでもまったく何も感じていないはずはない。俺には、どう慰めればいいのかも分からない。
「……分かった」
どうにか絞り出した声は、どうしてか泣きそうだった。
「ごめん。ちゃんとクラスの皆にも謝っといてくれ」
「了解した。――一昨日、何も出来なかった分はこれで十二分にチャラだと思うぞ」
「はは。そうか、そう言ってもらえると助かる。じゃあ、そろそろ病院だから」
少し嬉しそうな笑い声だったように思う。
そして、通話は切れた。
クラスじゅうに伝えられるほど人前に立つスキルのない俺は、普通の声で加藤と水崎にだけ告げた。
「怪我の程度は、まぁ酷い感じはしなかった。声も普通に元気だったし、痛みを堪えてる様子はなかった」
「良かったわね」
「うん……」
ほっと安堵している様子だが、それでも水崎の顔色は優れなかった。
「それで、文化祭の方は?」
委員長が俺の方に近寄ってきた。まぁ、彼女やクラスにとってもそこは重要だろう。
「……無理だって。代役、決めといた方がいいらしい」
そう伝えた瞬間、クラスでため息が漏れた。やがて各々集まって、その代役をどうするか話し始めている。
「どうしよう……っ」
水崎が、カタカタと震え出した。その瞳からは、いつもの純な光は見当たらない。
「わたしの、せいだ……。わたしを、わたしをかばったから、嘉地くんは怪我しちゃったんだよ……。大事な、足なのに。ずっと一緒に文化祭の舞台を頑張ってきて、終わっても、嘉地くんにはサッカーがあるのに……」
「あんたのせいじゃないでしょ。軽い熱中症で立ちくらみしたあんたを、誰が責めるっていうわけ? 不慮の事故よ、あんなもん」
「でも……」
水崎は、納得できないらしい。その自責の念からくる震えは、決して止まりはしない。
「大丈夫だ。どうせ陽斗の方も奏が悪いなんて思っちゃいない」
「でも……っ」
そんな彼女を慰めることが、どれほど卑怯なことなのか。
分かっている。
そんな醜い男になりたくはない。
――だが、それでも。
彼女がこんなにも傷ついているのに何もしないなんてことは、俺には出来ない。
「お前が、そんな顔しちゃいけない」
優しい声が、自然と漏れた。
「陽斗が自分の意志で、自分の身体を代償にしてでもお前を傷つけまいと守ったんだ。それでお前が辛い想いをするんなら、陽斗は一体何を守ったのか分からないだろ」
その言葉を、水崎は否定しようとはしなかった。
「だから、お前は笑っていればいい。あいつのおかげで笑えてるんだっていうのを、見せつけてやればいいんだ。だから、あとで笑顔で陽斗にお礼の電話でもしな。――それくらい奏は明るくいないと、陽斗の方が可哀そうだ」
無茶苦茶な理屈なのは分かっている。けれど、たとえそうだとしても、俺は水崎にこんな顔でいてほしくなかった。
「――そう、なのかな……」
ほんのちょっとだけ、水崎は笑ってくれた。
「そうなんだよ」
小さく俺は頷く。
水崎にも少し元気が戻ったらしい。
これで良かったのだ。
「――あとは、代役をどうするかよね」
「そうだな」
そうして、クラスの方に目を向ける。
ちょうど委員長を中心に正式な会議を始めるようだった。
「じゃあ、嘉地くんの代役を決めようか――」
その直後だった。
「ねぇ、やる意味あんの?」
心底気だるそうに、嫌な声が教室に響く。
ケータイを閉じる音がした。
村阪が机に足を乗せて、委員長を睨んでいた。
「陽斗がいないのにやってどうすんの? こーいうのって、みんなでやるもんでしょ。一人でも欠けたからそいつをハブるとか、それでいーわけ?」
村阪の意見はまるで仲間意識を謳う美談のようだった。
だがその実、嘉地のいない舞台に自分が参加する意味がないから辞退したい、と言っているだけだ。
だけど誰もそれを言えない。そんな証拠もないことを言えるわけがない。
「発言は挙手で」
委員長は明らかにいらっとした様子だった。その目に灯っている怒りはいま点いたというより、ずっと燻っていたものがここに来て爆発したかのようだった。
「はぁ? どーせ聞こえてんのに手挙げるとかばかじゃないの?」
「……そうやって、村阪さんが輪を乱してるだけでしょ」
――思わぬところに伏兵がいた。それも、どうやら味方かもしれない。
元々、中林委員長は鋭い方だ。演目を決めるディスカッションで俺は上手く嘉地を隠れ蓑にしたのに、俺の意見だと見抜き演技指導係に俺を指名したのだ。
その彼女は、文化祭を成功させたいと願う高校生の女子だ。不真面目で場を壊しまくる村阪と対立するな、という方が無理だろう。
「なに、喧嘩売ってんの?」
「勝手にありもしない喧嘩を買ってるだけじゃない」
教壇と村阪の自席の間に、バチバチと火花が見える。
「あなたの個人的な思想とか恋愛感情とかはどうでもいいの。ただ、私は文化祭を成功させたい。こうして大勢で集まって一つの演技をするのなんて、ひょっとしたらもう二度とないことかもしれないんだから」
「それこそアタシには関係ない個人の思想っしょ。マジ意味分かんね」
盛大に村阪は舌打ちする。
だが、彼女もおそらく感づいているだろう。
正論で身を守り相手を叩き潰すことを得意とする彼女は、頭を使ってそうしているのではなく、本能的に相手の退路を断った結果そうなっているに過ぎない。
そうやって周囲の空気を読む力にずば抜けているからこそ、この状況が自分にとって不利どころではないことも自覚しているはずだ。
だが、それでも彼女があっさり引くとは思えない。
きっかけは最低限いるだろう。
いや、もうそのきっかけに必要な材料は揃っている。ほんのひと押しで、このクラスに充満した嫌な雰囲気を壊して、全てを丸く収められる。
だが俺にはそれが出来ない。俺にはそれを口にする資格がないのだ。
――なのに。
「あ、あの!」
そうして諦めそうになっていた俺の横で、水崎が声を張り上げていた。
小さくなっている体とは対照的に、その右腕だけはまっすぐに天井に突き出されている。
「……水崎さん、何か意見が?」
一度深呼吸してから、委員長は水崎に発言権をくれた。溢れる怒りを関係のない水崎にまで向けるのは、流石に大人げないと思っているのだろう。
「……わたしのせいで、文化祭の雰囲気が、壊れちゃったから、だから、その……」
この注目の中で発言することがどれほど厳しいか、俺には分かる。だから俺は適当な理論武装で自分を騙してでも、演目決めのディスカッションでの発言は嘉地に押し付けたのだ。
それでも彼女は、拳でぎゅっとスカートの裾を握り締めてその痛い視線に耐えて、必死に言葉を紡いだ。
「だから、ごめんなさい!」
素直に、まっすぐに、彼女は謝罪の言葉を述べる。
誰も水崎が悪いなどとは思っていない。それでも、謝られてしまえば彼女に非があったかのように感じ、謝られてしまったから、それを許したかのように錯覚する。
わだかまりだらけの雰囲気が、途端にほどけていくような気がした。
「それ、でも……っ。わがままかも、だけど……」
必死に、必死に、言葉を途切れさせまいとする。
「わたしは、舞台に立ちたい。これで舞台を辞めちゃったら、陽斗くん――嘉地くんが、きっと辛い思いをしちゃう、から……」
尻すぼみに、声は小さくなっていく。
だが、それでも十分に彼女の想いは伝わったはずだ。
「――嘉地の為に、文化祭を成功させようよ」
加藤の駄目押しで、クラスに活気が溢れる。ようやく戻ってきた、文化祭の盛り上がり。
――嘉地のためにクラスが一致団結する、という可能性を俺は考えていた。だが俺にはそのきっかけを作ることは出来なかったし、誰にもできないと思って、それは諦めていた。
けれど、事実こうしてクラスはまとまったのだ。
水崎奏の努力と純粋さが招いた、奇蹟だとさえ思った。
「それでいい、村阪さん?」
「……陽斗の為とか言われて、断れるわけねーだろっつの」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いて、しかし村阪は首を大きく縦に振っていた。
「じゃあ、嘉地くんの代役を――」
「それは、適任がいると思うの」
水崎の声はまだ震えていたが、それでも少し大きくなっていた。
「……どうかな、達也くん」
そして水崎は、まっすぐに俺を見つめていた。
思考が一瞬フリーズした。
俺が、主人公を演じて舞台に立つ? 冗談も程ほどに――と思って、それが冗談などではないことはすぐに分かった。
水崎は感情論とロジカルを絡めて、俺に頼んでいる。
嘉地の友だちだから、同じ班のメンバーだから、俺に代役をしてほしいと言っている。
それに俺と嘉地の身長や体格はほぼ同じ。衣装は当然直すまでもなく着回せるだろうし、俺の悪い目つきも、舞台なんて遠い場所に立っていれば誰も見られない些細な部分だ。なんなら舞台メイク&女装なのだから分かりはしない。
何より、俺は演技指導係だ。嘉地がマスターした舞台の動きの全ては、俺が練り上げ、時間を計算し尽くし、教えたものだ。俺自身に出来ないはずがない。
――逆説的に言えば、俺以外に舞台に立てる者が存在しない。
「お願い、達也くん」
それは水崎の願いであり、クラスの期待でもあった。
だからこそ、俺はすぐに頷けない。
俺にはそんな重いものを背負えない。
俺はただの傍観者でしかないのだ。何にも溢れず何にも乾かない俺に、そんなものが務まるわけがない。
そして、何よりも。
嘉地の代わりに水崎の相手役になることに、途方もない罪悪感があった。
「……少しだけ、考えさせてくれ」
俺はそう言って教室を出た。
空気が、重い。
外を見れば、日差しが痛いほどに晴れていた空には、いつの間にか分厚い雲がかかっていた。




