第10話 自殺未遂。
会えるよ、と先輩は言ってくれた。言われたときの心境は、嬉しさよりも不安感だった。私はちゃんと告白出来るのだろうか。美咲はそんなことで自分の人生の選択をしていいのだろうか。何が正しいのか分からなくなってくるし、中崎くんを裏切りたくないって気持ちが強くて、自分がどうしたらいいかも見えてこない。けれど美咲の「中崎先輩を好きになった時点で中崎くんを裏切ってる」という指摘は図星だと思った。私はもう戻れない。美咲は、私が告白したら仕事を辞めると言った。それなら、その約束を果たすのが一番ハッピーエンドではないのか。例え、私が中崎先輩と付き合えなくても、更に中崎くんを裏切る行為だったとしても。頭の中で巡る考えは段々と、目標を見据えてきた気がする。
「希里ー、ちょっと話があるんだけど」
ドアをノックしながら母が声をかけてきた。こういうときの話は、悪い話のことが多い。私は浮かない声で応答し、部屋を出た。心配げな顔で立つ母がそこにはいた。エプロンを胸に抱え、深く話し込む気満々といった風に見える。
「何? 話って」
リビングに向かって歩いていく母のあとを付いていきながら、その背中に問いかけた。
「美咲ちゃんのこと」
短い言葉の中に怒りが込められているのを感じ、私は戸惑って母の足下を見た。緑色の、少し大きめのスリッパは歩を緩めない。唇をきゅっと結び直し、美咲のことを悪く言ったら許さない、といった心構えで前を見つめた。リビングに入り、母は迷わずテーブルの椅子に座った。私は母の横をすり抜け、冷蔵庫からパックに入ったアイスコーヒーをコップに注ぎ、勿論自分の分だけ、テーブルの上に置いた。椅子に座り一口飲んでから、「何? 美咲がどうかしたの」と訊いた。
「あんた、最近美咲ちゃんと付き合ってる?」
付き合ってるけど、と私は何気ないふうに答えた。リビングの窓がコトリと風で音を立てた。
「美咲ちゃんの近所に住む坂東さんから聞いたんだけど、美咲ちゃん、自殺未遂起こしたらしいじゃない」
「え?」
聞き間違いかと思った。てっきり、風俗をしている美咲と付き合っているのを咎められるのかと思っていた。なのに、母から出てきた言葉は耳を疑うものだった。坂東さん……美咲と仲が良かった癖に、タバコを吸い、一度は裏切った高校の卓球部員だ。彼女みたいな人がいなければ、美咲も学校を辞めなかったかもしれないと一度は恨んだ人。
「何それ。いつ? 何したの?」
美咲がうつだというのは知っている。しかし、自殺未遂なんて聞いたことがない。口の中が渇いていく。手足の力が抜けていく。
「知らないの? 一ヶ月くらい前に、薬沢山飲んで救急車で運ばれたって」
「知らないよ」
血の気が引くような感覚に襲われる。美咲はそんなこと一度も教えてくれなかったから。私は晴れて親友の座に戻れて、あとは美咲が風俗を辞めるだけの問題だと思っていた。でも、美咲はそれ以上の闇を抱えていた。もしかしたら私は、美咲までも失っていたかもしれない……学校の友達のように。急激に恐くなり、目の前が真っ暗になった。それは比喩なんかではなく、眩暈だった。身体の力が抜け、バランスを崩し、自分の座る椅子が倒れる音が聞こえて、あとは何も分からなくなった。
「……さん。月岡さん」
聞き慣れた声が、水の中で聞く声のように遠くから聞こえる。それはやがてはっきりとした形を持ち、私は目を開けた。
中崎先輩が心配げな顔で私を覗き込んでいた。私は辺りを見回す。自分の部屋で、私はベッドの上に横たわっていた。どうしてここに中崎先輩がいるのか、どうして私がベッドの上にいるのか事態が飲み込めなかった。
「私、どうしたんでしたっけ。先輩がどうしてここに……?」
「月岡さん、リビングでお母さんと話してて倒れたらしいよ。俺はそのとき丁度月岡さんに電話をかけて、そしたらお母さんが出て。倒れたって聞いて、いてもたってもいられなくなった。気が付いたら、会いに行ってもいいですか、ってお母さんに言ってた。女の子の部屋に上がるなんて非常識だよな、ごめん」
そう謝る先輩はスーツ姿で、仕事帰りに駆けつけてくれたのだと思うと嬉しさで胸がいっぱいになった。会社員として働いている先輩は確実に立派な大人で、それに比べて私はまだまだ子どもだ。
「とりあえずお母さんに月岡さんが気が付いたって言ってくるから」
そう言って先輩は布団越しではあるが、私の身体の上に載せていた手を引き、ドアへと歩いていった。
「先輩」
「ん?」
「私の部屋に男の人が来たの、初めてです」
そう言うと先輩は少し困ったような顔で頭を掻き、部屋から出ていった。布団を触ると、先輩が置いていた手の温もりが残っていた。
「希里、大丈夫?」
母が、眉根をひそめながら心配そうな顔で部屋に入ってきた。
「うん。大丈夫」
「ごめんね、あんな話しちゃって。学校の友達のこともあったんだもん、ショック受けるに決まってるよね」
見透かされている。母には敵わない、と思った。
「中崎先輩は?」
「今トイレだよ。もう帰るって言ってたけど」
「えー……」
残念そうに言うと、母はちょっと安心した顔になって微笑んだ。
「希里のこと、すごく心配してたよ。三十分くらい、ずっと希里についてたんじゃないかな。大事にしなさいよー。あんな人、滅多にいないから」
「別に付き合ってはいないよ」
「知ってるよ。あんたの部屋に入るの、すごく躊躇してたから。でも、あの子はあんたのこと絶対好きだわ」
「えっ!?」
そんなの有り得ないと思っていた。被害者の兄と、加害者。その関係が変わることはないのだと。優しくされる度に、罪な人だと思っていた。驚いて身体を起こしてみたら、少しふわふわする感覚に襲われた。
「あー、まだふらふらする」
「まだ寝てなさい。先輩にはもう少しいるようにお母さんから言っておくから。話、聞いてもらいなよ。美咲ちゃんのこと」
「ーーうん。ありがと」
美咲。自殺未遂をしたのは、私と出会う少し前という計算になる。こんなな形で知りたくなかった。今度美咲に会うとき、知らないふりしているのはあまりにも難しかった。
トイレから帰ってきた先輩に、母が説得をし、先輩はもう少し部屋にいてくれることになった。母が部屋から出ていった後、指を顎のところで組みながらぽつりと先輩が呟く。
「でも、田島さんが自殺未遂なんてな」
「すごくショックです。美咲が言ってくれなかったこと、美咲のことまでも失っていたかもしれないこと……。すごく怖くて、悲しくて。美咲にどんな顔して会ったらいいのか分からないんです」
口にしてみたら泣きそうになって、堪えようと唇を噛んだ。布団をぎゅっと掴む私の手を、先輩は両手で包み込んでくれた。
「近所の人に自殺未遂のことを知られてたってことで、また田島さんが落ち込むかもしれないしな。だからといって知らなかったふりも難しいし、どうしたらいいのか分からない」
「先輩にも、分からないことってあるんですね」
「沢山あるよ。ーー月岡さんの気持ちとか」
「……え?」
何を言っているのか、理解出来なかった。いや、言いたいことは何となく分かっていても、まさか、と否定する声が頭の中で大きかった。でも、先輩は続けた。
「月岡さんが俺のことどう思ってるのか、俺には分からないんだ」
と。




