第19話 大嫌いなんだ
「……おつかれ」
教室の並ぶA棟を離れ人気のないB棟の階段に座り込んでいた俺の顔の横に、缶ジュースが現れた。
「……サンキュ」
それを受け取りながらもふたを開けずに持て余していると、それを持ってきた本人の加藤は俺の横に座り込んだ。
「お前こそお疲れ。奏の失敗も色々とりなしてくれたんだろ」
「まーね。奏がやらかすのには慣れてるし、衣装班の班長は委員長だったから、ちゃんと謝ったら許してくれた。それにそもそもそれほど酷い傷じゃなかったみたい。――ま、委員長は人魚のおばあさん役とかもやってるから、ちょっとは無理させちゃうんだろうけど」
その言葉でようやく、俺は安心することができた。水崎がやってしまったことは村阪のこと抜きにしても、ただ謝ればいいという問題ではなかったからだ。
「……どうしたの?」
「何がだよ」
口を付けたジュース缶の上の方を以ってぷらぷら揺らしながら、加藤は俺の顔を覗きこんでいた。
「随分と疲れ切った顔してる」
「同じ班のメンバーがやらかした挙句に、文化祭準備のクラスの雰囲気ぶっ壊したんだぜ? 気が重くないわけないだろ」
俺はそう言った。事実、そういう面は確かに存在する。
「――けど、それだけじゃないでしょ」
でも、彼女には見透かされていた。
「……どこまで、気付いてんだよ」
俺の問いに、加藤はうっすら呆れたような表情を浮かべているように見えた。
「あんたが奏を好きだってことまでよ」
「……っ」
殴りつけるような言葉だった。
オブラートに包むことをまるでせず、俺が目を背け続けていた事実を彼女は真正面から叩きつけた。
自覚は、あった。
彼女と初めて話したその瞬間から、確かに俺は引きつけられていたのだ。そもそも俺が面倒を引き受けてまで誰かの力になりたいと思った時点で、その予兆はあったのかもしれない。
確信したのは、昨日。
あの演奏を聴いた瞬間に、俺のそれは目の背けようのない事実となった。
でも、それでも、俺はそれを認めてはいけなかった。
「……そんなわけ、ないだろ」
あり得ない。そんなことは、あってはいけない。
「……どうして? あんたは馬鹿だから、奏みたいに接してくれれば、ころっと恋に落ちそうだけど」
「さりげなく馬鹿とか単純とかアホとか言うな」
「そこまでは言ってないけど……」
いつも通りの調子を織り交ぜようとするのに、どうしてもそうはならなかった。最後の加藤の声だっていつも通りのツッコミではなく、慰めるような声だ。
「……それは、綺麗なものだよ」
だから、俺は言うしかない。
言ってどうにかなるでもない。
でも、加藤はそれを望んでいる。
俺が抱えているものは吐き出すことで軽くなると、彼女はそう思ってくれている。
「その気持ちは絶対に綺麗なものじゃなきゃいけない。絶対に、たとえひと欠片でも穢れちゃいけない。だから誰もがそれを求めるし、誰もそれを疑ったりしない」
本当は、そんな気持ちを吐き出したって何にもならないけれど。
「それは……」
「だから、もしかしてそれは穢れているかもしれないと疑った時点で、そいつが抱いているのはもう恋なんかじゃない。ただの醜い独占欲だ」
だから、俺は水崎に恋などしていない。
俺は俺がどれほど醜い人間かを知っている。
自分の立場を考えればいい。そして、俺がやったことも。
今の俺は水崎と嘉地の仲を好きなように操作できる立場にいる。それだけの最低限の頭脳程度は、俺だって持っている。
俺が意志を持って行動すれば、嘉地と水崎は簡単に離れてしまうだろう。
――そして。
俺は、無意識でそれをしていたかもしれない。
始めの文化祭の話し合いであれだけ成功したから、後はそうそう上手くいかない。そのツケを払うように問題が生じた?
違う。確かに水崎がヒロイン役を勝ち取ったのは俺にとっては運だったが、だからといってあとの展開全てが悪運だったわけじゃない。
俺は、予測できたはずだ。
俺は、回避できたはずだ。
俺は鈍感じゃない。村阪の始めの発言で嘉地に好意を寄せていることなど分かっていたし、その村阪はろくでもない人間だということも分かっていた。
なのに何故、ここまでのことになったのか。
どうして俺は、最後の最後で嘉地に助けの手を差し伸べられることを、拒んでしまったのか。
結論は一つだ。
――俺は、水崎に嘉地とくっついてほしくなかった。
俺は醜くも、努力しても嘉地は離れていくと水崎に見せつけて、水崎に嘉地を諦めさせようとしていたのだ。
意識はしていなかった。だが無意識的であろうとも、そんな穢れたことをする人間が抱く感情が、恋などという綺麗に澄んだものであるはずがない。
そんな勘違いはやめろ。
俺はただ、汚く醜く、水崎を独占しようとしているだけだ。
その為に、水崎を尽く傷つけようとしているだけだ。
「さっきの事件で確信したよ。俺は最低なクズ野郎だ」
分かっていて、それでも俺はそこから抜けることを少しも望んじゃいなかった。
俺は今でもなお、嘉地と水崎が離れればいいのにと願っている。
終わっているのだ。
俺の心は、水崎とは違う。
彼女が根本的に善で、純粋で、綺麗な存在であるなら。
俺は根底から悪で、腐っていて、醜いものだ。
だから俺は、どうしようもない。
「……違う。もしそうなら、あんたは水崎の演奏を聴かせてもらえるわけがないんだ」
加藤はそんなことを言ってくれた。優しく、いつものようなどつき合うような口調ではなくて、本当に温かい言葉で。
「今日のアレだって、あんたは悪くない。水崎の立場を必死に考えて、あんたも嘉地も動けないと理性的に判断しただけよ。感情的にはすぐにでも助けに行きたかったのに、それを堪えてたのよ。嘉地を貶めるわけでも、水崎を傷つけようとしていたわけでもない。もっと誇っていいはずよ」
長いこと付き合っているから。どうせそんな同情で、俺が堕ちることを必死に止めようとしている。
――でも、駄目なんだ。
「違ぇよ。お前の目には、俺が聖人君子にでも映ってんのか」
吐き捨てて、立ち上がる。とうとう口を付けなかった缶ジュースを乱暴に階段に置く。
「俺はもっと最低なヤツだ」
もう夢を見るのはやめろ。
俺が抱くこの感情が恋であるなどという勘違いを棄てて、ただの醜い独占欲だと受け入れ、その上で、俺はその気持ちを切り捨てろ。
たとえそれが、出来ないとしても。
これ以上、無様を晒したくないのなら。
「――だから俺は、自分が大嫌いなんだ」
俺は、俺という存在を否定するしかない。