第7話 挨拶したい。
初めての派遣のバイトは、
「君、ちょっとその髪色は問題だなあ。結わいてすらいないし」
という会社の人の言葉から始まった。美咲は小さな声ですみませんと言って、髪を縛った。無事に気持ちよく今日の仕事が終わるかどうか、不安しかなかった。派遣の紹介先の会社は、流れ作業が主だった。どんどん流れてくる箱にシールを貼る作業。少し曲がっただけで怒号が飛び散る仕事場。私は元々不器用だから、怒られてばっかりだった。それに比べて美咲は、まだ一回も怒られていない。やっぱり器用なんだなと感心しつつ、与えられた仕事を必死にこなす。もう一時間は経っただろうと時計を見ても、まだ三十分しか立っていなかったりと、時間が長く感じる仕事だった。立ちっぱなしだから足首は痛くなるし、手も疲れるしで白旗を上げたい気分だ。――なんてことを考えていると、作業が間に合わなくなってきて、動きながらの流れ作業になってしまい、パートのおばさんにヒステリックな口調で注意をされてしまう。自分にこういう仕事は向いていないんだなと感じた。
やっと昼休みになり、三時間ぶりに美咲に声をかける。
「お疲れ」
「お疲れ様」
「もう駄目、私死ぬ」
「希里なら大丈夫だよ」
「いや、怒鳴られてばっか。美咲は見てる限りでは全然怒られてないね。さすが」
「細かい仕事好きだから」
そう言って笑った美咲は少し輝いて見えた。風俗をやっているときの死んだ目と違う。
「こっちの仕事の方がいいんじゃない?」
「うーん……でも、時給八百円だからね。一度あっちに足を踏み入れちゃうと、金銭感覚もおかしくなっちゃう」
やっぱり、そういうものなのか。プレハブ小屋のような休憩所で、派遣の方々が五人いる中、私は美咲と向かい合って弁当を取り出した。他の派遣の人は個々に無言で食べている為、会話がしづらい。
「その弁当箱、高校のときのと一緒だね。まだ使ってたんだ」
コンビニ袋を取り出しながら美咲は言った。
「おお、よく覚えてるね」
「お母さんが作ってくれるの?」
「うん」
「いいな」
という美咲の言葉は寂しそうな響きで、ちょっと焦ってしまう。
「何買ってきたの? 見せて見せて」
と明るい声を出して、コンビ二袋の中を覗き込む。そこには、りんごパイとメロンパンがあった。
「メロンパン、あたしも好きになっちゃって」
「じゃ、メロンパン同盟結成だね」
「何それ」
美咲は笑った。私が手を差し出すと、ちゃんと握ってくれた。相変わらず冷たい手で、両手で包み込んで温めてあげたい欲求に駆られる。でも、そんなことしたら美咲は嫌がるかもしれない。「汚れた手だから」と言って。私は弁当箱から卵焼きを一切れ箸でつまみ、美咲の口に持っていった。
「あーん」
「え、え」
「あーん!」
戸惑った様子を見せながらも、美咲は口を開けてくれた。ちょっと大きすぎたのか、ハムスターのようにほうばっている。そんな美咲が可愛くて、思わずにやりとしてしまう。咀嚼したあとに出た、「美味しい」という言葉で、更ににやにやしてしまう。別に私が作った訳でもないのに。
二人とも食べ終わると、美咲がぽつりと言った。
「あたしも、変われるのかな」
「変われるよ」
他の人がいる為、これ以上、深い話は出来ない。あまり会話出来ないまま、昼休みが終わり、仕事に戻った。
長い一日が終わった。手元には今日の分のお給料。小銭が多いだけなのかもしれないが、私にとってはずっしりと重たくて、家に帰ってからお札を数えてるんるんしようと思っていた。美咲は帰り道の時点で中身を開けていた。
「六千円かあ」
「百円寿司六十皿食べられるね」
「表現がけち臭い」
美咲の鋭い突っ込みが入る。辺りはもう薄暗かった。車のヘッドライトが残像を残し、一台、また一台と通り過ぎてゆく。
「でも、こういう仕事って達成感あるね。疲れたけど、やってみてよかった」
美咲は笑顔を浮かべた。細めた目には、何が映っているのだろうか。自分が死ぬ未来か、やり直す新しい道か。
「ありがとね、希里」
「こちらこそ。また、暇なとき派遣行ってみる?」
「うん。……あとね、あたし」
美咲の声のトーンが落ちる。少しばかりの間をあけてから、彼女は言った。
「ちゃんと、中崎くんに挨拶したい」
いつだか私が言った言葉を呟いた。私はちょっぴり口元を綻ばせて、「いいと思うよ」と言った。それで、美咲の気持ちが晴れるなら。中崎くんを忘れないでいてくれている人は他にもいた。それが嬉しくて、中崎先輩にとっても嬉しいことだろうと想像し、足取りが軽くなった。
家に帰って、中崎先輩に電話をする。今日仕事をしてきて、美咲の笑顔を見られたこと、そして中崎くんに挨拶をしたいと言っていたことを告げる。
「田島さんも、優しいんだな。いいよ、月岡さんも来る? 弘樹、喜ぶと思うんだ」
また、辛い現実を真っ正面から受け止めなければいけない。そのことには正直心が躊躇っていたが、中崎くんの気持ちを考えたら、きっと、私が行ったら喜んでくれるだろう。加害者なのに、私を好きでいてくれたお人好しなのだから。その人柄に甘えて、また、ありがとうって伝えようと思った。
「私も行きます」
「よかった。じゃあ、俺は土日仕事休みだから、二人の空いている日が分かったら連絡してくれ。あ、勿論まだ分からなくても、何の用事がなくても、暇つぶしに電話かけてくれるのは大歓迎だから」
全く、先輩は胸の熱くなることを言ってばかりだ。もっと早く連絡を取っていればよかった。大学に入ってからも、会ったりしていればよかった。でも、そうしていたら、私は美咲のことを思い出す機会を逃していたかもしれない。腰掛けていたベッドから立ち上がり、明るい声で、
「ありがとうございます。先輩」
と言った。姿見に映った私の顔は、幸せそうだった。
大変遅くなってすみませんでした。