婚約破棄なら、どうぞご自由に――ただし王太子妃の仕事もお返しします
「アリシア。君との婚約を破棄する」
王立学園の卒業記念舞踏会。
大勢の貴族が見守る中、第一王子レオンハルトは、私に向かってそう告げた。
隣には、淡い桃色のドレスを着た伯爵令嬢ミレーヌがいる。
彼女は勝ち誇った顔で王子の腕に手を添えていた。
なるほど。
よくある話だ。
私は扇を閉じた。
「承知いたしました」
「……え?」
王子の顔が間の抜けたものになる。
「聞こえなかったか? 私は君との婚約を――」
「破棄なさるのでしょう? 承知しております」
「いや、しかし……」
なぜ困るのだろう。
王子が婚約を破棄したい。
私はそれを了承した。
それだけの話だ。
「理由を聞かないのか?」
「必要でしょうか?」
「必要だろう!」
王子が声を荒らげる。
私は少し考えてから答えた。
「では、伺いましょう」
王子は満足そうに胸を張った。
「君は王太子妃にふさわしくない!」
周囲がざわめく。
「社交界では冷たい。民の気持ちも理解しない。ミレーヌのように優しく、誰からも愛される女性こそ、未来の王妃にふさわしい!」
「そうですか」
「それに、君は僕を愛していないだろう!」
それには少し驚いた。
「よくご存じでしたね」
「……え?」
「私は殿下を愛しておりません」
今度こそ、会場が静まり返った。
「婚約したのは八歳のときです。殿下をお支えすることが公爵令嬢としての役目だと教えられて育ちました。ですから、その役目は十年間きちんと果たしました」
「なら、なぜ……」
「婚約者だからです」
私は微笑んだ。
「ですが、婚約を破棄なさるのでしょう?」
王子は口を閉じた。
隣のミレーヌが、初めて不安そうな顔をした。
「レオン様……」
「大丈夫だ」
王子は彼女を安心させるように言う。
「僕はミレーヌを選ぶ」
「それは結構です」
私は頭を下げた。
そして、扉へと足を向ける。
「では、これで失礼いたします」
「待て!」
王子が呼び止める。
まだ、何かあるのだろうか。
「君は何を考えている?」
「何も」
「嘘だ!」
「本当に何も」
私は扇を開いた。
「婚約者でなくなるのですから、これからは殿下のことを考える必要もなくなるでしょう?」
そう言って、私は会場を出た。
◇◇◇
翌朝。
王宮から一通の書状が届いた。
『昨日の婚約破棄について、至急王宮へ出頭せよ』
私は封を開けたまま、侍女に尋ねた。
「返事は?」
「いかがいたしましょう?」
「お断りしてください」
「……よろしいのですか?」
「婚約者ではありませんから」
でも少し不敬かしら?
まあでもこのくらい、許してほしい。
侍女は少し笑いながらも、どこか安堵の表情を浮かべて姿勢を正す。
「かしこまりました」
昼には二通目が届いた。
『王太子妃教育について、今後の引き継ぎを――』
私はそれも断った。
三通目。
『国境地帯への支援物資について、これまで公爵令嬢が管理していた帳簿を――』
「こちらは引き継ぎが必要ですね」
私は書類をまとめた。
「ただし、引き継ぎ相手を王宮から一人寄越してください」
翌日。
王宮からやってきたのは、宰相補佐官だった。
「アリシア様。昨日から王宮が大変なことになっております」
「そうですか」
「そうですか、ではありません」
補佐官は疲れた顔をしていた。
「殿下が『アリシアがいなくても問題ない』と仰ったので、すべてミレーヌ様に引き継ぐことになったのですが……」
「はい」
「ミレーヌ様は、国境への物資輸送の帳簿を見て、こう仰いました」
補佐官が震える声で続ける。
「『どうしてこんなに難しい仕事を私がしなければならないのですか?』と」
「……そうですか」
「王太子妃には必要な仕事だったのです」
「でしょうね」
私は机の上の書類を一枚取り上げた。
「だから私は十年間、勉強してきました」
税制。
農業。
治水。
外交。
飢饉への備え。
王太子妃教育という名前だったが、実際には未来の国政を担うための勉強だった。
「殿下は、それをすべて『花嫁修業』だと思っていたのでしょう」
「……おそらく」
「では、もう関係ありません」
補佐官が困った顔をする。
「ですが、このままでは国政が――」
「私には関係ありません」
そう言った瞬間だった。
廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
「アリシア様!」
飛び込んできたのは、王宮の侍従だった。
「殿下が! 国境支援の予算について、承認印を押してしまわれて――」
「なぜ私に?」
「昨日まで、すべてアリシア様が確認されていたので……」
「では、これからは殿下が確認なさればよろしいでしょう」
「それが……」
侍従は青ざめた。
「殿下は『アリシアが勝手にやっていたことだ』と。何も確認しないもので、大分不味い状況に……」
私は思わずため息をついてしまった。
「勝手に?」
「はい」
「なるほど」
私は立ち上がった。
「では、勝手にやっていた仕事を、勝手にやめましょう」
……ただ、フォローだけはしとこうかしら。
「今後のことだけど、まずは――」
◇◇◇
三日後。
王宮から緊急の呼び出しが来た。
私は今度は、応じた。
謁見の間には、王、王妃、レオンハルト王子、ミレーヌ、宰相が揃っていた。
「アリシア」
国王が重い声で言う。
「この三日で国境の穀物価格が急騰した」
「そうですか」
「原因は?」
「分かっております」
私は持参した帳簿を開いた。
「殿下が承認された輸送計画が、前年の冬季輸送量を基準にしているからです」
王子が反論する。
「それがどうした!」
「今年は春の洪水で南部の収穫量が二割減っています」
「……」
「さらに北部では街道の補修が遅れています。つまり、昨年と同じ計画では足りません」
私はページをめくった。
「これを私が三か月前に報告しております」
宰相が目を見開いた。
「報告書の控えが残っているのか?」
「はい」
私は机にそれらを置いた。
そこには、王太子妃教育の一環として提出した書類が何十枚もあった。
王子が黙り込む。
「殿下」
私は彼を見た。
「昨日まで、私は王太子妃候補でした」
「ああ」
「そして、王太子妃になるために必要な仕事をすべて任されていました」
「……」
「婚約破棄なさいましたので、その仕事も終了しました」
「しかし国のために――」
王子が言いかける。
私は静かに遮った。
「国のためなら、婚約破棄を撤回なさいますか?」
王子が固まった。
ミレーヌも顔を上げる。
「……それは」
「できないのでしょう?」
私は微笑んだ。
「なら、私に以前と同じ責任を求めるのは、おかしくありませんか?」
王子は何も言えなかった。
そのとき、国王が深く息を吐いた。
「アリシア」
「はい」
「……すまなかった」
王が頭を下げた。
王子が驚く。
「父上!」
「お前は知らなかったのだろう」
国王は息子を見る。
「彼女がどれだけ王妃になるための仕事をしていたかを」
「……」
「そして、婚約を破棄した以上、その責任を彼女に押しつけることもできない」
国王は私を見る。
「公爵家に正式な謝罪をする」
「ありがとうございます」
「それと、もう一つ」
国王は少しだけ笑った。
「王宮は、君に仕事を依頼したい」
「王太子妃として、でしょうか?」
「いや」
国王は首を振った。
「王太子妃ではなく、王国財務顧問としてだ」
私は少し考えた。
「報酬は?」
宰相が吹き出した。
「そこを聞きますか」
「当然でしょう」
国王も笑った。
「十分に支払おう」
「では、お受けします」
王子が呆然とこちらを見ている。
「アリシア……」
「何でしょう?」
「君は……僕と結婚するより、国の仕事をしたかったのか?」
「いいえ」
私は少しだけ首を傾げた。
「殿下と結婚することと、仕事をすることを比べたことがありません」
「では、なぜ僕との婚約を嫌がらなかった?」
「嫌ではありませんでしたから」
「愛していなかったのに?」
「はい」
私は笑った。
「ですから、破棄していただけて助かりました」
王子は胸を押さえた。
なぜか、とても傷ついた顔をしていた。
◇◇◇
それから半年。
私は王宮の財務顧問として働いていた。
婚約者ではない。
王太子妃でもない。
ただのアリシアとして。
そんなある日の帰り道。
「アリシア嬢」
声をかけてきたのは、幼い頃から知っている一人の青年だった。
侯爵家の次男、エドワード。
「少し時間をもらえるかな」
「何でしょう?」
「ずっと言おうと思っていたことがある」
私は彼を見る。
彼は真剣な顔をしていた。
「君が王子と婚約していたから、言わなかった」
「はい」
「でも、もう違う」
「はい」
「だから――」
彼は一度息を吸った。
「君を、一人の女性として愛している」
私は黙った。
「返事は急がなくていい」
「……エドワード様」
「何だい?」
「どうしてもっと早く言ってくださらなかったのですか?」
「君には王子がいたからだよ」
「婚約していただけですけれど」
「僕には同じことだった」
私は思わず笑った。
「では、今なら?」
「今なら、君の隣に立ってもいいと思っている」
私は少し考えた。
そして答えた。
「では、一つお願いがあります」
「何でも」
「私を王太子妃に戻そうとしないでください」
「……もちろん」
「仕事も続けます」
「それも知っている」
「たぶん、私は忙しいですよ」
「僕も忙しい」
「それでも?」
「それでも」
私は初めて、少しだけ頬を赤くした。
「では……お茶から始めましょうか」
彼が笑った。
「喜んで」
その帰り道。
私はふと、半年前のことを思い出した。
婚約破棄を告げられた夜。
あのときは、私の人生から何かが失われたのだと思っていた。
けれど違った。
失ったのは、私の人生ではない。
誰かに決められていた予定だった。
婚約者として生きること。
王太子妃になること。
王子を支えること。
そのすべてを手放して初めて、私は自分の予定を自分で決められるようになった。
「アリシア」
「はい?」
「何を笑っているんだい?」
「いえ」
私は前を向いた。
「明日の予定を考えていたのです」
「仕事?」
「それと……」
隣を見る。
「お茶の予定です」
彼は嬉しそうに笑った。
私はそれを見て、少しだけ歩く速度を緩めた。
婚約破棄の日。
私は、王太子妃になる未来を失った。
でも、その代わりに。
ようやく、自分で選べる未来を手に入れたのだった。




