第4話 汚れた身体。
結局美咲はいつになっても私たちの方を再び見ようとしてくれなかったので、帰るしかないと思った。
「先輩、ありがとうございました」
「何でお礼、言ってるの?」
「たまたま、美咲のこと見つけてくれて」
「たまたまではないけどな」
「え?」
私は言葉の意味を考えた。そして、一つの考えが浮かんだ。
「もしかして、先輩、この五日間、ずっとリサーチしていたんですか?」
「……ずっとは大げさかもしれないけど、まあ」
こんな寒空の中、しかも先輩いわく仕事は連休で、せっかくゆっくり出来る期間なのに、頻繁に駅前をチェックしていたというのか。
「先輩……」
気がついたら、私は大胆な行動に移っていた。先輩の胸に顔をうずめていた。
「月岡さんの笑顔、見たくてさ」
先輩をただの友達として見れなくなってしまう。顔をうずめているコートに染み付く、先輩の匂い。いい、匂い。
「じゃあ、私、笑顔になれるように頑張ります」
顔を上げ、私は宣言した。ブーツをカツカツと鳴らしながら、美咲のところに歩み寄る。
「美咲」
「……何?」
「仕事が終わるまで、待ってるから」
「あたし、ティッシュ配んの終わったら店入らないといけないし」
「終わるまで待ってる」
「希里、馬鹿じゃないの? 仕事終わるの夜中だよ? それに……」
「それに?」
「……汚れた身体、だよ?」
美咲は哀しそうな表情を作った。
「美咲は汚れてなんかいないよ。じゃあ、閉店する頃、お店の前で待ってるから」
「……そんなことしたって、希里のプラスになんかならないのに……」
「それは、私が判断することだから」
「……もういいよ……」
美咲は諦めたような顔になった。やがてティッシュ配りを終え、夜の街へ消えていった。
「……美咲、変わってた」
「そうだね」
「でも、中身は変わってないと思います」
「うん」
優しげな口調で、相づちを打つ先輩。
「美咲とゆっくり、話そうと思います」
「うん。……あのさ、一つだけお願いしてもいい?」
先輩が私の目を見つめる。
「何ですか?」
「夜中に駅前を、女の子二人で歩くのは危険だ。せめてお話をする場所までは、一緒に行きたい」
先輩の心遣いが嬉しくて、にやついてしまった。
「ありがとうございます。サイゼリヤ辺りで、お話したいと思います」
「まだ六時だ。一度、家へ帰ろうか」
もっと先輩と一緒にいたい、とは言えなかった。でも、はいと答えるのも嫌だった。だから黙っていると、
「それとも、一緒にいてくれるの?」
と先輩が訊いてきた。
「や、あの、むしろこちらこそ、一緒にいてくれるんですか?」
「俺は、月岡さんと一緒にいるの好きだから」
遠回しな告白に聞こえて仕方がなくて、きっと今の私は顔を真っ赤にしているだろう。
「ありがとうございます」
やっと、それだけ口にした。先輩は私の頭をぽんぽんと触れて、
「じゃあ、夕食でも食べに行こう」
と言った。
先輩と一緒にいられる幸せな時間なのに、私の口から出てくるのは、亡くなった友達への思いと、美咲への心配ばかりだった。
「美咲が、本当にあんな仕事をしていたなんて」
「何か、事情があるんだろう」
「でも……嫌です。身体は大事にしてほしいです」
「幻滅、した?」
私は強く首を振った。
「ただ、哀しくて……きっと辛いに決まってます。無茶なんですよ」
「でも、多分ああいうことをしているのにはそれなりの理由があって、それをやめさせるのは難しいことだろうなあ」
先輩は腕を組みながら、ため息を一つ吐いた。私も、美咲を変えるのは難しいと思っている。でも……。私はコーラを飲みほすと、
「けど、私は先輩のおかげで変わることが出来ました」
と言った。すると先輩は微笑んで、
「それは俺の方もだよ。ありがとう、月岡さん」
と言った。ありがとうが増えてゆく。ごめんなさいが減ってゆく。これって、非常にいいことなのかもしれない。亡くなった友達にも、もっと沢山ありがとうって言いたかった。美咲をその子の代役に使おうとしているみたいで、少しばかり罪悪感があった。
だからこそ、美咲は本当に大事にしたい。風俗をしているのにどんな理由があったとしても、受け入れたい。
「私たち、戻れますかね? 親友に」
「例え戻れないだろうと言ったところで、月岡さんは田島さんと会うのをやめるか?」
私はきっぱりと言う。
「いいえ」
高校時代の思い出話などをしているうちに、日付が変わった。そろそろ、美咲の仕事が終わる頃だろう。私たちはファミレスを出て、風俗店へと向かった。
三十分ほど待つと、美咲がお店から出てきた。彼女は私と目が合った途端、足を止め、目をそらした。私は美咲に近寄った。
「お疲れ様」
「……嫌でしょ。仕事終わりのあたしと話すなんて」
「全然」
そう言って、私は美咲を抱きしめた。
「会いたかったんだよ。また、お話したかったんだよ」
溢れる思いは止まらない。
「友達が亡くなったの。親友になれそうなくらい、仲がよかったの。でも、亡くなっちゃったの。そんなとき、私の心は、親友だった美咲を欲してたの」
美咲の身体はボディーソープの匂いがした。現実を見せつけられているようで、正直辛かった。でも、美咲の方がもっと辛いだろうと思った。
「あたしだって……希里のこと、気にしてたよ。でも、会える訳ないじゃない。こんな汚れきった身体で、どんな顔して会えばいいの?」
身体を引き剥がして、美咲は私を見つめた。目が潤んでいた。
「笑っててくれればいいよ」
美咲の頭をそっと撫でる。すると、彼女の目から涙が零れ落ちた。
「笑えないよ。中退してからずっと、本当に笑ったことなんてほとんどないんだもの」
「じゃあ、私が笑顔にしてあげる」
私は笑った。
「どうして……そんなに希里は強いの? 強くなったの?」
私は振り向き、遠くで私たちのやり取りを心配そうな瞳で見つめている彼を見て、言った。
「中崎先輩が、いるからだよ」
美咲は目を伏せて、無言になった。私は彼女を見つめていた。顔を上げて笑ってくれるまで、いつまでも待つつもり。やがて美咲は顔を上げ、
「……あたしたち、中崎くんを殺したんだよ?」
と言った。
「うん。今でも、その罪が許されたとは思ってないよ。でも、中崎先輩は私を受け入れてくれた。一緒にいて癒されるって言ってくれた。私ね、高校時代、中崎くんの家に行ったんだ。そしたらね、机の引き出しにラブレターが入ってたんだよ。私宛ての。馬鹿だよね、サイテーだよね、私」
少し泣きそうになりながら、続ける。
「そのときに出た言葉は、『ありがとう』だった。私なんかを好きでいてくれて、嬉しかった。でも、それ以上に申し訳なかった。これは、一生背負っていく罪なんだよ」
私が言い終わると、美咲は目を伏せ、唇を噛んだ。しばらくの沈黙のあと、
「……あたしは、どうしたら中崎くんにごめんなさいの声が伝わるかな」
と言った。
「美咲……」
「あたしね、これはいじめじゃない、ただのからかいなんだって言い聞かせて……楽しんでた。それが、一人の命を奪った。中崎先輩が、彼のお兄さんだって初めて知ったよ。あたしは、どんな言葉を並べれば中崎先輩に許してもらえる?」
私は美咲の髪を指ですき、
「ねえ、美咲は中崎くんのこと、ずっと忘れないでくれてたの?」
と訊いた。すると美咲は髪に触れる私の手を掴み、
「――忘れてた。でも、今、辛いよ。思い出したくなかったよ」
と目を閉じながら言った。
「……とりあえず、サイゼリヤにでも行こう。中崎先輩と、一緒に」
そう言いながら、私は手を振りほどいた。
閉店時間間近ということで、サイゼリヤはすいていた。私の隣に中崎先輩が座り、対面に美咲が座る。サラダと人数分のドリンクバーを頼んだ。
美咲はうつむいたまま、何も喋らない。私も何と言っていいのか分からず、手をもじもじさせていた。
「……田島さん」
先輩が呼びかけると、美咲は肩をビクッとさせた。上目遣いで先輩を見る。
「俺までこの場に呼ばれたってことは……弘樹の話、出たんだろう?」
美咲はこくりと頷く。
「……ごめんなさい。あたし、加害者です」
「どうして、いじめてたんだ? やっぱり、月岡さんと同じく、不可抗力だったのか?」
「いえ……。あたしは、積極的な方でした。からかってるだけのつもりだったんです」
「いじめている方は自覚がないって、本当だったんだな」
先輩の呟きに私は慌てて、
「先輩、そんな言い方しなくても。美咲だって、今は反省しています」
と言った。
「じゃあ、田島さんは弘樹のことをずっと覚えていたか?」
先輩の横顔は綺麗で、一瞬見とれそうになるけれど、その口から発せられている言葉は穏やかじゃなかった。
「……忘れて、ました」
美咲は再びうつむく。
「忘れてたってことは、二つの可能性がある」
先輩の言葉に私は首を傾げた。そういえば、店に入ってから美咲と一言も口を交わしていない。
「一つは、弘樹の死が田島さんにとってどうでもよかった」
「違いますっ……」
小さくも鋭い声で美咲が否定した。
「なら、二つ目の可能性だ。そこまで考えられるほど、心に余裕がなかった」
「……」
美咲は押し黙った。
「ねえ、美咲。何があったの? 中退してから、今まで。お願い、教えて」
私は少し身を乗り出して尋ねる。唇を震わす美咲。本当のことを話してくれるまで、私はいつまでも待つつもりだった。閉店時間になったら、違う日にまた美咲の働く店の前で待ってやる。
「……自己破壊的行為、って知ってる?」
美咲はか細い声で言い、顔を上げた。目が合った。目の下に酷いくまが出来ている。
「……何、それ?」
言葉の並びから意味は何となく想像出来るが、細かい理解は出来なかった。
すると美咲は、突然ぼろぼろと泣き出した。私はあたふたして、「どうしたの?」と声をかけながら、先輩をちらりと見た。先輩は、眉間に皺を寄せながら美咲を見ていた。
やがて、美咲は涙声で言った。
「……あたしね、病気なの。死ぬしかないの」