跨る天使――混ざり合わないものを抱擁している
夜は何かに見張られている、そんな気がする。その落ち着かなさや不安は、矛盾するようだが僕を安心させる。その時の僕は、社会の煩雑さのことを忘れられるし、紫苑に関することからも、少しだけ解放される。僕はその時、孤独でいられる。本当は、孤独こそ僕に与えられる唯一の慰めなのだ。朝に取り乱した気持ちは、時間が解決してくれるわけではなかった。だが夜の存在の大きさが、僕に安堵を与えてくれる――お前はもう、眠るだけでいい。それだけでいい、と、言われている気がして。
だがそれは家に戻るまでの話だ。部屋に入ってオルゴールのネジを巻き、メロディーが流れ始めれば、僕はまた紫苑について悩まなければならない。そして自分の存在の汚さに絶望したくなる――いやそれも、それもこの夜には訪れなかった。
オルゴールが、壊れてしまった――ネジを巻くことができない。ゼンマイが切れたのだろうか。それともどこかの部品が外れたのだろか。ともかく、僕はもう二度と、このオルゴールを聴くことができなくなってしまった。もっと泣き叫ぶだろうかと思っていたが、そんな気にはなれなかった。ただぽっかりと虚無感のようなものが心に生まれて、抗いようもなく座り込んだ。
いや、おそらくこれで良かったのだ。僕はオルゴールが自分と紫苑を繋ぐ唯一のものだと思っていた。だがそれは違う。きっと違う。僕と紫苑は、もはや何ものによっても繋がれてはいなかった。あえて言うならば、天使の存在を肯定することだけが、僕等の繋がりだったのだ。ではオルゴールは、僕にとって一体何だったのだろう――それは過去だ。単なる過去だったのだ。なぜならオルゴールが流れている時、僕の心に思い浮かんでいたのは、あの時の、そう、中学生の紫苑だったのだから。だから、僕と紫苑の関係が完全に崩れてしまう前にオルゴールが壊れてしまったのは、それはそれで良いことだったのだ。僕はまず、過去を越えることができるだろう。中学生の時の紫苑を手放すことができるだろう。
そう言えば、紫苑は朝、僕に「今でも好きだよ」と言った。思い出すだけで全身が痛くなる。それほど残酷な言葉、僕にとっては絶対的な溝を突きつけられたような、そんな言葉、だが僕はこの言葉についてもっと考えてみる必要がある。紫苑が言った「今でも」という言葉の意味を。それは、未来に向けられたものなのか、それとも過去に向けられたものなのか、つまり、この先紫苑が僕を好きになるのではなく、今既に好きだ、と言っているのか、それとも、昔から紫苑は僕のことが好きで、それが「今でも」続いているという意味なのか。会話の文脈からすると、未来に向けられたものだと解釈するのが適切だとは思うが、紫苑にそんな時間感覚など通用しない。
僕はもう一度、紫苑の部屋に行って、「今でも好きだよ」と言ったあの言葉の意味を訊くことができる。ただ、その答えを正確に理解できるかどうかという問題がある。紫苑が世界をどう捉え、どう考えているのかなど、僕には分からないのだから。一体――一体どうすれば、紫苑を理解することができるだろうか。僕に社会を捨てろと? 棗を完全に切り捨てろと? ではどうやって生きていけば良いという? あるいは、天使が命の雫でも運んで来てくれるのだろうか。
全ては馬鹿らしい妄想だ。僕は壊れたオルゴールを前にして、それでも明日になれば仕事に出かけなければならない。もはや過去にすがることができなくなったという、その大きな変化が僕にどうせまってくるとしても。
ああ、でも、僕には自信がない。紫苑に会えるだろうか。僕はこの部屋から出たくない。紫苑に会うということは、僕が僕の不完全さを目の当たりにするということだ。だから僕は逃げたい。逃げだしたい。僕は紫苑になら、本当の愛を捧げることができるだろう。だが僕は社会に生きる者として、この不完全な己のまま生きなければならない者として、棗という選択をしたい。そうだ、僕には棗がいるのだ――いいや、しかし、それももはや遅すぎた! 紫苑の美しさを知っている僕にとって、棗だって僕と同じように醜く不完全な存在なのだ。あの醜さとどう向き合えば良いと? どう抱けば良いと? 僕は棗にだって会いたくない――そう、会いたくないのだ。
どうして、紫苑も棗も、僕の前から去ろうとしないのだろうか。紫苑はどこへだって行ける。棗だって、手を貫いている杭を外せば、すぐにどこへでも行ける。そして警察に行って、僕を訴えれば良いのだ。僕は晴れて罪人と認められ、むしろ晴れ晴れとした気持ちで生きることができるだろう。
声だ。声が聞こえる。しゃがれた声、唸るような声、ああ、あれは棗の声だ。棗が何か言っている。「来てほしい、来てほしい」と、妖怪のような情念を込めて、僕を呼んでいる。背筋が冷たい。ぶるぶると震えてしまう。僕は――僕はそう、行かなくても良いのだ。全く、棗の呼び声に応える必要なんてない。ないのだ――ないはずなのに、僕の足は向かってしまう。オルゴールはもう音がでない。僕はもう、過去の紫苑と出会えない。だからと言って、ああ、オルゴール代わりとでも言うのだろうか、あの、ひしゃげた棗の声が!
ドアノブに手をかける。回す――そして押す。暗い廊下、明かりもなく、窓から差し込む光もない。夜はこの静寂だけが全てなのだ。そこに棗の声を置いたのは、僕だ。手探りで廊下の明かりのスイッチを押す。天井の小さな電球が点く。黄色みがかった幽かな明かり、そのもと、窓ガラスに映る僕自身。恐れている。僕は今、恐れている。
僕の足音に気が付いたのか、棗が声を出すのをやめた。薄暗い廊下にしゃがみ込む棗がいる。左手の杭は壁から外れているが、手はまだ貫通したままだ。
「私に杭を。早く杭を打ってちょうだい」
「もうやめよう。こんな狂気じみた生き方なんて、何の意味も生まない」
「人でなし! 畜生! この鬼畜め!」
「僕はもう、何でもいい。早くここから出て、警察に行くんだ。僕を訴えればいいじゃないか」
棗の顔が上がり、僕を直視する。恐ろしく力のこもった、暗い目だ。どうにかしている――いいや、そうじゃない。そうじゃないのだ。人間はきっと、何にでもなれる。おそらく、そういうことだ。天使にもなれるし、鬼にでもなれる。とすれば、僕は一体、何になれるだろうか。何になれば良いのだろうか。
「棗、僕は一体、どうしてこうも中途半端で、結局何も選ぶことができないのだろうか」
「くそったれめ!」
「そうじゃないんだ、棗、僕は今、本当に、心の底から棗に対して悪かったと思ってる――思っているんだ」
棗の呼吸が変わった。少しずつ、少しずつ穏やかになって、目付きから力が抜けた。それでも射抜くような視線で僕を見ている。試しているのだろうか。それとも、執念を捨てる気になったのだろうか。
「あんたはひとつ間違っているよ。何も選ぶことができなかったって? それは違うよ」
「少なくとも、僕は自分の意志では選んでいない」
「選んだことがあんたの意志だよ」
「そうかもしれない」
涙が出てきた。なぜだろう。棗の優しさから? それとも自分の生き様に? いいや、僕は本当のところ、何も分からずに進むだけ進んでいるのだ。そして後になって、正しかった、間違っていた、と、世界に教えられる。
「少しだけ、ほっとした」
棗がぼそっと呟く。その声は、かつての棗の声だった。少しだけ、懐かしい。
「あんたはずっとあんただった。私はね、打算で物事を選ばないあんたが好きで、その不格好なやり方しかできないのが、やっぱりあんただった」
「それは棗、君は本当の僕を見ているとは言えないよ」
「そうだろうね、でも、それでいい。私はあんたに、いつまでも私の理想でいてほしいっていう、それだけだから。あんたは私を杭で打ち付けた。その時私は、自分がキリストとして、私達の関係性を背負って死んでいくんだと思った。でも私達のキリストはあんただよ。それは紫苑さんじゃない。私でもない。その間で揺れるあんたこそが、キリストなんだよ」
「そうかも、しれない」
おそらく、棗の言うことは間違っていない。それはとても重たい言葉だ。だが事実、僕は紫苑を背負っている。棗も背負っている。そして僕には、どちらかを選ぶことができるし、どちらも捨てることだってできるのだ。それでも僕は、どちらもしないだろう。できない、と言ったほうが良いかもしれない。
「今度こそ、水を持ってきて」
「きっと、今夜中に持ってくる」
棗の表情から力が抜けた。とても衰弱している。だがそこには、僕が彼女から奪ってしまったものが蘇ってもいる。おそらくこれが人間なのだ。必死になって地べたを這いずり回っている、それも、意識の及ばないところで。
僕は紫苑の部屋へ向かおう。今ここで棗と話したということは、次に紫苑と話すということなのだから。それに僕には、彼女に伝えなければならないことがある。夜の紫苑に会うのは久しぶりだ。会ってくれるだろうか。光のない場所で、それでも彼女は純粋な光でいられるのだろうか。
薄暗い廊下を歩く。白い釘が落ちている場所へ。わずかな光の下で、やはりそれらは白く、少しだけ陰っている。そうだ、闇のなかには必ず影が生まれる。そして影こそが、その「もの」の本質であるのかもしれない。それは見える内部だ。同時に、存在の不可視ともなる――では紫苑は?
僕はドアをノックする――一回、二回――そして三回――降り立つ静寂に体が収縮する、かと思えば鼓動が内部から体を押し広げようとする。ああ、やはり――やはり、僕は今すぐここから逃げだすことだってできるのだ。それでも僕はドアノブを握る。回すのか――いや、まだ紫苑の声が聞こえていない。寝ているのかもしれない。だとすれば入るわけにはいかない、だが、僕はそれでも部屋に入って、彼女を起こすということもできる。
「どうぞ」
声がした。紫苑の声がした。一瞬、僕の内部は光に照らされ、目の前に、光に満たされた彼女の部屋が浮かび上がった。そしてすぐ消える。だがそれは確信だ。僕にとって確信なのだ。この扉の向こう、紫苑のいる部屋は今だって明るい。夜の闇を押しのけるように輝いている。
ドアノブを回し、ドアを開ける――光、そうだ、光だ! 白い部屋に、彼女はめいっぱいの光を注ぎながら座っている。だが僕の目は眩まない。この光は存在だ、紫苑だ、だから僕は今、光であり、紫苑なのだ。
「いらっしゃい、私の天使」
窓に向かって床に座っている紫苑が振り向いた。屈託なく、何ものも犯すことのできない清浄な微笑みが僕を迎えてくれる。
「紫苑、少しだけ悪い知らせがあるんだ」
「なあに?」
「昔、紫苑にもらったオルゴールが壊れてしまった。毎日聴いていたから、少し寂しい」
紫苑は振りむいたまま首をかしげ、さて、何のことかと考える。いくらか間が空き、「ああ」と思い出して、僕と向かい合った。
「あの時のオルゴール? もうずっと昔の。今まで使ってくれてたんだ」
「よかった、思い出してくれて」
紫苑がにこりと笑う。それだけだった。良いとも悪いとも言わず、壊れたことを気にするでもなく。僕はひとつ、紫苑のことを誤解していたのかもしれない。彼女と会話なんかできないと思っていたこと、おそらくそれは違う。僕や棗は、話をする時、常に過去や未来を伴っている。過去のことや未来のことを考えながら話す。だが紫苑はいつだって、今現在にのみ集中している。彼女は過去や未来を語らない。今というこの一瞬だけが全てなのだ。だから、過去に引きずられたりはしない。未来を心配したりもしない。
「夜にやってくる天使もいるのか」
「たくさんいるけど、今日は特別な天使がやってきた」
紫苑がいつものスケッチブックを指す。ベッドにあるそれを取って紫苑に渡すと、すぐにぱらぱらとページをめくりだした。白いページがあり、黒いページがある。そして止まったページには、多彩な色が付いていた。
「今日の天使はこれ」
僕は息を飲む。同時に涙が溢れた。この、いきいきとした色遣いで描かれたひとつのページ、そこには、――ああ、そこには、僕自身だ、僕自身――僕が――僕の姿が描かれている、紫苑の手によって!
「跨る天使。いつもね、仲の悪いもの同士を行き来してるの。全てが繋がりますように! って」
「そうだな――そうかもしれない」
僕はスケッチブックを紫苑に返す。返す時、彼女の白くて柔らかい手がかすかに触れた。はっとする。どうやら紫苑もはっとしたようだ。目が大きく開いて、すぐに、くすくすと笑った。
「外に連れて行ってほしいの。あなたとだったら大丈夫」
「もちろん喜んで。どこに行こうか」
「あなたへのプレゼントを買いに」
「分かった。準備するよ」
振り向いたら、ぐっと手を掴まれて、僕は立ち止まる。紫苑の手だった。白くて温かい手が、僕の手を握っている。そうだ、その通りだ。今ここで紫苑と離れるというのはありえない。彼女には「今」しかないのだから。だから僕は、常に紫苑の「今」でいなくてはいけない。そしてそれは、不可能なのだ。僕には到底できないのだ――だから僕は、今この手を振り切って、夜の誰もいない闇のなかへ逃げ込んだっていい。だがそうはしないだろう。僕はこの手を離さないのだ。今、僕と紫苑の触れている部分は、一瞬の矛盾だ。だが僕はここに居続ける――逃げたくなりながら、自分の汚さを嫌悪しながら――そして常に、紫苑の白さに惹かれながら。