第20話 歪み始めた歯車
翌日、木曜日。
昨日の一件でクラスの明るい雰囲気は僅かにトーンダウンしていたが、それでも寝て起きれば、ある程度は忘れられるのが学生たちの特権でもある。昼休みともなれば、皆いつもの雰囲気に戻りつつあった。
「結局、衣装班は間に合ったみたいだな」
「……そうだな」
いつも通り、俺は嘉地と昼食をとっていた。
だが全てがいつも通りとはいかない。俺の口調は、どうしても今までとは違うだろう。
「気にするなよ、達也。昨日のあれは、お前のせいじゃないだろ」
「分かってる」
そんな返事をしながら、俺はどうにか頭を冷やしていく。
俺は自分を否定し、そして、もう一度だけ水崎と嘉地の仲を取り持つ。
それが、俺に許されたただ一つの贖罪であり目的だ。
昨日、俺の醜悪な独占欲のせいで水崎をあんな目に合わせてしまった。彼女の信頼を得ておきながら、俺は彼女が最も恐れる状況の再現に一役買っていたのだ。
謝って許されることではない。おそらく、謝罪自体にも意味がないだろう。
だがそれでも、俺は後悔している。
あんな状況を招いてしまった自分の不甲斐なさや、無意識に潜んだ醜い感情を。
だから俺は、彼女に誠意を見せなければいけない。
そんな醜い情動の全てに封をし、押し込め、沈めて、もう一度だけで構わないから、水崎に手を差し伸べたい。
そうして嘉地と水崎が仲良くなって、最後にもう一度だけ、言ってもらうのだ。
ありがとう、と。
それで俺は全てを諦める。
こんな醜い俺と水崎が近づくような事態にだけは、なってはいけない。だから俺はこれで終わりにする。
「……どうした、達也?」
「何でもねぇよ。この暗い雰囲気をどうしようかって思ってただけだ」
適当にうそぶいて、俺は重い箸を進める。
だが、それも完全に嘘というわけではない。
俺が自分に課した使命を果たす為には最低限、朧月祭の成功が必要だ。この淀んだ雰囲気のまま文化祭当日を迎えたところで、それは成功とはほど遠いものになるだろう。
照明のずれ、音声の遅れ、演技の飛び、尺の調整ミス、その他諸々の作業のミスは、こういう状況にこそ起こりやすいものだ。
そして、そうなれば水崎は嘉地の前で失態を晒すことになる。
彼女はそれを嫌って、ずっと練習に励んできたのだ。ならば、彼女の為にもそんな状況のまま文化祭当日を迎えさせることだけは阻止する必要がある。
俺に出来ることを必死に考える。
俺の手札は俺のちっぽけな頭脳と、加藤の行動力、水崎の人間性、嘉地のカリスマ性くらいだろうか。
しかし下手に行動すればそれは空回りし、むしろそういった気を使い始める空気が教室中に充満すれば、それはまた作業のミスを誘発する雰囲気を作ってしまう。しかも、そうなった場合には処置が出来ない。
ここでの一発勝負で、俺は文化祭の雰囲気を昨日までのものに取り戻さなければいけない。
「――考えすぎてないか?」
嘉地の言葉で、はっと我にかえる。
「お前が一人で背負い込むことじゃないだろ。そういうのはそういう雰囲気にした本人か、このクラスを仕切る人の役目だ」
嘉地が言っているのは、要するに村阪が責任を取るか、委員長がそのスキルをもってしてこの場を収めればいい、ということだろう。
だが村阪が責任を取る、ということはないはずだ。彼女はそういうタイプではない。
しかし、それでも嘉地がその言葉を発した時点で、嘉地の中での村阪の立ち位置が大きく変わってしまい、彼女を明らかに嫌っているのは分かる。だからこそ、その嫌悪感がクラスに残ったこの雰囲気の原因でもある。
村阪が嘉地に手を出さなくなれば、水崎と村阪の確執も消失する。代わりに、文化祭を終えてもなお数日の間クラスに生じたこの空気に耐える必要があるのだろう。
それでは、駄目だ。
俺が求める解決にはならない。
委員長がそのスキルをもってどうにかする、というのもなくはないが、俺ですら策が思いつかないのに委員長がそれよりも早く行動に移せるとは思えない。
「……分かっちゃいるけど、どうにかしたいとも思っちまうんだよ」
そう言って俺は半分以上残った弁当に蓋をし、カバンにしまう。
「……そうだな。俺も、それは思う」
嘉地は少しはにかんでいた。
「このクラス、楽しいんだよ。まだ二年になって二カ月だけど、こんなにいい雰囲気のクラスも滅多にないと思う。だから、このままにはしたくない」
「……じゃあ、どうするんだよ」
そんな疑問が口を衝いて出た。
俺に出来ないことを、嘉地ならやってのけるのでは。そんな期待がどこにもなかったと言えば嘘になる。
だが、嘉地の言葉は予想とはまるで違うところを走っていた。
「どうしようも、ないよ」
――また、嘉地はそんなことを言い放った。
俺や水崎の勝手な期待を、彼は知らずに、打ち砕く。
「俺には思いつかない。昨日もそうだ。俺はどうしたらいいのかが分からない」
嘉地は俺の目を見ようとはせず、ただ窓の外を眺めていた。
「だから、俺はすぐに諦める。心の底では冷めてて、誰とも対立せずに、傍観者と当事者の間くらいを適当に歩いて満足する」
――嘉地が、何を言おうとしているのか。
俺はそれを察して、戦慄した。
「だから、やっぱり憧れるんだ」
自分がどんな顔をしているのか、俺に分かるはずもない。だけど、笑っているどころか、無表情を保つことさえ出来ていないことだけは分かった。
「昨日の俺は、何にも出来なかった。奏さんがピンチだなって思ったけど、具体的にどうかばったらいいのかも分からなかったし、ただ俺は眺めるだけで、それでも目を逸らさないだけマシだと思ってた」
――あぁ。
もう遅かったのだ。
いまさら回収しようとしたところで、俺がまいた種はとうに根を張り、芽吹いてしまった。
「でもさ、茜さんは違った。状況を確認して、お前の言葉を聞いて、迷うことなくあの中に飛び込んでいける勇気って、本当にすごいと思うんだ」
「……だから、何だよ」
俺は、分かっていながら訊いた。
否定の言葉が欲しかった。
「この前、言っただろ? 俺の好みのタイプ」
……もちろん、覚えているさ。水崎の為に、覚えたんだ。
《子供みたいにまっすぐで、何かに一生懸命に熱くなれたりする人》
そういう人を尊敬して、尊敬できる人と付き合いたい、と彼は言った。
「……俺、もしかしたら茜さんのこと好きになったのかも、しれないな」
とうとう、俺の一縷の希望は砕かれた。
「別に今すぐ告白しようってわけじゃない。昨日、奏さんを見捨てたような俺が茜さんの横には立てないしな。だから時間がかかってでも相応しい人になるって、そう思ってる」
がらがらと心が崩れていくのを自覚しながら、俺は空虚な声で平静を保ってみせた。
「そんなことを俺に相談すんなっつの。文化祭で同じ班になっただけで信頼しすぎだ」
「それもそうだな。悪い、ちょっと舞い上がってたかもしれない。忘れてくれよ」
嘉地の照れた笑いに、俺は、目を背けることしか出来なかった。
もう、駄目だ。
歯車は歪み始めた。
外れ、食い違い、誰の願いとも違う方向へ空転し。
やがて、壊れてしまうのだろう。
俺はそれを望んでいたのかもしれない。
その結果、俺だけが望みを手に入れてしまうかもしれないのだから。
――だから俺は、自分が大っ嫌いなんだ。




