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令嬢から成り下がったメイドの分際で、侯爵様と目が合ってしまって  作者: 真好


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5

 一歩外へ踏み出すと、そこには柔らかな春の夜が広がっていた。


 先ほどまでの舞踏会を支配していた、どろりとした社交界の熱気や、嵐のような喧騒が嘘のようだった。

 肌をなでる夜風には、確かな春の訪れを感じさせる瑞々しい気配が混じっている。


 唐突に訪れた静寂の中で、私は自分が、今この瞬間にようやく「春」を実感していることに気づかされた。

 すると、隣を歩くアルフォンス様が、ふと夜空を見上げながら声をかけてきた。


「春の夜は、好きかい?」


 あまりに無垢で、今の状況には不釣り合いなほど新鮮な問いかけに、私は一瞬戸惑う。

 けれど、胸の内に灯った素直な感情を、そのまま言葉にする。


「……はい。好きです」

「私もだよ」


 アルフォンス様は、ふわりと柔らかな笑みを浮かべた。


「散歩をするには、これ以上ないほどの日和だね」


 私たちは、ふたり並んで歩き出した。


 深夜というほどではないが、夜は十分に更けている。

 道行く人の影はほとんどなく、春の静寂に包まれた大通りは、あたかも私たちだけのために用意された貸切の舞台のようだった。

 隣を歩くこの貴人の存在が、殺風景なはずの夜道をこれほどまでに気高い風景に変えているのかもしれない。


 それから十分ほど、私たちは言葉を交わさず、ただ静かに歩みを進めた。


 まずは、昂ぶった熱を冷ます時間が必要だったのだろう。

 いくら当代随一の英雄とはいえ、あのような破格で型破りな行動に出たのだ。彼の内側でも、過熱した理性を落ち着かせるための沈黙を求めていたのかもしれない。


 やがて、火照った空気が心地よい夜風に溶け去った頃。

 アルフォンス様が、おもむろに上着を脱いだ。


 数多の勲章が誇らしげに輝く、軍礼装の重厚な上着。

 庶民であれば指一本触れることさえ憚られるような、その尊い衣を、彼は私の肩にふわりとかけてくれた。


「体が冷えただろう。春とはいえ、夜気はまだ毒だ」

「と、とんでもございません!」


 私は慌てふためく。けれど、侯爵自らがかけてくださったものを無下に脱ぎ捨てることもできず、ただ戸惑うばかりで声をあげる。


「私は寒くなどありません。アルフォンス様こそ、お風邪を召しては大変です。どうか、これをお戻しください」

「私は構わない。元来、人より体温が高い性質たちでね」


 結局、私は彼の許しを得て、その重厚な上着を纏ったまま歩くことになった。


 肩にかかる上着は、ずっしりと心地よい重みがあった。そして、驚くほど温かい。彼の体温がそのまま移ったかのような温もりに包まれると、ふわりと清冽な香りが鼻腔をくすぐった。

 それは人工的な香水などではない。

 彼という人間そのものが放つ、深みのある清廉な香りだった。


「……なぜだろうな」


 ふと、アルフォンス様が独り言のように呟いた。


「目が合ったからだ、とは言ったものの。正直に言えば、私自身も、なぜこれほどまでに君に惹きつけられているのか、その正体を見定められずにいるんだ」


 彼が再び私へと視線を巡らせる。

 その眼差しを受け止めると、彼の端正な顔立ちが、反射的に和らいだ。


「どうやら、君のその緑の瞳に、秘密がありそうだ」


 彼はまるで、歴史の闇に埋もれた古文書を読み解こうとする学者のような、真剣な眼差しで私の瞳を覗き込んできた。

 その熱っぽさに気恥ずかしさを覚え、私はたまらず視線を逸らして弁明する。


「緑色の瞳など、物珍しいだけです」

「いいや、稀有なのだ。……ルミナスの一族だけが受け継ぐ、伝説の色彩いろだと聞いている」

「……私も、そう教わってきましたが。世界は広いですもの、どこか他所にも同じような瞳の持ち主がいるかもしれません」

「……もう少しだけ、見せてくれないか」


 アルフォンス様がいきなり足を止めた。

 釣られて私も足を止める。


 彼の無言の命に従い、私は恐る恐る、再びその美しい青い瞳を覗き込んだ。

 至近距離で見つめ合う不敬な行為に、心臓が早鐘を打つ。


「やはり、分からないな……」


 彼は難解な難問にぶつかったかのような顔をして、吐息を漏らした。


「もっと時間が欲しい。君の瞳の奥にあるものを読み解くには、この散歩だけではあまりに短すぎる。……もっと、時間が必要だ」


 その言葉の重みに胸を突かれていると、ふと遠くの時計塔が目に留まった。

 長針の刻む無情な時間が、私を現実に引き戻す。


 もう、戻らなければならない時刻だった。


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