第16話 カラオケ・リターンズ
――そうして、三十分後。
俺は、水崎につれられるままに目的の場所に着いた。
「で、カラオケか」
そこは先日訪れたばかりのカラオケ店だった。変わらず広いし、変わらず明るい。二人で来ているせいか、むしろ面積に関しては余計に広く感じる。
「ねぇ! ちゃんとカラオケの部屋とれたよ!」
そりゃ会員カードを作って店員の問いに受け答えしていれば、こっちは客なのだから部屋の案内くらいされるだろうに。初めて出来たのがそんなに嬉しいのだろうか。
「これがお礼か? そりゃカラオケは別に嫌いじゃないが、たぶん奏と俺じゃ曲の好みが合わないぞ」
「うん、元から歌う為に来たわけじゃないからね。あ、でもお礼の後は歌って帰ってもいいんだけど」
「歌わないのにカラオケ……?」
とうとう純真無垢で天然ボケな水崎奏は、本当にただのアホの子に成り下がってしまったのだろうか。
「むー。達也くん、ひょっとして失礼なこと考えてない?」
「そんなわけないだろう」
「まぁいいもん」
可愛らしくちょっとだけ頬を膨らませて水崎は先に歩いていく。小さな歩幅のせいで、俺は別に普通に歩くだけでついて行けてしまうが、おそらく早足だろう。
そして部屋に着くなり、水崎はカラオケの機械の音量を切ってしまう。これで曲を入れずとも流れ続ける広告のようなものも聞こえない。――が、何をしているのだろう。
「んん。えっと、達也くん。ありがとうね」
軽い咳払いと共に、ぺこりと頭を下げる水崎。
「おう」
「だから、今からお礼に一曲だけ」
そう言って、水崎はカバンの中から黒い本革か合皮か分からないが、とにかく直方体で重厚なケースを取り出した。
長さは四五センチくらいだろうか。幅も十センチほどあるし、よくそのスクールバッグに納まっていたものだ。
「えへへ。ちょっと驚かせようと思って隠してたの」
そう言って水崎はそれを開く。
中にあるのは、純粋な銀色に輝く金属の筒が三本。短い一つは穴が空いていて、後の長短の二本はボタンのようなものがたくさん付いている。
触れることさえ許されていないような高級感のあるそれは、おそらくフルートで間違いないのだろう。
「達也くんへのお礼は何がいいかなって思って、色々考えてたら、ここのチラシに楽器の持ちこみオーケーって書いてあったから、閃いたの」
てきぱきとその銀色の筒をくみ上げ、一本のフルートに仕立て上げながら水崎は言う。
「前にわたしがフルート吹けるって言ったら、ポイントが高いとか言ってたから、目の前で吹いてあげたらお礼になるかなって思って、それでね、えっと……」
「言いたいことは分かった。ありがとうな」
水崎が言葉に困ったようだから俺はそう言ってフォローした。
俺は何も尽くしていない。まだ何も成果を上げていない。
それでも、水崎はそれでもいいと言ってくれた。
俺は怠惰に生きていたのに、水崎はそんな俺を必要だと言って、あまつさえお礼をくれると言うのだ。
ならこれ以上の言葉は要らない。ただ俺はお礼を受け取ろう。その上で、その礼に報いるような成果を彼女の手にもたらせるように、努力しよう。
――それ以上では、絶対にない。期待をしてはいけない。
「じゃあ、一曲ね」
水崎はフルートにそのやわらかそうな唇を付けた。
そして、吹き始める。
俺の身体を、澄んだ何かが駆け抜ける。
耳で聞くテレビやCDの音とはまるで違う。それは直接空気を震わせ、肌に刺さり、こんなにも細い音だと言うのに腹の底から響かせてくる。
俺は音楽的な技術などまるで分からない。だが、それはあまりにも綺麗な旋律で、俺は初めて音というものを知った。
これが音色なのだ。
俺の眼前にはもう水崎はいない。俺の視界は海のように澄んだ青に包まれ、やがてそれは嵐の前のように深い群青へと変わり、一転して空の蒼へ。
俺は耳ではなく全身でその音を感じ、その美しい色に心を奪われた。
どこまでも綺麗で、純粋だった。
やがて、彼女の音色は静かな水面へと変化し、透明になって消えていく。
「――どうだった、かな?」
照れくさそうに笑う彼女に、俺は真っ先に拍手で答えた。
「凄かったよ。俺は芸術とかまるで分かんないし、その技術も全然知らないけど、とにかく、凄かった」
そんなことしか口に出せない自分を恥じながら、俺はただ打ち震える心で感じていた。
俺は専門家ではないから分からないでいたが、よく彼らは《音はその人を映し出す鏡》だと言う。
俺はその意味を、初めて理解した気がした。
この音は、水崎そのものだ。
嘉地を想う淡い恋心や、俺へと向けられたその純粋すぎるほどの優しさ、そういった綺麗な感情が音となって溢れ出ている。
素晴らしく、その音は全てを惹きつける。どこまでも甘い魅力があった。
水崎の心は、あまりにも綺麗なのだ。
――だから。
――これは駄目だ。
「こんなに素晴らしいのを聞いた後じゃ歌えねぇよ。素直に今日は帰って、明日以降の奏と陽斗をくっつける作戦でも考えて、このお礼に報いる努力をしないとな」
「く、くっつける!?」
ケースにしまおうとしたフルートを落としそうになるほど、水崎は取り乱していた。そんな光景を見て俺はひとしきり笑い、そして、一度深呼吸した。
――このままでは俺は、気付いてしまう。
気付いてはいけないことに気付き、信じようとして、どうせ信じられない。
ただ俺が無様なほどに勝手な勘違いしてしまうだけだ。
それだけは、駄目だ。
再認しなければいけない。俺はそんな世界にはいない。俺がいるのは、もっと白けたモノクロの世界。誰も傷つけず、誰も傷つかない、甘く朽ちた場所だ。
水崎がいるような、一つの果実を求めて傷つけあい、失い続ける痛みしかない世界では絶対にない。
だから俺は、目を閉じた。
この湧き上がる想いに嘘だと封をして、俺は、忘れようと思った。
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