第6話 終わらせる。
「……希里が?」
美咲はきょとんとした顔をしていた。
「私が終わらせるよ。何もかも」
「どうする気だ?」
先輩が訊いてきた。今更、実は何も考えていませんでしただなんて言える空気じゃない。考えろ。どうすれば美咲を救えるかを。
「ね、美咲、一緒にバイトしようよ」
「え?」
「派遣とかなら面接ないところもあるって聞いた。私、今バイトしてないから、一緒にやってみようよ」
思いつきで口にしたにしては、いい案だと少し思った。
「……希里と一緒に」
「うん」
「それで、何か変わる?」
「自分の居場所を見つけられるかもしれないよ」
美咲は俯いて考えているようだった。
「それはいい案かもしれないな。田島さん、やってみなよ」
と先輩も言ってくれる。
しばらくの間のあと、
「やって、みようかな。無駄かもしれないけど」
と美咲が言ったので、私は微笑みながら彼女の手を握り、
「ありがと」
と言った。
「でも、まだあのお店は辞められない」
「それでもいいよ。少し、違う場所の風に当たってみよう」
美咲も微笑んだ。涙の跡は消えていた。
私たちは、また一緒に歩むことを決めた。それがいい方向に変わるのか、悪い方向に変わるのか、はたまた何も変わらないかは分からない。でも、隣に美咲がいる。それだけで、少なくとも私は今より幸せになれるのだと思う。
中崎先輩は毎日電話をくれた。仕事で疲れているだろうに、私の不安からどうでもいい報告まで全て受け止めてくれて、これじゃあ好きになっちゃうじゃん、と心の中で呟いた。いや、もう既に好きになっているのかもしれない。高校生のときみたいに。でもそれは決して許されない恋愛で、私はプチプチを潰しながら気持ちを押し殺すしかなかった。
美咲と会ってから三日後、私たちは再び会った。美咲のバイトが休みの日。彼女はTシャツにGパンという露出を押さえたラフな格好で、でも手足の気持ち悪いほどの細さは服の上でも分かって、すっぴんだからくまが酷いのもよく分かった。六年前から苦しんでいた彼女。そのことに全く気付かなかった私。ごめんねと言いたかった。
「希里? ぼーっとしてるよ?」
美咲が身体を傾けながら顔を覗き込んでくる。私は慌てて、
「あ、ごめん。じゃ、行こっか」
と言った。
訪れたのは派遣会社の登録説明会が行われるビルだった。ここに来るまで私たちはぽつりぽつりと言葉を交わした。髪の毛がはねるだとか、お腹がすいただとかくだらない話ばかり。でも、その方が美咲にとっても私にとってもいいと思ったんだ。物事の核心に触れたら、感情をいたずらに揺さぶってしまうから。
登録説明会は三十分ほどで終わった。私たちは派遣会社に登録をし、働きたいときに募集している職場に応募するというスタイルで働くことになった。
「肩凝ったー」
「ああ、美咲肩凝りやすいもんね」
「何か食べてく? おごるよ」
「食べていくのはいいけど、おごりはだーめ」
「あんな仕事で稼いだお金、持っていてもしょうがないから」
ぼそりと呟いたその言葉に、胸が締め付けられる。
「……じゃあ、今度一緒に旅行でも行こうよ」
「旅行? どこに?」
私は空を舞うカラスを見つめながら、考えた。やがて、一つの場所が頭に浮かんだ。
「京都。私たちが修学旅行で行ったところ。中崎くんは亡くなって行けなかったし、美咲とは仲悪くなっちゃって一緒に楽しめなかったから。だから、もう一度行ってみない?」
美咲は明るい表情になり、
「いいね、それ。行こう」
「それまでは、生きててね」
何か約束事をこまめにして、死ぬのをどんどん先延ばしにしてもらうのが私の作戦。
「『ずっと』じゃなくて、『それまでは』って表現してくれるところ、あたしは好きだよ」
美咲の言葉に顔が火照るのを感じた。
「何で、こんないい子と縁なんか切ったりしたんだろう」
「それは私が…」
「悪いのはあたし」
私の言葉を遮って言い切った。
「ごめんね」
美咲から聞く謝罪の言葉。でも、私はそれが欲しかった訳じゃないし、あの件で美咲を責める気は更々ない。
「私、ありがとうって言葉の方が好きだな」
二つの影法師がアスファルトに伸びている。美咲のコツコツというブーツを鳴らす音が、途切れた。
「……ずるいよ、希里」
美咲の瞳は潤んでいた。
「あたし、どんどん希里と離れるのが怖くなる。死ねなくなる」
「じゃ、生きてみようよ」
微笑んでも美咲はかぶりを振って、
「あたしに生きている資格なんてない。でも……今、あたし楽しいって感じてる。ありがとう」
と言い、無理やり作ったような笑みを浮かべた。
「無理するのはなーし」
美咲と手を繋ぐ。が、彼女は手を自分の方へ引きながら、
「こんな汚れきった手に触れたら駄目だよ」
と眉間に皺を寄せながら言った。
「美咲は汚れてないよ」
私は美咲の手をぎゅっと握った。美咲は唇を震わせた。隣にいる大好きな親友。彼女は今も苦し続けているのかと思うと、胸が痛んだ。
二日後、携帯で近くの仕事に応募した。勿論、美咲と同じ場所。中崎先輩にそのことを電話で報告した。
「そっか。頑張れよ。応援してるから」
「ありがとうございます。これで、何かが変わったらいいんですけどね」
「月岡さんの気持ちはきっと伝わってるよ」
「だと、いいんですけど」
先輩と話をしていると、自然と笑顔になる。でも、先日見た先輩の泣き顔が脳裏にちらつく。今まで、中崎家はずっと苦しんできたのだろう。私たちのせいで。中崎くんが亡くなった事実は何年経っても消えなくて、いじめていた人たちの記憶から薄れることはあっても、ご家族が忘れることは多分一生ないだろう。
「先輩、頼ってばかりですみません」
「いいんだよ。後輩にすら頼られなくなったら俺は終わりだよ」
先輩が珍しくネガティブなことを言ったのに驚いて、慌てて、
「そんなことないです」
と言った。
「いや、俺なんてその程度の存在だよ」
「いいえ。先輩は、いつも私を支えてくれました。私なんて加害者で、ただの後輩なのに」
「月岡さんとは友達だろ?」
「……」
何で私、言葉に詰まっているんだろう。投げ出している足が震えるんだろう。
「友達だと俺は思っているよ」
ああそうか、友達という表現を受け入れたくないんだ。もっと上の存在になりたい。先輩にとって大切な人になりたい。
「そうですね」
淡々とした自分の声が鼓膜に響いた。
「月岡さん? 何か俺、悪いこと言った?」
「いいえ!」
全く、先輩は勘までいいのか。これじゃあいつか、私の心を見透かされてしまう。隠さなくちゃ。もしも先輩にこの気持ちがばれたら、中崎くんに顔向け出来ない。目をつむり、心を落ち着かせようとした。
「これからも頼っていいんだよ。いいや、頼ってほしい」
「先輩がいいというのなら、頼らせて頂きます」
顔が火照るのを感じながら、少し可愛らしい声を出したりなんかして。
「田島さん、元気になってくれるといいな」
「はい」
ガリガリな美咲を見ているのは胸が痛む。早く、落ち着いた精神を取り戻してほしい。その為なら、私はどんな努力も犠牲も惜しまない。それくらい、彼女のことを思っていた。
明日、私たちは派遣のバイトへ行く。それだけで何かが変わるとは思っていない。でも、それがきっかけを産んでくれたら、と期待せずにはいられなかった。




