第9話 約束ね。
先輩にため息をつかれた私の心は痛手を負い、美咲に笑いかける自信をなくすものだった。無理に笑う必要はないと思おうとしても、二十二年のちっぽけな経験の中で、繕わなくちゃいけないという概念が邪魔をする。だから美咲の元へ戻ったときも、私は笑っていた。
「ごめんね。中崎先輩に怒られちゃった」
笑って言えることじゃないはずなのに、いざ笑ってみればいけるじゃん私、って思った。美咲は目をくりっとさせて、「中崎先輩がどうして怒ったの?」と訊いてきた。
「俺だって忙しいときもあるんだよ、的な」
言ってから、悪口のような響きになってしまったことを後悔する。先輩の悪口は言いたくない。
「ねえ、希里ってさ」
そのあとに紡がれる美咲の言葉は意外というか、そんなこと考えているなんて思わなくって。
「中崎先輩と付き合ってるの?」
まさか。そう否定すれば済む話なのに、私は一瞬固まった。そうなりたかった。でもそうなるのは許されない。中崎くんという十字架を背負っているから。
「付き合ってないよ。中崎くんは私のことを好きになってくれたから、そんなこと絶対に出来ない」
「じゃあ、好きなの?」
「それは……」
言い淀む。氷で薄まったメロンソーダをストローでカラカラと弄びながら、視線を落とした。美咲の、細身にしては豊かな胸。その胸に、何人の人が触れたのだろう。考えると胸焼けがした。
「中崎先輩には想い、伝えたの?」
「別に好きじゃないよ、先輩のことは」
今更すぎる否定の文句。美咲はふふっと笑い声を漏らす。思わず顔を上げると、彼女は猫を愛おしく見ているかのように目を細めていた。
「飾りで親友やってる訳じゃないから。バレバレだよ。希里は昔から嘘つけないよね」
面白そうに、懐かしげに言う。親友という言葉が彼女の口から出て来る度に呼吸が苦しくなる。それは狂おしいほど愛おしく想う感情。ずっとその言葉を聞きたかった。言って欲しかった。私はくらくらと陶酔し、顔を火照らせながら目を伏せた。
「好きなら好きって言っちゃえばいいのに。付き合えなくてもいいじゃん」
「駄目……だよ。先輩を困らせちゃうだけだもん。それに中崎くんに悪いよ」
「先輩のことを好きになった時点で中崎くんには充分悪いよ」
痛いところを突かれた。そうだ、想いを募らせている段階で私は中崎くんを裏切っている。後ろめたさがインクの染みのように心に広がる。先ほどから美咲が饒舌になってきていて、それは嬉しいことだけど。
「でもしょうがないよ。人が人を好きになるのって自然なことだもん。……あたしもそうだったから」
美咲の言葉に暗い響きが混じる。私は慌てて、「美咲、ごめんね」と言った。
「何で希里が謝るの?あたしが勝手に話し出してるだけだから平気だよ。今思えば最悪だよね。そんなんで足踏みいれちゃって。大丈夫、もう好きじゃないから。あんな詐欺師」
明るい口調で言いきった。それが装いだと気付くのは難しいことではなかった。美咲は失恋で大切なものを失い、犠牲にした。胸の前で組む手が微かに震えているのを見れば分かる。私は思わず美咲の手を握った。
「ねえ、やっぱり辞めない? 仕事。派遣で生活していこうよ」
美咲の手は逃げていかない。そのことに安心しながら、慎重に言葉を続ける。
「急にとは言わないから。でも、美咲の無理した笑顔、もう見たくないの。これ以上傷付いてほしくない」
「……希里は優しいね」
強張っていた美咲の手から、力が抜けていくのを手のひらに感じる。
「じゃあ、希里が先輩に告ればって条件でどう?」
「何でそんな条件なの?相応しくなくない?」
「あたしね、そんな生温かい言葉をかけられるのは温室育ちの人だと思ってる。経験してみなよ。告白するときの緊張感。振られたらどうしようっていう不安感。中崎くんを理由にしてばっかりでずるいよ、希里」
そう、挑発的に言い放った。
美咲は「今日はありがと。今の、約束ね」と言って帰り支度をし始めたので、私も茫然とした気持ちのまま財布を出した。自分の分を払うとき、百円玉と五十円玉を間違えて出してしまった。美咲の財布は何のロゴも付いていなかったが、お札を入れるところの中身は厚かった。そんなところをチェックしてしまう自分に辟易する。美咲は会ったときとうって変わって生き生きとしている。良かったのが半分、これからどうしようという不安が半分。中崎先輩に気持ちを伝える? 出来るはずないじゃないか。真っ先に恐怖が浮かんだ。困る顔をされたら。またため息をつかれたら。断られたら。……そう考えて、何だ私、本当は先輩と付き合いたいんじゃんって気付いた。告白した場合に描かれる理想図は、俺もだったんだって言ってくれて付き合えること。男女って単純だ、付き合うか付き合わないかの二択しかないんだから。でも、告白して断られたらそこで終わり。きっと元のような関係には戻れないだろう。それが一番の恐怖だった。部屋のベッドでうつ伏せになりながら、足をぶらぶらさせていると着信が鳴った。
「中崎先輩」と表示されていて、自然と口がきゅっとしまった。
「……もしもし」
「あ、月岡さん? さっきはごめんな」
開口一番に謝罪の言葉が出てきて戸惑う。ベッドの上で正座をした。
「いえ、私の方こそすみませんでした。中崎先輩だって忙しいのに、自分のことばかり考えていて」
相手に自分の姿が見えてないと分かっているのに、つい頭を下げてしまう。
「いや、俺が悪いんだ。仕事でちょっと苛々していて。俺こそ自分のことしか考えてなかった最低ヤローだよ」
低く笑う先輩。そんなことない、と強く思った。先輩は悪くない。
「私、やっぱり美咲に上手い言葉をかけられなくって。きっと嫌な思いさせちゃった」
「……上手い言葉って何なんだろうな。本当に、上手い言葉をかけなくちゃいけないと思うか?それが建前でもいいと思える? 月岡さんは」
言われて、考え込んだ。私は美咲に死なないでって、美咲が死んだら私も死んじゃうかもって言えなかった。でも、私の本心はちゃんと伝えた。泣くと思う、というシンプルな事項を。それを先輩に言ったら、
「田島さんが死にたいって言ったことを聞いても、俺は上手い言葉をかけるようにはアドバイスしなかったと思うよ。だってそれは月岡さんの心の声じゃないから。田島さんが欲しいのは、月岡さんの言葉なんだよ。取り繕った紛い物の言葉なんて、田島さんなんかすぐに見抜いちゃうんじゃないかな」
そうだ。美咲は私が先輩を好きな気持ちだって見抜いたじゃないか。ブランクはあれど、長い付き合いの中で彼女は私のことをよく知っていた。紆余曲折しながらもやっと胸を張って言い合える「親友」という響きが、何より好きだった。目の前が涙で歪む。
「――そうでしたね。美咲は、こんな不器用な私だから好きでいてくれるのかもしれない」
口にしてみると、それは自信に繋がってきてこの絆を絶対に切りたくないと思った。二人で走る人生のリレー。ゴールテープはどちらが先に切るか分からないけど、少なくとも美咲が死に急ぐことがあったら全力で止める。
「田島さんは、もう落ち着いたの?」
先輩に告白するという話が出てから美咲に活力が戻ったのを思い出して、心臓の鼓動が速くなった。出来っこない。でも、あの挑発的な約束はただの冗談には思えなかった。温室育ち、と美咲は言った。確かにそうかもしれない。私は彼女のように高校を中退したり風俗で働いたりしていない。それが自分で選んだこととはいえ、望んでその道を進んだ訳じゃないことは見て取れた。バイトもせずに大学に進み、卒業を控えている私はやっぱり恵まれている。けれど、「でも」と反発する気持ちもあった。私だって、いじめの罪に苦しまされ、美咲との関係に悩み、友達を亡くした悲しさに打ちひしがれている。大変な思いをしていない訳じゃない。それなりに傷を負っているんだ。
「先輩。近いうち、会えますか?」
なら、言ってやる。見返してやるんだ、温室育ちでは出来ないような偉業を成し遂げて。
告白、という名の偉業を。




