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紫苑  作者: 武田章利
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誘う天使――無関心、本当は我々が求めているだけだから

 オルゴールの音、いつもと同じもの、それは間違っていない。僕は紫苑からもらったこのオルゴールを毎日聴いている。音やメロディーが急に変わることなどありえない――ありえないはずなのに、今日はどこか、様子がおかしい気がする。どこかが欠けたのだろうか。摩耗して少しずつ音が変わっていくものなのだろうか。それならばそれで、僕は受け止めることができる。僕と紫苑の関係も、ずっと同じものであるはずがないのだから。

 紫苑は変わった――と、少なくとも棗は言う。そして僕はいつも、これに対して疑問なのだ。紫苑は何も変わっていない。関係が変わっただけだ。そしておそらく、僕や棗が変わってしまっただけだ。紫苑は今でも純粋な心のままで、白い服を着て、白いベッドに寝て、そして光の白さのなかで微笑む。だが誰も、紫苑のようにはいられなかった。僕は大人になって世界の不公平を知ったし、棗は情欲を知った。それらはとても強い力で、僕等を紫苑から遠ざけてしまったのだ。もはや――そう、もはや、僕と紫苑を繋ぐものは、このオルゴールだけなのかもしれない。僕の四散した魂は、このオルゴールの音のもとでのみ、再び集結してくれる。僕は紫苑を思う。天使と戯れる紫苑を思う。だから僕にはまだ、かろうじて紫苑を理解することができる――時があるのだ。

 だが今日のオルゴールは少し違う。もしこのままオルゴールが壊れて音を出さなくなってしまったら――そうだ、ティッシュが必要なのだ。棗が欲しがっていたもの、左手を壁に杭で打ちつけられたまま、彼女はティッシュを欲しがった。水も欲しいと言った。痛み止めを飲むのに必要だと言っていた。どうしようか、昨日は唾液で呑みこめと言っておいた。今日もそうしてもらおうか、それとも、水くらい出してやろうか。紫苑ならどうするだろうか。どうもしないような気がする。もはや彼女の体は、情欲や知識に染まってしまった僕等に触れることができない。あの純白は、守られているのではない。周りが、近付けないのだ。

 オルゴールの音が止まった。もう一度ネジを巻こうか。いや、そろそろ行かなければならない。だが音がないと僕の心は定まらない。紫苑がばらばらになっていく。そしてその隙間に棗や仕事のことが入り込み、僕は社会に出ていくことになる。もう一度だけ、ネジを巻きたい。だが、時間はない。

 オルゴールに背中を向けると、紫苑の声が頭のなかに蘇る。これは思い出だろうか。それともただの想像だろうか――きっと想像だ。紫苑との思い出なんて、一体何を覚えているだろう。オルゴールをもらったことくらいか。彼女とどこかに行ったことは? 彼女と何か話したことは? そうだ、僕は僕の道を歩み、紫苑は天使の道を進んだ。どこに接点があると言うのだろう。僕は結局――

 さあ、ティッシュだけ持っていこう。棗にはそれだけで十分だ。昨日は酷い涙だった。ぐしゃぐしゃになった棗の顔、あれが情欲の醜い末路だ。人はそんなものなのだ、紫苑、誰も、君のようにはいられない。病気なのは僕や棗のほうなのだ……。

 ドアノブを掴む、回す、ドアを押す。今日も光が動き回る。廊下にも光、そしてその先の、暗くなった一角に棗、壁に手を打ちつけられて、生気をなくした顔の棗がいる。一晩でかなりやつれたようだ。この時間で彼女が落としたものは、一体何なのだろうか。どうも醜さは落とせなかったようだ。

 コツコツと、自分の足音が響く。棗が虚ろな目をはっきりとさせて、僕を見つめてくる。彼女の前で止まり、ティッシュの箱を投げつけた。もはや悲鳴も上げず、自由な右手で何枚か取ると、それで顔を拭いた。落ちかけた化粧がぼやけて広がり、彼女の顔はさらに病的になった。これはこれで、良いかもしれない。今なら、もう一度だけ、棗を抱けるかもしれない。昔は――そう、昔は、僕等は本当に愛し合っていたのだろうか。そう問えば、今ならはっきり違うと言える。僕等は勘違いしていた。情欲や、肉欲を、愛だと思い違っていたのだ。――僕はそれでも、紫苑のオルゴールを聴かなかった日はないし、彼女のことを忘れたこともない。おそらくこれが、本当の愛なのだ。

「醜さが際立っているよ。でもそれと同時に、変な性的魅力もある。きっとそれが棗だ。そういう道を、君は選んだ」

「そう……最後まで残ったのね、性的なものが」

 彼女の声は低く潰れていて、そこには性的なものが欠如している。――彼女は生きたいだろうか。それとも、自分の生に対して執着を失くしているのだろうか。

「この一晩で、君が一体どんなものを落とすことができたのか、ちょっとだけ考えてみた。おそらく、真っ先に美しいものを捨ててしまったようだ」

「それは違うわ。捨てたのではない、捨てさせられたのよ。まずは自由を、次に尊厳を」

 彼女の目が、真直ぐに僕を射抜く。何を言っているのか。この目にはまだ、尊厳がある。彼女の、棗としての誇りがある。だが、僕はおそらく、悪いことをしている。彼女がこんな仕打ちを受けなければならない理由は、本当はどこにもないのだ。少なくとも、この社会一般のなかには。彼女は普通の女性で、薬剤師で、立派に仕事をしている。少し性的なものへの興味が強いかもしれない。だがそれだって、社会のなかにおいては、そんなに異常なことではない。

「僕は棗に謝らないといけない。こんなことをしてしまって――」

「でも気持ちはないでしょ」

「そうだ、僕は、自分のしたことが間違いだったとは思っていない」

「なら謝らないで。私の手を貫いている杭は、あなた自身。これが、私達が紫苑さんの側でずっとやってきた、恋人ごっこの真相だったのよ」

 僕はかがんで、ティッシュを一枚取る。それで棗の口元を軽く拭いてやった。彼女の表情が、少しだけ――本当に少しだけ笑って、すぐに痛みの歪みを取り戻した。

「水は今度持ってくるよ」

「いいえ、もう要らないわ。痛み止めなんて飲まないから。それよりも欲しいものがあるのよ」

「それは?」

「杭よ。もっともっと、私の体に杭を打ち込んで欲しいの」

 一瞬ぞっとした。だが彼女のこの欲求は、おそらく、尊厳を取り戻そうとする試みだ。彼女が最後まで持ち続ける性的な魅力と混ざり合って、こんなにも歪んだ形を取ってしまった、そう理解したい。

「分かった。でもそれも今度だ。ハンマーを持っていないから」

「駄目よ。あなたの手で打ち付けて」

「それは復讐か」

 棗は黙り、しばらく虚ろな目をしてから、不意に僕の前に立ち戻ってきた。

「そうね――」

 僕は彼女の頬をはたく。パンッと音がして、彼女の顔が壁の方を向いた。どうしてそうしてしまったのか、分かるようで分からない。これは衝動だ。僕の衝動だった。僕は立ち上がる。どうしようもなく空しい気持ちで。ああ、紫苑、僕は紫苑を愛していて、そこに少しだけでも近付きたいと願うのに、やっていることは棗と変わりはしないのだ。僕も棗も、美しいものを真っ先に捨ててしまった、醜い人間なのだ。

 床に落ちている杭のひとつを拾って、自分の心に打ち込みたい。それが僕の醜さ全てを背負ってくれるように――いいや、そんなことできっこない。僕や棗には、無理なのだ。杭を踏まないように気を付けながら、僕は廊下を進む。紫苑の部屋へ、釘の十字架に守られた部屋へ。見えてきた。白い釘の十字架。いくつも落ちているそれらは、少しだけでも僕の憂鬱を引き受けてくれるだろうか。そうだ僕は、本当は、紫苑に会いたくなどない。そこにあるのは悲しさだ。どうして人間は環境によって変わっていくのだろうか。そしてどうして、紫苑だけが変わらずにいられるのだろうか――いいや、それは違う。紫苑だって変わっていく。だが僕や棗とは違い、染まっていくのではなく、澄んでいく。

 紫苑の部屋のドアを軽く叩く。小さな返事が聞こえて、ドアを開ける。白い光が部屋中で反射している。そのなかで紫苑は白い服を着て、窓に向かってぺたんと床に座っている。「紫苑――」彼女の名前を呼ぶと、少しだけ頭が動いた。だが顔は窓の方に向いたまま。でもこれでいい。僕は今、燃えるような気持ちだ。いやきっと、心は燃えている。あらゆる情念を浄化するために燃えている。この白さ、紫苑が創りだす白さは、何ものにも代え難く純粋で広大だ。僕は今にも跪きそうな体を必死に立たせて、少しだけでも彼女に近付くため、腕を伸ばす。届かない――そう、届かない。二重の意味で、届かない。もう一度名前を呼んでも良いだろうか――だが、できない。そう、僕にはもう、できない。

「ずっとね、おいで、おいで、って誘ってくれる天使がいるの。もうずっと前から」

 不意に、紫苑が喋りだした。糸が切れたように僕の腕が垂れる。決して、届いたわけではない。だけど喜びがある。紫苑と話すこと――それが会話にならなくても、意志が互いに通っていなくても、彼女の声のなかにいられるということ、それは僕にとって幸せだ。そして同時に――残酷だ。

「でもね、誘ってくれる天使にはついて行っちゃ駄目なの。あの子達はいつもやりすぎてしまうから」

「それはどんな天使なんだ? 絵に描いてはいないのか」

 紫苑がテーブルの上を指差す。いつものスケッチブックだ。僕は紫苑の顔を見ないようにテーブルに近付き、腕を伸ばしてスケッチブックを取った。そのまま後ろ手に紫苑へ渡して、ゆっくりと後ろ歩きで彼女の背中側に回る。なぜか、今日は彼女の顔を見てはいけないような気がする――おそらくこれは、罪悪感だ。僕が棗にしてしまったこと、それから、棗に感じた情欲が、まだ僕の心の内で消えずに残っている。もう灰くらいにはなっているとしても、それでも彼女の純白を汚すには十分だ。

「はい、これ」

 めくられたページが彼女の肩越しに見える――一瞬、息を呑んで後ずさりした。声は出さなかった。だが、いや、ああ――何と言うことだろう。いやまさか、見透かされたわけではないだろう。でも――でも、僕にはその絵は痛すぎる。大半が黒く塗りつぶされたページ、そして二ヵ所だけ、赤い丸がある。目のようにも見えるが、何なのだろう。彼女に訊く気にはなれない。

「さすがに、それにはついて行きたいと思えないな」

「そう? なら良かった」

 紫苑の口調、何の含みもなく、彼女は心底そう思っている。それが僕を痛めつける。僕は紫苑に嘘をついた。いや、あるいはそれは嘘ではない、とも言える。僕は紫苑の側にいたいのだ。だから、黒い天使について行きなどしない――はずだが、いつの間にか僕は、そちらに行ってしまっていた。そうではないか。この黒は、紫苑と対極のもの、固まり過ぎてひび割れを生み、そこから腐臭漂う液体を流している、そんなもののように思えて仕方ない。

「ごめん、紫苑、そのページを閉じてもらえないかな」

「ねえ、もし、私がこの天使について行っちゃったら、どうなるかな」

 ぱたん、と音がしてスケッチブックが閉じられた。重い物が自分の内から取り除かれたような気分だ。清々しいわけではないが、少しだけ、安心する。

「ねえねえ、どうなるかな」

「なあ、紫苑――」

 こっちを向いてくれ、と、言いかけてやめた。おそらく紫苑は向いてくれないだろう。そして僕が何と言ったところで、僕の言いたい真意を理解してはくれないだろう。だがそれでも、僕は紫苑に言いたいことがたくさんある。言ったところでどうなるわけでもなく、意味もなく、もしかすると僕が傷付くだけに終わるかもしれなくても、それでも言わずにはいられないような、そんな言葉がたくさんある。

「きっと紫苑は――」

「どうなるかな」

 紫苑の顔が天井を向く。僕はもう一歩後ずさりして、彼女の顔を見ないようにする。そして――

「僕を好きになってくれるよ」

 静寂の音がした。同時に、紫苑が振り返った。僕は顔を隠すように後ろを向き、ドアノブに手をかける。紫苑の声がした。

「今でも好きだよ」

 言うべきではなかった。後悔――好き、その言葉の重さはきっと、僕と紫苑の間で異なるのだ。僕は紫苑に触れられない。紫苑も僕を抱いてなどくれない。ではどうすれば互いの「好き」の隙間が埋まるのだろうか。いいや、そんなことはありえない。ありえないのだ。僕はその現実を突きつけられて――ああ、涙が――こんなものを、こんなものを流さなくてはならないのだ。

 それでもまだ紫苑に言いたい。僕の思いがどこまでも伝わらなくても、それでも言い続けたい。本当は、彼女を抱き締めて言い続けたいのだ。しかしそうした瞬間に、僕は壊れてしまうだろう。きっと紫苑を絞め殺してしまうだろう。だから僕は出ていく。部屋を出ていく。棗の側を走り抜け、玄関を突き抜け――僕は黒い天使の懐へ飛び込む。

 ああ、そうだ、紫苑、僕は嘘をついた。そして君には、それが分かるだろう。なのに――なのになぜ、君は僕を責めないのだ。僕はもう――


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