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令嬢から成り下がったメイドの分際で、侯爵様と目が合ってしまって  作者: 月兎


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 深夜のクレイソン公爵邸。


 主執務室には、獣のような咆哮が響き渡っていた。


「……ないッ!ない、ない、ない!どこへやった!?」


 クレイソン公爵は、半狂乱になって自席の隠し金庫を漁っていた。


 中にあるはずの、ルミナス家を陥れた偽造印章と、自身の汚職を記した裏帳簿が、影も形もなく消え去っている。


 凍りついた金庫の扉。

 それが何を意味するか、理解できないほど彼は愚かではなかった。


「ベルンハルトの若造め……!私を、この私を謀ったか!」


 公爵は膝から崩れ落ち、脂汗を流しながら震えた。


 あの証拠が国王の目に触れれば、公爵家は明日をも知れぬ身となる。


 死罪か、良くて極刑を伴う追放。


 だが、その絶望の淵で、暗闇から冷ややかな声が響いた。


「――お父様、何を情けない姿をさらしていらっしゃるの」


 部屋の隅に立っていたのは、イザベラだった。


 その瞳には涙もなく、ただ昏い、歪んだ知性が宿っている。


「イ、イザベラ……。もうおしまいだ。あの男に、すべてを奪われた……」


「いいえ。奪われたなら、その価値をゼロにすればいいだけのことですわ」


 イザベラは父の前に跪き、その耳元で、毒蛇が囁くような甘い声を忍ばせた。


「あの男が持ち出した証拠を、『本物』と認めさせてはいけません。……こう公表するのです。ベルンハルト侯爵は、我が家に潜り込ませていたルミナス家の残党――あの忌々しい女の美貌に惑わされ、洗脳されたのだと」


「……何だと?」


「あの女は、魔導具を使って侯爵を操り、我が家から機密を盗ませた。そして、自分の家の汚名をそそぐために、侯爵に『偽の証拠』を作らせた……。つまり、彼が明日陛下に提出するものはすべて、恋狂いの男が捏造した偽物であると、先手を打って印象付けるのですわ」


 公爵の目に、卑劣な希望の光が宿る。


 証拠そのものを否定するのではなく、証拠を持ってきた「人間」の信憑性を破壊する。


「あの女を即座に『国家反逆のスパイ』として処刑してしまえば、死人に口なし。侯爵も、捏造の共犯者として糾弾されることを恐れて、口を閉ざすしかありません」


「……よし。すぐに法務審議会の息のかかった奴らを動かせ。一刻も早く、あの女の首を撥ねるのだ」




***


 翌朝、アルフォンスが国王への緊急謁見を待つために王宮の控えの間に入った、わずか数分後のことだった。


 アルフォンスの不在を狙い澄ましたかのように、クレイソン公爵家子飼いの騎士たちがベルンハルト侯爵邸を包囲した。


「国家反逆罪、および軍事機密窃取の容疑により、エルナ・ルミナスを拘束する!」


 邸内に響き渡る怒号。


 エルナは、アルフォンスの身を案じながら執務室を整頓していた最中、無理やり引きずり出された。


「……何かの間違いです!私は、そんなことは……!」


「黙れ、スパイめ!貴様が侯爵閣下に術をかけ、公爵邸を荒らさせたことは既に判明している。閣下をお救いするためだ、大人しくしろ!」


 抵抗する使用人たちを剣の柄で打ち据え、騎士たちはエルナを馬車へと押し込めた。


 向かう先は、王宮の地下にある暗黒の審問場。


 そこには既に、クレイソン公爵に買収された審問官たちが、判決を書き終えた書面を手に並んでいた。


「エルナ・ルミナス。貴殿は没落した父の復讐のため、ベルンハルト侯爵を魔導具によって洗脳し、国家の秩序を乱そうとした。その罪、弁解の余地なし」


 冷徹で素早い宣告。


 エルナは、すぐにクレイソン公爵家の狙いを悟った。


 自分を殺すことで、アルフォンス様が手に入れた証拠を「洗脳された男が作った偽物」に仕立て上げようとしている。


「……私は、どうなっても構いません。ですが、アルフォンス様は……あの方は、ご自身の意志で真実を求めたのです!あの方を、捏造の罪に巻き込まないでください!」


「黙れ、売女が!」


 審問官の罵声が響く。


 判決は、異例の速さで下された。


 ――即時処刑。


 国王への上奏すら省いた、クレイソン公爵派による電撃的な殺害予告。




***

 その頃、王宮の謁見室前で足止めを食らっていたアルフォンスの元に、血相を変えたレイが飛び込んできた。


「閣下、大変です!エルナさんが……エルナさんがクレイソン公爵派の騎士に連れ去られました。『閣下を洗脳したスパイ』として、今まさに処刑場へ」


 その言葉を聞いた瞬間、アルフォンスの周囲の空気が、ガラスが砕けるような音を立てて凍りついた。


「……洗脳、だと?」


 アルフォンスの瞳から、一切の温度が消えた。


 公爵が証拠を隠滅するためにエルナを消そうとしていること。


 そして、自分の愛を「洗脳」と呼び、彼女にすべての泥を被せようとしていること。


 その卑劣な理屈が、彼の理性の最後の一線を、跡形もなく焼き切った。


「閣下、落ち着いてください。ここで暴れれば、それこそクレイソンの思うツボです」


「……落ち着けだと?レイ、お前は私の目の前で、私の女が殺されるのを指をくわえて見ていろと言うのか」


 アルフォンスが踏み出した一歩ごとに、王宮の豪奢な大理石の床に深い亀裂が入り、そこから鋭い氷の棘が噴出した。


 廊下の温度は一気に零下へと叩き落とされ、壁に飾られた絵画が、窓ガラスが、次々と悲鳴を上げて粉砕される。


「秩序を守るための法が、彼女を殺す武器になるというのなら……」


 アルフォンスは腰の剣を引き抜いた。


 それは騎士としてではなく、一人の略奪者として、最愛を奪い返すための宣戦布告。


「――私は今この瞬間、この国の騎士であることを辞めよう」


 ドォォォォォンッ!!


 爆発的な魔力の奔流が、王宮の壁を内側から破壊した。


 アルフォンスは馬も使わず、自らの魔力を推進力に変え、処刑場へと最短距離で疾走する。


 その背後には、凍てついた破壊の跡だけが残されていた。




 処刑台の上。


 首を断頭台に固定されたエルナの視界に、ぎらりと光る刃が映る。

 イザベラが勝利を確信し、醜い笑みを浮かべてそれを見下ろしていた。


(……アルフォンス様。どうか、ご無事で)


 エルナが静かに瞳を閉じた、その瞬間――。


 空から、巨大な氷の槍が降り注ぎ、処刑場を包囲していた騎士たちを、処刑台ごと一瞬で凍土へと変えた。


「――私の許可なく、私の女に触れた罪を、その命で購わせよう」


 地獄の底から響くような、氷の王の怒号。


 白煙を上げて立ち昇る冷気の中から、銀色の髪を振り乱したアルフォンスが、鬼神のような形相で姿を現した。

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