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王宮の北側に位置する、王立第二騎士団本部。
その一角にある尋問室は、窓のない石壁に囲まれ、地上の喧騒から完全に隔離されていた。
部屋を照らすのは、天井から吊るされた魔導ランプの無機質な光だけ。
その光の下で、一人の男が椅子に縛り付けられ、歯の根も合わないほどガタガタと震えていた。
元・王宮文官、ミューラー。
かつて軍事予算の管理という要職にありながら、現在はクレイソン公爵の口利きで閑職に就き、贅沢三昧をしていた男だ。
カツ、カツ、と硬い軍靴の音が響き、ドアが開く。
入ってきたのは、上着を脱ぎ、白いシャツの袖を腕捲りしたアルフォンスだった。
「……さて、ミューラー」
アルフォンスの声は、低く、冷ややかに響く。
「あまり私を待たせないでくれ」
彼はミューラーの正面に立つと、机の上に数枚の紙を並べた。
それは、ミューラーが完璧に隠蔽したつもりでいた裏帳簿の写しと、クレイソン公爵家からの不自然な送金記録。
「な、……っ、こ、これは……」
彼のわかりやすい反応を見て、アルフォンスが軽く、冷たい笑みをこぼす。
「やはり、見覚えがあるようだね」
「何かの間違いだ……。私は、私は、何も知りません……」
ミューラーがおどおどした声。
アルフォンスはその言葉を柳に風と受け流し、ゆっくりと彼に歩み寄る。
彼の体から放たれる根本的な威圧感に、ミューラーは椅子ごと後ろへひっくり返りそうになる。
「間違い、か。では、この……君の筆跡による署名も、君の愛人の口座に振り込まれた金貨五百枚も、すべて幻だとでも言うつもりか?」
アルフォンスの氷のような声色が、強引にミューラーの顔を上げさせる。
至近距離で見据える侯爵の瞳は、感情を一切排した、冷徹な捕食者のそれだった。
「軍の補給予算を操作し、公爵の横領を助けた。……それだけであれば、君の首が飛ぶだけで済む。だが、君はそれ以上の罪を犯した。ルミナス卿の書斎に、あの『偽造された書類』を置いたのは、君だな?」
「ひ、ひぃっ!ち、違います!私はただ、公爵様に命じられて……」
「……命じられて、か」
アルフォンスの声が、一段と低くなる。
段々と寒くなる室内の空気から伝わる恐怖に、ミューラーはついに精神の限界を迎えた。
「公爵様が……公爵様がお抱えの彫金師に作らせたのです。ルミナス家の紋章を完璧に模した印章を……」
寒々とした沈黙の中で、彼は告白する。
「私は、あの方が用意した偽の書状を、家宅捜索の際にさも今見つけたかのように装って……出しただけです。その時は、ただただ大金が貰えると聞いただけで、自分が一体何にかかわっているのか全く知りませんでした。本当です、信じてください……」
ミューラーが泣き崩れる。
アルフォンスは彼から少し離れ、不浄なものを触ったかのように声を放った。
「印章の原版はどうした。今も公爵が持っているのか」
「そ、それは……分かりません」
「心当たりもないのか?」
「……」
ミューラーはしばらくの沈黙の後、涙声で続ける。
「あの方は用心深い人だ……。自分を破滅させかねない証拠こそ、誰にも預けず、ご自身の屋敷のどこかに隠しているはずです」
アルフォンスはそれ以上、男を追求しなかった。
彼は背を向け、部屋の隅に控えていた副官のレイに短く命じた。
「レイ、この男を地下牢へ。証言はすべて記録したな」
「はい、閣下。完璧です」
レイが少年のような笑みを消し、冷淡な手際でミューラーを引きずり出していく。
一人残された尋問室で、アルフォンスは窓のない壁を見つめた。
心証は確信に変わった。
だが、現公爵を断罪し、王命による判決を覆すには、まだ「物証」が足りない。
あの日使われた偽造印章、あるいは公爵自らが捏造を指示したことを示す直接的な書類。
それらは、クレイソン公爵邸の奥深くに眠っているはずだ。
アルフォンスは騎士団の本部を後にし、夜明け前の冷たい空気の中に足を踏み出した。
「……物証がないなら、取りに行くだけだ」
彼は独りごちてから、後ろについて来ているレイに尋ねる。
「公爵の屋敷へ乗り込むのに、どのような名目がふさわしいと思う?レイ、お前の意見を聞こう」
「……そうですね」
少し考えを巡らせる仕草を見せた後、レイが提案する。
「例えば、『軍用公印の使用履歴および管理状況に関する定例の巡回調査』というのはいかがでしょう」
「定例の調査か……」
アルフォンスは淡白に頷く。
「いいだろう、採用だ。レイ、明日の準備を。皆には、この計画の詳細は伏せておけ。私一人で行く」
「……えっ、お一人でですか?」
レイが意外そうに大きな瞳を瞬かせる。
「何か問題か?まさか、私の心配でもしているわけではあるまいな」
「いえ、団長の身を案じているわけではなくて……」
レイはどこか遠い目をして、公爵家の末路を憐れむような、複雑な溜息をついた。
「私が心配しているのは、クレイソン家の方ですよ。団長、くれぐれもあちらの屋敷全体を『冷凍庫』にするような無茶はしないでくださいね?」
「案ずるな。抜かりなく準備をしておけ」
「はーい、了解です」
レイが去った後。
ふと、アルフォンスの脳裏に、眠っているであろうエルナの顔が浮かぶ。
春の芽吹きのような、瑞々しく美しい緑色の瞳。
彼女が再び令嬢として光の下へ戻るとき、そこにあるのは、自分が完璧に浄化した後の、美しい世界だけでいい。
「待っていてくれ、エルナ」
深夜の王宮に、侯爵の決意が響き渡る。
「明日の夜には、君の誇りを取り戻すための最後の鍵を、この手に収めてみせる」




