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令嬢から成り下がったメイドの分際で、侯爵様と目が合ってしまって  作者: 月兎


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 王都の北側に威圧的に聳え立つクレイソン公爵邸は、冷徹なまでに絢爛な光彩を放っていた。


 高く積み上げられた白亜の石壁、精緻な彫刻が施された鉄柵。

 そのすべてが、王国最上位の爵位を持つ者の特権と、他者を寄せ付けぬ傲慢さを体現している。


 アルフォンスは、馬車が止まると同時に、淀みない動作で外へと降り立った。


「――おや、ベルンハルト卿。騎士団長自ら定例調査とは、随分と熱心なことだね」


 出迎えたのは、現当主であるクレイソン公爵だった。


 彼はアルフォンスより一回り以上年上で、その眼差しには格下の若造を値踏みするような、不遜な余裕が滲んでいた。


 その傍らには、期待に頬を上気させた公爵令嬢、イザベラが控えている。


「突然の訪問をお許しください、クレイソン公爵閣下。公務ですので、何卒ご理解を」


 アルフォンスは感情を削ぎ落とした仮面を被り、完璧な貴族の礼を返す。

 相手が公爵である以上、形式上の敬意を欠くことはない。


「まあいい、入りたまえ」


 公爵がアルフォンスを中へと促す。


 彼にとって、アルフォンスは有能な騎士団長ではあるが、所詮は「年若い侯爵」に過ぎない。

 自分の権力に怯えているか、あるいは取り入りに来たのだと高を括っている様子だった。


「アルフォンス様、昨日は……その、ショップでは失礼いたしましたわ」


 イザベラが、しなだれかかるような仕草で近づいてくる。


 アルフォンスは一瞬だけ彼女の瞳に視線を落とした。それは慈しみではなく、計算に基づいた「甘い毒」を含んだ眼差しだった。


「……気にすることはないですよ、クレイソン嬢。私も少し、言い過ぎたかもしれない。今日はその埋め合わせも兼ねて、少しあなたと話せればと思っているのですが」


 その言葉に、イザベラの顔が一気に輝いた。


 アルフォンスの低く心地よい声音が、彼女の判断力を容易に狂わせていく。


 そして背後では、公爵が満足げに口角を上げていた。

 若き有力侯爵を娘の魅力で手懐けられるなら、これほど都合の良いことはないと考えたのだろうか。




***

 応接室での茶会の最中、アルフォンスは事務的に本題を切り出した。


「さて、公爵。調査自体は私の部下に任せようと思います。機密文書に関わることですので、貴殿の執務室横にある印章保管庫の鍵を一時、私の事務官に預けていただけますか?その間……私は令嬢と、この見事な庭園を散策させていただきたいのですが」


 公爵は一瞬、鷹揚に頷いた。


「いいだろう。……イザベラ、侯爵を退屈させるなよ」


 公爵はたちまち、事務官を装ったアルフォンスの部下に保管庫への入室を許可した。




 庭園の奥、人目の付かないガゼボに辿り着いた時、アルフォンスは静かに魔力を練り上げた。


 彼にとって、公爵の傲慢さもイザベラの盲目的な恋慕も、すべては利用すべき「隙」に過ぎない。


「……素晴らしい庭だ。この季節にこれほど見事に咲かせるとは、流石は公爵家ですね」


「まあ、嬉しい。アルフォンス様にそう言っていただけるなんて」


 イザベラが陶酔したように語りかけてくる。


 アルフォンスは彼女の瞳を見つめながら、指先から微かな冷気を放った。

 極低温の魔力が周囲の湿気を凍らせ、視界を歪ませる。


「少し、冷えてきましたね。君のために、暖かい茶のお代わりを用意させよう」


 アルフォンスがその場を離れるような素振りを見せた瞬間、彼の身体は氷の残像をその場に留め、本体は音もなく跳躍した。




 建物の壁面を、氷の楔を足がかりに垂直に駆け上がる。


 公爵の執務室は二階の最奥。


 アルフォンスはバルコニーの窓枠に指をかけると、魔力によって鍵を分子レベルで凍結させ、粉砕することなく「解錠」した。


 室内には、公爵の権力を誇示するような豪華な調度品が並んでいたが、アルフォンスの目的は一つ。


 彼は迷いなく、巨大なマホガニーのデスクに向かった。


「……ここか」


 デスクの脚の付け根、装飾に紛れた隠しスイッチ。


 ミューラーが吐いた「公爵の秘密の隠し場所」だ。


 スイッチを押し込むと、壁の一部がスライドし、厳重な魔法封印が施された金庫が現れる。


「……凍れ」


 アルフォンスが金庫に触れた瞬間、金庫全体が白く凍りついた。


 魔法の回路そのものを凍結させ、一時的に機能を停止させる。

 

 カチリ、という小さな音と共に、扉が開いた。


 中には、数枚の裏帳簿、そして――一つの、古びた、しかし精巧な印章があった。


 アルフォンスはそれを手に取り、月明かりの下で確認する。


 ルミナス家の紋章。

 だが、本物とは微妙に異なる、偽造職人の癖が混じった模造品。


 さらにその下には、公爵の署名が入った、横領の隠蔽を指示する密約書が眠っていた。


「……見つけたぞ、エルナ」


 彼は証拠品を懐に収めると、金庫を元の状態に戻し、魔法の痕跡をすべて消去した。


 滞在時間は、わずか三分。




 庭園のガゼボに戻ったアルフォンスは、何事もなかったかのようにイザベラの隣に立った。


 イザベラは、彼がほんの一瞬席を外しただけだと思い込み、まだ自分の恋の成就を夢想している。


「お待たせした。……やはり、少し風が冷たくなってきたようです。部下の調査も終わった頃でしょう、今日はこれで失礼します」


「えっ、もう……?アルフォンス様、またすぐに会っていただけますわね?」


「……ええ。おそらく、次は王宮で会うことになるでしょう」


 最後の一言を心の中でだけ冷ややかに呟き、アルフォンスは公爵邸を後にした。


 迎えの馬車に乗り込んだ瞬間、アルフォンスの表情からすべての偽装が消え去る。


 手の中にある偽造印章。

 これが、エルナの父を、そして彼女の人生を狂わせた元凶。


「レイ、証拠は手に入れた」


 馬車の中で待機していたレイが、感嘆したように息を吐く。


「……お見事です、閣下。公爵は、格下の侯爵に手玉に取られたとも知らず、今頃は祝杯でも上げているかもしれませんね」


「明日の朝一番で、陛下へ謁見を申し入れる。……公爵家の没落、そしてルミナス家の名誉回復。一気に畳み掛けるぞ」


 アルフォンスは窓の外を見つめ、暗闇の中に浮かぶ一対の緑色の瞳を想った。


 彼女を貶め、メイドとして泥を舐めさせた者たちすべてに、同じだけの屈辱と絶望を与える。


 愛ゆえの狂気と、冷徹なまでの正義。

 すべてを手中に収めたアルファ男の横顔は、夜の帳の中で、誰よりも恐ろしく、そして美しく輝いていた。

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