第15話 奏は真面目でいい子です
そんな週末も明け、台詞の収録や動きの指導を開始した月曜日も過ぎ去り、本日は六月十一日の火曜。四日後には文化祭当日という、切羽詰まった状況の――はずだった。
「――ぶっちゃけ、昨日でだいたい方向性は示したし、あとは個人の練習度合だからなぁ」
俺たちメイン演技班はすでにほとんど役目を終えていた。
まだまだ練習の余地は残っているが、最低限個人が動きを把握しなければ始まらない。その上……、
「悪いな、達也。そろそろ一回くらいは部活に顔を出しとかないと顧問の先生がうるさいんだ。明日からはちゃんと出るから」
「右に同じ。ったく、別に私がいなくても部活は大丈夫のはずなのに、部長が私ばっかり頼るせいで……」
など、諸々の都合で嘉地と加藤は戦線を離脱している。
「奏と二人で、何をどうしろってんだよ」
当の奏は昨日必死にメモをしていた台本とにらめっこして、時折手を動かしたりして動きをチェックしている。マメだなぁ。
「……そういや、火曜日って塾じゃないのか?」
「ん? 今日は担当の先生の都合でお休みだよ。金曜日はあらかじめ休むって言ってあるし、今週わたしはずっと文化祭準備が出来るよ」
真面目だ。俺だったなら塾を口実に準備をサボり、その上で準備を口実に塾すらサボる自信がある。――まぁ塾に関しては事実、現在絶賛サボリ中だが。
「……そんなに熱心にやらんでも。別に俺たちのほうは余裕がたっぷりあるんだし」
「だめだよ、達也くん。そうやってるとあっという間に余裕なんてなくなっちゃうんだから。ウサギとカメの話くらいは知ってるでしょ?」
めっ、とでも言うように叱られてしまった。何なんだろう、この幼い子供のような心を持った少女は。俺の汚れっぷりが露わになってしまうじゃないか。
「それに、わたしはこのお話が好きだから」
水崎は大事そうに台本を抱えていた。
「人魚姫はわたしみたいだなぁって思ったら、なんだか物語全体に感情移入しちゃって。そしたら熱も入るっていうか……」
「……似てるか?」
「あ、そんなに美人じゃないだろっていう意味? 失礼だよ、達也くん」
「そういうこっちゃないんだが……」
そんなに頬を膨らませて抗議しなくても。あざといんだが可愛いんだか分からない。ただちょっとドキっとした。
「どこが似てるんだ? 見た目の話じゃなくて」
俺の何気ない問いに、水崎はまっすぐな瞳で答えてくれた。
「……嘉地くんみたいな人が見る世界は、きっと明るいんだよ。だから、わたしは憧れるの。す、好きな嘉地くんと、嘉地くんのいる世界に」
……なるほど。海の底にいる人魚姫は、王子と王子のいる地上に憧れている。
いや、それだけじゃないのか。人魚姫は王子の傍に行く為に声を捨てて脚を手に入れた。水崎は嘉地の傍にいる為に、今はまだ自らの想いをひた隠しにして嘉地と仲良くなった。
これから先、人魚姫のように水崎がなってしまうかどうかは分からない。
分からないからこそ、余計に感情移入してしまうのだろう。
「……あと、ね」
台本で半分顔を隠すようにして、水崎はちらちらと俺を見ていた。
「嘉地くんの前では、失敗できないし」
クラスの他の誰にも聞こえないような、俺だけに聞こえるようなその呟きは、その小さな声とは裏腹になにか熱い芯のようなものをたたえていた。
……なんてまっすぐに嘉地だけを見ているのだろう。
その感情はあまりに穢れなく、どこまでも綺麗で、まるで繊細なガラス細工のように思えた。
「……そんだけ想っているんなら、いつでも陽斗って名前で呼んでおけ。せっかく名前を呼び合うチャンスを作ってやったのに、メイン班のメンバー全員がいないとヘタレるんなら意味ないぞ」
「うぅ……。達也くん、ちょっとスパルタじゃない……?」
「別にゆっくりやってもいいけど、それは去年のうちに茜がやろうとしたんだろ。それでダメだったんだから、ちょっとは厳しくしないとな」
などと言いながらも、実際俺はそこまでヘビーな要求はしていない。あくまで俺が全てを背負って、自然に嘉地と水崎が話せる空間を提供しているに過ぎない。
そこでも距離を作られたら俺はどうしようもないから、少しは頑張れと言っているだけだ。
「そうだね。うん、わたしちょっと甘えてたかも」
彼女はそう素直に言ってはにかんだ。
太陽の眩しい光を受けた、本当に輝くような笑顔で。
「達也くんはずっと頼りになるから、つい甘えちゃうんだ」
「……別に頼りにされるほどのことなんかしてないだろ」
まっすぐに向けられた彼女の言葉に、俺は目を背けていた。
俺は歪んで荒んで打算しかできないような、邪な人間だ。そんなまっすぐな目で見られるような人間じゃあない。
「ううん。達也くんのおかげでわたしは嘉地くん――陽斗くんとこうして一緒に文化祭で同じ舞台に立てるんだよ? 達也くんのおかげで一緒にカラオケだって、水族館だって行けた。達也くんは、自分が思っているよりもずっといい人だよ」
「……やめろ。照れるだろ」
そう言って俺は水崎から視線を逸らし、窓の外をただ眺めていた。
俺は、慣れていない。
こんなにも綺麗な感情を向けられることが、俺はどうしても耐えられない。
嘉地や加藤のように、俺は若干馬鹿にされているくらいで丁度いい。そういう棘も甘みもないやりとりは心地良く、俺の心の表面だけを埋めてくれる。
だが水崎は違う。俺とはまるで住む世界が違うとでも言うようにまっすぐで、純粋で、俺の心の内側に潜り込んできてしまう。簡単に傷付いてしまう、その奥へ。
「そうだ、達也くん」
「……んだよ?」
その奥底を守るようにして少し冷たい言い方になったかもしれないが、水崎は気付いてはいなかった。
「今日はこれくらいにしてさ、遊びに行かない?」
「……お前、さっき自分が言った言葉覚えてるか?」
ウサギとカメの例を出して真面目にやろうといっていたばかりの本人が、いったい何を言い出すのだろうか。三歩歩けばでおなじみの鶏並みに残念な頭だ。
「へ? あ! そうだったね! ……ごめん」
水崎は少し顔を赤くしてしゅんとしてしまった。ここでそのままにしてしまうには、あまりに可哀そうだ。
「……いいよ、行こう。なんか意味があるんだろ?」
さっきまでのやり取りを考えると、まるで意味もなく誘っているとは思えない。彼女なりの考えがあるのなら、尊重すればいい。
「う、うん! 実はね、達也くんにこんなにもしてもらっているのに、わたしは何もしてあげられてないから、少しだけどお礼がしたいなぁって思っててね、それで――」
「そういうのはちゃんと告白が成功してからにしろよ」
「そそ、そんなの無理だよ!」
水崎はテンパりながらまた目を回していた。
「……まぁそうだろうな」
無理なのに何で俺が手伝ってるんだ、というツッコミは呑み込んでおくことにした。
「で、お礼って何だ? 別に金も食べ物もいらないぞ。そんな物品をもらえるようなことはしてないから」
「大丈夫。そういうのじゃないよ。でも、あんまり期待しないでね? そんなにいいものじゃないから」
「俺の行為に見合ったお礼ならそうだろうな。ま、行くか」
水崎の謙遜に合わせてそう言って、俺は席を立った。