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あわいろ  作者: 九条智樹
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第17話 自分にだけは嘘をつく


 一夜明けて水曜の朝。朧月祭は既に明々後日に迫った。


 空は思い切り曇天だ。時季外れな台風接近の知らせがあるがその足取りは重いせいで、警報の一つも出ることなく本日もまことに不本意ながら授業がある。


 俺の心は軽いんだか重いんだか分からないまま、結局、無の境地に達していた。要するにいつもと変わらずぼーっと寝ぼけた頭で、遅刻ギリギリの通学路を歩いていた。


「おーっす。随分と不景気な顔してるわね」


 どすっ、と俺の背中に鈍い衝撃があった。顔をしかめて振り向くと、そこには大方の予想通り、加藤がいた。


「イッテェな……。世が世なら傷害罪で現行犯逮捕できるぞ」


 というか現代社会なら十分に可能だろう。


「何よ、小学校からの中の人間を犯罪者にしたいわけ?」


「おう」


 子供のように素直に返事をしたのと同時、どがす、という音と共に加藤の貫手が俺の脇腹の腹筋と背筋の間を見事に突き刺した。これは、ちょっとシャレにならない……っ。


「どうしたの? 顔色悪いわよ?」


「人体急所って知ってるか……?」


 俺は朝一番で死にそうな思いをしているというのに、加藤の方はからからと笑うばかりだった。殴りたい、この笑顔。


「で。お前、部活どうしたんだよ」


「今日は朝練休みなの。毎日毎日全部の部活が朝練してたらグラウンドは今の三倍くらいの広さ要るわよ?」


 確かにそれもそうだな。――が、どう整理しても俺が殴られた理由は見つからないんだが? まぁいつものことか、と納得しそうになった俺はちょっと危ないんじゃないだろうか。


「しっかしあれね、もうすぐ文化祭ねー」


「そうだな。そろそろ俺は過労で死ぬ予定だ」


「……どんだけ貧弱なのよ……」


 そんなことを言われたところで、連日下校時刻どころか延長届提出後の完全下校時刻まで、帰宅部のエースである俺が学校に残っているというのは異常だ。これだけ社畜のように働いて残業手当も出ないとか、本当にやっていられない。


「だいたい、家に帰っても録音した音声とストップウォッチ片手に、動きにかけられる時間の測定やってんだぞ。それも連日深夜まで。そろそろリアルにヤバイ」


「大丈夫よ」


 ひどくぞんざいで適当な返事を加藤はする。これが文化祭で一緒のグループに属した幼なじみらしき人間の発言なのか。世の中は誰も彼も俺に冷たすぎる気がする。


「せめて根拠を示せ、根拠を」


「人間、一回くらいの過労じゃ死なない。ソースは文化祭後のあんた」


 もはやソースですらない。ソースを強制的に造ろうとする脅迫めいた言葉だった。どこのブラック企業ですか。


「これで寝不足で授業態度とかもろもろ悪くなって、俺の指定校推薦の予定にヒビが入ったらお前を本気で恨むぞ」


「大丈夫。これがなくてもあんたの脳は堕落していく一方だから」


 くっ。本当のことだから反論できない……っ。


「――……どうしたわけ?」


 そんないつも通りのやり取りをしているというのに、何故か加藤はそんなことを訊いてきた。


「どうしたって、何がだ?」


 俺はいたって普通に振る舞っていたはずだ。

 何も変わらず、何にも動じず、今までの俺でいたはずだ。


「何て言うのかな……。邪眼が一段と輝いてる?」


「そうか。そろそろ黒龍波をマスターする頃か」


 龍に喰われてパワーアップでも図るとしよう。


「っていうのは冗談で。今日はちょっと機嫌悪いみたいだけど」


 加藤はさらりと俺のボケを受け流していた。……どうやら俺の些細な変化にすら、本当に感づいたようだ。


 これが女の勘なのかと驚愕する一方で、おそらく勘だからこそ根拠などないのだろうとも思う。だから、俺はごまかすことにした。


 ――その事実にだけは、気付きたくないから。


「別に」


「その発言で機嫌が悪くなかった奴を私は知らないんだけど」


 加藤の言葉は黙殺して、俺は歩いていく。


「昨日、奏にお礼をもらったんでしょ?」


 知っていたか。まぁ、水崎と加藤は仲がいいから当然か。


「……おう」


「それでどうして機嫌が悪くなるのよ」


「機嫌は悪くない。奏のあの演奏は、本当にいいものだった」


 それは今でも思う。彼女の演奏は純粋に素晴らしいものだった。

 俺は芸術になどてんで興味がないし、あの演奏を聴いて他の音楽家に興味が湧いたわけでもない。だが、それでもあの演奏だけはいい。

 ずっと聴いていたいと、そう思わせる何かがそれにはあった。


「じゃあどうして……。いや、いいわ。あんまり聞くものじゃないわよね、そういうのは」


「助かる」


 確かにあの演奏はいいものだ。なのに、それを聴いた俺の心は晴れるどころかより一層曇り始めていた。


 俺ですらそれをちゃんと言葉にして説明できない。

 俺の抱くこの複雑な感情は、まだ言葉に出来るほど組み上がっていない。それに、それが言葉に出来てしまうほど理解してしまえば、俺の何かが絶対に壊れてしまう。


「ま、奏が演奏するっていうのはちょっと意外だったわ」


 加藤は俺の心に負担をかけないようにか、話題を選ぶように言ってくれていた。


「意外? 元から奏はフルート習って吹いてたんだろ?」


「やめたのよ、奏は。高校で吹奏楽部に入って、そこで人の前で演奏そうすることを嫌いになっちゃった」


 俺は言葉を失った。

 あんなにも綺麗な音色を出せる彼女が、その演奏をやめてしまった? なぜ?


「どうしてだ」


 気づけば、俺の声音は脅しているかのようだった。

 自分でも、その低さに驚いてしまう。


「……それは私から言うべきじゃないんだけど……。でも、奏があんたに演奏を披露したってことは、たぶん、言ってもいいってことなのかもね」


 加藤はいつのまにか、普段のふざけた口調を排除した声になっていた。

 そして、告げる。


「いじめよ。奏は一年の時に村阪にいじめられて、音楽そのものをやめてしまった」


 ぐらり、と視界が揺れた。

 頭の芯から熱が溢れ出て、目の奥に焼けるような痛みを感じた。


「いや、ごめん訂正するわ。いじめ、って言ってもそれほど悪質なものじゃないのよ。ただ、奏は見ての通りちょっと鈍いっていうか、とろいところがあるでしょ。それが村阪は気に食わなかったみたい」


 加藤は言いながらも、一度も俺とは目を合わせようとはしなかった。

 水崎はよく言えばマイペース、悪く言えば周りが絶対に見えない。鈍感で、純粋で、周りの人間もそうだと思っている。だからこそ俺のような腐った人間に恋愛相談するし、お礼などと言って演奏さえしてくれる。


 それは、見る者が見れば疎まれる存在だ。

 出る杭は打たれる。そうして彼女が僅かに目立つだけで、良く思わない者はいる。ましてあの非の打ちどころのないルックスは、それゆえ同性の反感を買ってしまうだろう。

 村阪のように自分が中心に立つことが好きな人間には、おそらく邪魔な存在なのだ。


「それに奏の演奏は確かに上手いんだけど、楽譜通りじゃないみたいなの。アレンジっていうほどじゃないけど、集団で演奏するときに呼吸がずれてるんだって」


 俺もそれは思ったことだ。彼女の演奏は、どこか独特だった。俺はそれが決して嫌いじゃないし、おそらく多くの評論家はそれを否定など出来ないだろう。だが集団の演奏においてだけはそれを否定し、煙たがるはずだ。


 後のことは、想像できる。

 村阪は人の意見を、人の心を潰すことを楽しめるような人間だ。それでいて、その意見はほとんど誰にも反論できないような正当なもの。

 水崎を真っ当な理由をもって、その理由で自分の愉悦を隠して、ただ心を執拗に甚振り潰す。

 そうして、あんなにも綺麗な音色は披露する場を失われてしまったのか。


「だから奏は部活をやめて、演奏もやめて、一人でふさぎ込んでいた。それを助けたのが、嘉地陽斗」


 その名前に、俺の体はピクリと反応してしまった。


「奏は部活には戻らなかったけど、演奏することを完全に放棄しなかったのは、たぶん晴斗のおかげよ。でもやっぱり、人の前で演奏するのには抵抗があるみたい。一度私が頼んだときもやんわりと断られちゃったし」


 加藤は優しく、俺に微笑みかけていた。


 ――やめてくれ。


 そう思った。


「あんたは奏にとって、それをしてもいいと思わせたくらいに信用されてるってことよ」


 ――そんな言葉をかけるな。

 ――俺が特別なんじゃない。俺は水崎の特別じゃない。


 もしそうなら、俺は、俺は……。


「……それはただのお礼だ。だから、俺はそのお礼に報いるようにするだけだ」


 言葉にして、俺はそれを確認する。

 今の俺の行動目的はただそれだけ。それ以外の余計な感情は排除して、何も考えずにそれを遂行する。


 そうでなければ、俺は気づいてしまう。

 それだけなら、いい。

 だがその結果として、俺は自分が最低な人間になることを知る。

 それを知るまでに、俺は、絶対に水崎を傷つけているはずだ。


 それが分かっている時点でもはや救いはないと知りながら、それでも俺は必死にその事実から目を背け、気づかないふりを押し通し、全てを丸く収めるしかない。



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