第18話 ヒーローなんていないし、誰にもなれない
唐突に、それは起こった。
台風が逸れたせいでさほど酷くはないがとうとう雨が降り出した放課後、生徒たちは天気にめげることなく朧月祭準備が始まった。
俺が憂鬱ながらも演技指導をいつも通りしていると、衣装・小道具班が俺たちの方に声をかけてきた。何でも、ようやく衣装が完成したらしい。
そういうわけで実際に着合わせなどが始まり嘉地や水崎たちは教室を出て着替え場所を探しに行き、演技指導係の俺は仕事がなくなったので休憩を兼ねてしばらく昇降口傍の自販機で時間を潰していた。
そして、戻ってきたらこれだ。
「何が、あったんだよ……」
目の前で、全員が準備の手を止めて教室の中央を見ていた。
その視線の先には、水崎がいた。
村阪と、取り巻き三人に囲まれた状態で。
この状況で誰かに声をかけるのは非常に気まずい。まして見渡す限り加藤も嘉地も、そしてクラスのまとめ役の委員長も出払っている様子だ。――だからこそ、このタイミングなのか。
俺は状況がいまいち分からないまま、ただ水崎と村阪の様子を見守るしかなかった。
「あのさぁ、どーいうつもりなのか知んないけど、さすがにコレはないっしょ?」
そう言いながら、村阪は何かの布を水崎に突き付ける。
古めかしい、そして新しい布と古い部分が入り混じるドレスだった。誰かの昔に使った演劇用の衣装を仕立て直した、と衣装班は言っていたから、おそらくはあれが衣装なのだろう。
そして、それはせっかく縫った箇所が破れている。修繕不可能ではないだろうが、少なくとも衣装班に徹夜などの無理を強いることは確実だ。
「ご、めんなさい……」
村阪たちに囲まれる形で、水崎は青い顔でその衣装を見ることしか出来ないでいた。
おそらく、水崎がやってしまったのだ。
彼女は動揺するとすぐに取り乱す癖がある。大方、衣装合わせを終えて戻ってきたら、王子の格好が似合っていたとかで誉められた拍子に――といったところだろう。
これは、マズイ。
全面的に水崎が悪い。だから誰もかばえないのだ。
「別に、アタシは謝ってほしいわけじゃないんだよね。ってか、謝ったってコレ直るワケじゃないっしょ?」
ひらひらと、水崎が自分のしてしまったことを後悔していると知りながら、見せつけるようにその衣装を村阪は揺らす。罪悪感だけで、彼女を押しつぶす為に。
「アタシらは奏たちとは違う班でコメディ担当だけど、マジメにやってんだよ? この時期に衣装合わせできないと、流石にマズイんですけど」
嫌味ったらしく村阪は言う。
その追い詰めるような言葉に、水崎はスカートの裾をきゅっと掴んで伏し目がちになって、ただ小さく震えていた。
「直す、から……」
「出来んの? 奏は準主役じゃん? どこにそんな時間があるワケ?」
「徹夜でも、何でもする、から……」
「だからぁ、奏は準主役でしょ? 文化祭は明々後日なのに徹夜して衣装直して、それで舞台立てるのかって話でしょ。クマとか作ったみっともない顔で舞台に立って、挙句に倒れられたらこれ以上に文化祭台無しになんだよ。そこんトコ、ちゃんと分かってんの?」
村阪の言い分は正しい。俺ですら納得しかけてしまうほど、それは正論だけで塗り固められている。
だが彼女の言葉には明確な意図が見えない。――いや確かに見えているが、それはここにおいて全く関係がないからこそ、どうしても、何を言っても、無駄になる。
水崎はそろそろ限界だ。村阪に脅され、無言の圧力をかけ続ける取り巻き三人に囲まれて、もう何分経つのかも分からない。こんなもの、並の精神ではとても耐えられない。
「どーすんの?」
どうするもこうするも、全て道を塞いでおいて何を言うのか。
謝罪も補償も求めない事故後の交渉などあってたまるか。そんなものはただ人の精神を追い詰めているだけ、暴力となんら変わらない。
……いや、おそらく彼女は自覚を持ってその暴力を振るっている。
村阪がそんなことをする理由は、一つ。
水崎が気に入らず、そして、村阪が嘉地に少なからず好意を寄せているから。
吹奏楽部時代に目障りで潰した相手が、自分が好意を寄せる嘉地を独占している。その状況が気に喰わず、俺の作戦があまりに成功してしまったせいで、そのストレスの対象は全て水崎に向かってしまったのだ。
だからたかだか衣装一つで目くじらを立て、徹底的に壊そうとしている。
理解してか本能的かは別にしても、おそらく彼女は幾度となくそのチャンスを狙っていたのだろう。そうでなければ、メイン演技班や委員長が見事に誰もいないタイミングで水崎を囲むなどあり得ない。
俺はこの状況を予見できたはずだ。
水崎がドジを踏むことなど分かりきっていた。村阪が水崎を疎んでいることなど百も承知だ。水族館の件を見れば、村阪が多少無茶をしてでも嘉地との接触を図り、水崎を排除しようとしていることだって分かったはずだ。
なのに俺は、それを無視した。
どうせそこまで出来ないだろうと高をくくり、文化祭の演目や班決めで一通り成功したことに満足し、俺はそこで思考を放棄していた。
――俺は、何をしていた?
俺に出来ることは考えることだけだ。スポーツも出来ないし勉強も不得意。友だちの数はさほどおらず、せいぜい嘉地の人脈に頼る程度。
何にも溢れず、何にも乾いていない俺には、ただ思考を繰り返し俺以外の主役たちが脇へ逸れないように補正するしかない。それだけをしていれば良かったのに。
それが演技指導などというクラスに一人しかいない存在に抜擢され、それなりに成功を収め始め、頼まれていた水崎と嘉地の仲も少しずつ進展させて、それでいい気になっていたのではないのか。
その様が、コレだ。
溜めに溜めたツケは、こんな風に水崎に押し付けるような形になってしまった。
「女子こえー」
誰かがそんな呟きをする。
「あぁ?」
そして、村阪の人睨みで教室中が静まり返る。
水崎は未だ、ただ震えるだけ。
俺に出来ることは何だ。
この状況で、俺はどうすればいい。
助けに行くか? 「そこらへんにしとけ」とでも言って?
そんなことをすれば、おそらく大抵の人間は俺が水崎に好意を寄せていると勘違いする。それは結果として嘉地と水崎の距離を開くきっかけにしかならない。やっと成功し始めたというのに、それは駄目だ。――せめて、水崎自身が俺に助けを求めれば状況は多少変わるのに。
これでは打開策が見えない。
「……これ、どういう状況だ?」
そんな俺の横に、いつの間にか嘉地が立っていた。
「奏が、村阪の衣装を破っちまったらしい」
嘉地に事情をかいつまんで説明する間に、俺は嘉地が助ければいいのではないかと思って、だがすぐに否定する。
それは結果として村阪の水崎への憎悪を増すだけだ。今日この場は凌げても、以降も険悪なムードのまま綱渡りをしなければいけない。
手はまだ残されている。
水崎自身が俺であれ嘉地であれ、助けを求めればいい。きっとそれだけで状況は変わる。村阪の水崎への嫉妬心は変わらないだろうが、それでも自発的に動いたか受動的に動いたかで他のクラスメートの印象は変わるし、後のフォローも用意しやすい。最低でも村阪以外の関係が崩れることだけは避けられる。
だから、呼べ。目線でもいい。
それだけで水崎は、この地獄を脱することが出来るはずだ。
「だいたい、吹奏楽部にいたときもそーだったよね?」
村阪はそこで、吹奏楽部の話を持ち出してきやがった。
――誰のせいで彼女のあの演奏が失われたと思っているのだ。お前の無意味なストレス発散のエサになったせいだというのに。
脊髄の辺りから溢れ出る熱を、俺は必死に抑え込んでいた。
「あのときも鈍いっていうか周り見えてないっていうかで、足並み乱した挙句に勝手にやめておいて、何にも成長してないよね」
「……ごめん、なさい」
「だからぁ、謝ってほしいんじゃないって言ってんじゃん。どうするのかって話でしょ」
そうこうしている間にも水崎の精神力は削れていく。
彼女はこうして演奏することを極端に恐れ、吹奏楽部を辞めてしまったというのに。彼女にとってこの光景は、トラウマ以外の何物でもないはずなのに。
それでも、彼女は耐えているのだ。
何と、強いのだろう。
そんな強い少女の心が、いま目の前で折られそうになっている。
助けなければ、と思った。
「……、」
そして、水崎はちらりとこちらを見た。
どうしても耐えきれなくなって、ようやく出た「助けて」という、その意思表示。
必死に泣くのを堪えるのが分かるような赤い瞳で、恐怖に耐えて握り締めている拳を震わせて、その目線を――嘉地にやったのだ。
何かが、俺の中で堕ちていく。溢れていたはずの怒りの熱は、途端に冷え切っていく。
だというのに、だというのに、そんな俺に全てを破壊するような言葉が聞こえたのだ。
「……どうする?」
誰でもない。その言葉は、嘉地陽斗から発せられたものだ。
「どうする、達也」
嘉地はそんなことを言った。
水崎は今、これほど辛い目に合っても必死に耐えていたというのに。
水崎は今、それでも耐えきれずに最後の最後で嘉地に助けを求めたのに。
水崎は今、何度となく彼女に手を差し伸べた俺ではなく、お前を選んだというのに。
そのお前が気付かないだと?
「……っ」
ふざけるな、と吐き捨てそうになって、俺は必死に押し殺した。
そんな感情は、俺の独りよがりな八つ当たりだ。
嘉地がその思いに気付く方がおかしい。そんな風に感づかれない為に俺は今まで動いていたのだから、嘉地を責めるのは間違っている。
分かっている。
分かっているのに、俺は、嘉地を認められそうになかった。
水崎にとって嘉地は絶対のヒーローで、水崎が押し殺した悲鳴で助けを求めたのはそのヒーローなのだ。
その嘉地が、ただの人間のように何にも気付かないことが、許せなかった。
嘉地は、ヒーローでなければいけないというのに。
「……助けにはいけない。男子の俺たちがしゃしゃり出ると、溝が深まるだけだ」
怒りで震えそうになる声をどうにか整えて、そう口にした。
感情論を排除し冷静になって考えても、嘉地をここでけしかけるのは駄目だ。
水崎を助けるのは他の誰かに任せた方がいい。嘉地には、最後に乱れたクラスの雰囲気を取りなしてもらうのが得策だ。
――俺は、いつの間にかそんな風に考えていた。
「……これ、どうする?」
そしてようやく戻ってきた加藤。
破れたドレスを掲げられているのだから、どんな鈍感でもある程度は分かるが、元々の村阪と水崎の関係などを知っている彼女のことだ。僅かにこの状況を見ただけでも細かい事情も察しているだろう。
そしてその上で水崎と嘉地の関係を考慮して動くには、どうするべきかを訊かれたのだ。
俺は自分の嫌な感情に蓋をしたまま、彼女に説明する。
「俺たちは行かない方がいいかもしれない。――だから、急いで頼む」
「分かった。助けてくる」
それだけ言うと、加藤は案の定飛び出していった。
「ちょっと、もういいでしょうが」
四人に囲まれている水崎を引き剥がすようにして、加藤は言った。
「あぁ? アンタには関係ないっしょ?」
「うちの班員よ。勝手に拘束しないでくれる?」
加藤も割とさばさばしている方だ。村阪との口喧嘩になってもおそらく退いたりはしない。
「だから、その奏がうちの衣装を破ったんでしょ? きちっとどう責任取るのか明確にしてもらわないと、こっちもタダで済ませるわけにはいかないんだけど」
「衣装がないと今日の演技も出来ないわけ? 元から予定じゃ衣装は明日って話だったのに、今日奏がやらかしたってだけで、そんなに追い詰める必要がどこにあるっていうのよ」
「演技とか衣裳のあるなしじゃなくて、この破れたのはどうするのかって話っしょ」
「だったらそれはあんたの班じゃなくて、衣装班に対して奏が謝罪をしてから具体的にどうするかを話し合うべきでしょ。たとえあんたの衣装であっても、元々の完成予定の明日まであんたが水崎をそこまで責める理由にはならないって言ってんのよ」
「それは……っ」
村阪が怒りか羞恥で頬を染めていたが、それでも言葉は出てこない。
これで加藤の勝利だ。これではもう村阪は水崎を責めることは出来ない。
「行くよ、奏。衣装班のリーダーには私も一緒に謝ったげるから」
「え、あ……」
「ちょっと!」
まだ村阪は突っかかろうとするが、彼女はもう詰んでいる。
加藤はさっさと衣装班の班長に話しかけ始めていたし、もう村阪に対するクラスメートの視線はただの悪人に対するそれだ。
村阪があからさまな嫌悪といら立ちを見せる。
「……ほら、この険悪なムードを取りなして来い」
俺は肘で嘉地を突っつき、茶化すように言った。
この状況で嘉地に全体の雰囲気を丸めてもらうために、俺は嘉地を足止めした。水崎のあの視線に気づかなかった時点で、嘉地にはその役目しか負ってもらいたくなかった。
「お前、たまにムチャ振りするよなぁ」
そう苦笑しつつ嘉地は村阪の方に近づいて、奏の分も謝ってくれた。村阪としても嘉地と二人で話せるきっかけになったのだから、多少は嫉妬心を和らげてくれるかもしれない。
そうしてどうにか文化祭らしい雰囲気を取り戻し始めた教室で、俺は、ただ一人取り残されていた。