第8話 先輩のため息。
目が覚めて携帯を見ると、美咲から着信履歴があった。彼女から電話があるなんて中学以来のことで、私は寝起きでかすむ目をこすり、ディスプレイに表示された田島美咲の名前を二度見する。現在の時刻は十時、美咲からの着信は八時。見間違いじゃない。マナーモードにしていたから、着信に気付かなかったらしい。髪をとかす時間すらもったいなくて、寝癖のついた頭のまま、美咲に発信をした。何の用事か分からない不安で、手のひらに汗をうっすら浮かばせながら。
五回ほどのコールのあと、「……もしもし」と、かつて聞き慣れすぎたほどの愛しい声が耳に届いた。
「ごめん、寝てた」
私はそれだけ言って、ベッドに腰掛けながら布団の上についた手のひらを深く沈ませ、彼女の言葉を待つ。時計の針の音が耳について、携帯を握り直して電話口に神経を集中させる。
「あたし、どうしたらいいのかな」
という、か細い声が聞こえてきた。
「どうするって、何を?」
「死んだら、中崎くんに謝れるかな」
血の気が引いた。一気に立ち上がり、聞き漏らしがないよう、携帯を耳に密着させる。カーテンの隙間からちらりと窓の外が見え、曇っているのだろう、十時だとは思えないほど薄暗かった。
「美咲、どうしたの。何かあったの」
「ーー何にもないよ。何も。けど、一睡も出来なくて中崎くんのこと考えてたら、私、生きてる資格ないなって。希里にも、酷いことしたし。もう、生きていたくないよ……」
何にもなくて、こんなに落ち込んでいるはずがないと思った。けど、今は理由解明より美咲を落ち着かせるのが重要だ。私は眉根を寄せながら、一気に説得の言葉を吐いた。
「落ち着いて。そんなこと言ったら、私も、クラスメイト全員死ななきゃいけないことになっちゃうよ。そんなことして、中崎くんが喜ぶと思う? お兄さんは、あの中崎先輩だよ。中崎先輩は、美咲に生きててほしいって言ってたじゃない。その気持ちまで裏切ったら駄目だよ。一緒に生きようよ。それで、中崎くんにこの世で挨拶するんだよ」
口の中が渇いて、嫌な味がする。落ち着いて。心の中で、自分にも言い聞かせた。
しばしの沈黙のあと、
「そんなこと言われても出来ないよ……。あたし、今日も仕事あるの。虚しい作業の繰り返し。いっそ、壊れちゃえばいいのにね。仕事をしても何にも感じなくなって、そしたら、あたし、生きていけるのに」
と美咲は自嘲気味に言った。私は思わず立ち上がっていた。足首の関節がぽきりと鳴る。焦りばかりが溢れ出てきて、言葉に詰まってしまう。こういうとき、何と声をかけたらいいのか、二十二年生きてきても正しい答えは見つからなかった。何が正しいのかなんて、人によりけりだろうけど、でも、私は今唇を小さく震わせて視線を彷徨わせているだけ。子どもなんだ。未熟で、予想外のことが起きると動揺してしまい、誰かに助けを求めたくなるような。そこまで考えを巡らせたところで
思いつく。
「美咲。今から会える? 一時……ううん、十二時頃。一緒にご飯食べようよ。美味しいもの、何がいいかな」
そう言って笑顔を作ってみせても、心臓はドキドキしたままだ。けど、私には頼る人がいる。彼ならきっと、こういうときにかけるのに最適な言葉を教えてくれる。そう信じるほか、私が落ち着く方法はなかった。
「でも、あたし食欲ないし……」
「そういえばさ、この間友達にパンケーキ屋さん誘われて行ったんだけどさ、何、あのボリューミー。あれはもはやスイーツじゃなかったよ。ってことで、カレー屋さんはどう? 美咲が泣いて喜ぶであろうお店知ってるよ!」
早口でまくし立てる。すると、一瞬の間を置いて、受話口から小さな笑い声が聞こえてきた。
「……ふふっ、希里の意地悪。どうせあたしはまだ辛口が苦手ですよー。パンケーキ食べたいな。ふわっふわの甘々な奴」
携帯を持つ手が緩むのと共に、頬の強張りも消えていった。外からチュチュッという、小鳥のさえずりが聞こえてくる。私は窓に近付いてカーテンを開け、陽光に包まれてみた。
「地元にパンケーキの美味しいところあるんだ。行こっか。あーんって食べさせてあげるね!」
家を囲う塀にとまっている二羽のスズメがじゃれ合っている光景を、私は目を細めて見ながら言う。
よかった。あんなに痩せた身体をしていても、美咲はまだご飯が食べられるんだ。
笑ってくれたことよりも、そんな安堵を覚えながら。
美咲と十二時に駅で待ち合わせの約束をして電話を切ると、私の表情は真顔に戻り、迷わず中崎先輩に電話をかけた。早く、アドバイスが欲しい。出来ることなら、これから美咲と会うときにも立ち会ってほしい。そんな気持ちで先輩が電話に出るときを待っていたが、コール音が何回も続き、やがて留守番になってしまった。私は「こんにちは、月岡です。今、美咲が落ち込んでて、先輩なら何か落ち込んでいる人にかける言葉についてアドバイスしてくれるかなあ、と思って電話しました。聞いたら連絡下さい」といつメッセージを入れ、携帯をぱたんと閉じる。世間の人々がスマホへと移行しつつある中、私はこのガラケーを七年間使い続けている。そのため、本体には七年分の傷が付いていて、充電器差し込み口のカバーももう取れてしまっている。
でも、この携帯には、中学時代の美咲からのメールが隠しフォルダの一番上に保存してあるし、あっちゃんやナツエのメールも入っているし、大学の友達の写真やメールだっていっぱい入っている。それを見ていると、懐かしむことも満たされていると感じることも出来るから、機種変するのを踏み止まっていた。
今の問題が解決して、全て終わったら私は美咲とまた笑い合って過ごせるだろう。そしたら、この携帯もスマホに機種変しよう。ーーそう思った。いいや、誓った。過去の幸せな思い出にしがみついているのはもう終わりにしよう。今、目の前にいる人たちを愛すことが一番なんだから。
しかし、そのためにはまずはこれから行くパンケーキ屋さんで、美咲の心を落ち着かせる言葉を彼女にかけなければいけない。そのためには、中崎先輩のアトバイスが必要なのに……。先輩に頼ってばっかりの自分に少し呆れながらも、連絡を待つことしか頭に浮かばなかった。
しかし、先輩からの連絡はなかった。そのまま十二時を迎え、私は寒空の駅の下、引きつった笑みで美咲に挨拶をした。
「やっほ。少しは落ち着いた?」
「うん。さっきはありがと。でもね、やっぱりあたしっていつかは死ぬんだろうなって思うよ。負けちゃうもん。心がもたない。あたしなんかがいなくなっても、希里は強いから生きていけるだろうし」
強風が髪をさらい、首筋に冷気が吹きかかる。美咲の金髪はワックスでも付けているのだろうか、綺麗にはなびかない。飲み込んだ唾は温かいはずなのに、食道が緊張で強張り、その生ぬるさを感じることが出来ない。何か言わなければと口を開けてみたが、言葉が出て来ない。
「……そんなことないよ。私は美咲に生きててほしい。美咲を失いたくない。強くなんかないんだよ。知ってるでしょ、私の心の弱さ」
言いながら泣きそうになって、鼻の下を擦った。美咲は斜め前に片足を少し出した姿勢で、私の足元に視線を漂わせ、
「じゃあ、あたしが死んだら希里はどうなっちゃうの?」
と虚ろな瞳で言った。駅前でテッシュ配りをしている人の、「パチンコ○○です、よろしくお願いしまーす」という声が耳に入ってくる。パチンコも十八歳未満は禁止ということであまり健全とは言い難い施設ではあるが、美咲が配っていたティッシュのいやらしい写真を思い出して胃酸の味がこみ上げてきた。
目の前にいる彼女は、今、とても難しい質問を投げかけてきている。何と答えるのが正解なのか、中崎先輩抜きでは分からない。
「落ち込むよ、すごく。泣いても泣いても気が済まないくらいに。正気でいられるか、自信ない」
誇張も謙遜もない、ありのままの気持ちしか述べられなかった。きっとこんな言葉で美咲が満足するはずがないことは分かっていた。もっと上手い言葉をかけたいのに。美咲が求めている言葉を。
「それでも、希里は生きていける。どんなに落ち込んでも、落ち込まなくても。その方があたしも気楽だよ。ごめんね、こんな話して。パンケーキ食べに行こ」
美咲は微笑を浮かべた後私に背中を向け、駅の改札まで歩いて行った。無言で歩を進めるその姿に、改札を通らない場所にパンケーキ屋さんがあることを言うことは出来なかった。
結局私たちは、一駅離れたところにある一回しか行ったことのないパンケーキ屋さんに入り、パンケーキを食べた。味などどうでもよかった。というより分からなかった。美咲の表情は翳ったままで、会話といったら天気のこと、最近あったニュースのことなどといった他愛ない話がぽつりぽつりと交わされるだけ。表面を滑る会話。どちらも深みに入って行こうとしない。
『美咲には死なないでほしい』
そう言わなくちゃいけないことは分かっているのに。何でその一言が言えないのだろう。やがて会話は途切れ、その気まずさからメロンソーダの減りが早くなっていった。
指を、足を、何度も組み直しては、美咲の浮き出た鎖骨を凝視する。彼女はV字ネックの白いセーターを着ていた。アクセサリーは何も付けていない。仕事で稼いだお金は何に使っているのだろう。でもそんな疑問を口に出したら仕事のことを思い出させてしまうだろうから、喉の奥にしまった。
二杯目のメロンソーダが底をつきそうになった頃、携帯が鳴った。中崎先輩からだ。私は美咲に「ちょっとごめんね」と言って慌てて外に出ると、携帯に出た。
「もしもし」
「あ、月岡さん? ……もう、田島さんと会った?」
「今会ってます。先輩と電話繋がらなくて、結構ピンチになってるんです。美咲に上手い言葉がかけられなくて、力になれなくて……」
そこで言葉を切って、先輩の返答を待つ。先輩が電話口でため息を吐いたのが聞こえ、身体が強張った。
「月岡さん、俺もいつも暇なわけじゃないんだよ」
身体中の血管を、嫌なものが流れていく感覚がした。それは銀紙を噛んでしまったときなんかに感じる悪寒に近いものだったかもしれない。
「……すみません。先輩に甘えてばかりで」
私、自分のことしか考えていませんでした。先輩がいつも優しすぎるからですよ? 優しさは罪です。だから、私は中崎くんのことがあるのに、先輩のことが……。そう言いたかった想いは、自分の中でパンケーキに乗せたバターのように溶けて言葉としての原形を失くした。
先輩はいつだって優しかった。中崎くんのことで怒ること、泣くことはあっても、それは私がしてしまったことへの、それでも甘い対価だと思っていた。
私は初めて、中崎先輩に心の底からため息を吐かれた。
更新が遅くなってすみません。これからは、活動報告のページも時々更新しようと思うのでよろしくお願いします。