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令嬢から成り下がったメイドの分際で、侯爵様と目が合ってしまって  作者: 月兎


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(……イザベラ)


 静謐な空気が、一瞬にして刺々しい華やかさに塗り替えられる。


「あら、素敵な輝きですわね。イザベラ、あちらのサファイアなんて、今日のあなたのドレスにぴったりではなくて?」

「ええ、レノア。でもわたくし、あちらの新作のティアラも気になっておりますの」


 耳に届いたその声に、私の心臓が大きく跳ねる。


 嫌な汗が背筋を伝い、全身の血が凍りつくような錯覚に陥る。


 聞き間違えるはずがない。


 一人は、私をルミナス家没落のどん底に突き落とした元親友、イザベラ・クレイソン。


 そしてもう一人は、家を失った私を「借金の形」として買い叩き、過酷な労働と罵倒で使い潰そうとした元の主人、レノア・エトワール伯爵令嬢だ。


 反射的に顔を伏せようとしたが、間に合わなかった。


「……え?」


 宝石の海を品定めしていたレノアの視線が、店内に佇む私を捉える。


 一瞬の空白。


 そして、レノアの端正な顔が、信じられないものを見たという驚愕を経て、瞬時に猛烈な怒りへと染まった。


「エルナ……?あんた、エルナじゃないの!」


 静かな店内に、貴族令嬢にあるまじき鋭い叫びが響き渡る。


 レノアは優雅な足取りをかなぐり捨て、床を鳴らしてこちらへ詰め寄ってきた。


 隣にいたイザベラも、扇子を口元に当てて目を細めている。


「どういうことかしら。舞踏会の夜にアルフォンス様に連れ去られたきり、二度と私の屋敷に戻らなかったと思えば……」


「レノア様……」


「こんなところで、一体何をしているの!あんたは私の屋敷の所有物なのよ!勝手に逃げ出して、あまつさえ私のメンツをどれだけ潰せば気が済むの?」


 レノアの怒声に、店員たちが何事かと遠巻きに見守り始める。


 エルナの隣で怯えるクロエが、私の服の袖をぎゅっと掴んだ。


「お答えなさい。勝手に行方をくらました挙句、主人である私に挨拶一つなし。これは立派な『逃亡』よ。契約違反で憲兵に突き出してもいいのよ。わかっているの?」


 詰め寄るレノアの圧力に、私は一歩後ろに下がる。


 だが、今の私は、あの屋敷で泥水を啜るように働かされていた無力な少女ではない。


 私は深く呼吸をし、震えを抑えて背筋を伸ばした。


「……レノア様。私は現在、ベルンハルト侯爵家にて正式に雇用されております。雇用主であるアルフォンス様のご判断に従ったまでで、決して逃亡したわけではございません」


「雇用?笑わせないで。あんなのは一時の気まぐれに決まっているでしょう。ただの『遊び』に決まっているじゃない」


 レノアは私の言葉を鼻で笑い、品性の欠片もない言葉をぶつける。


「いい?あんたの父親が作った借金は、まだうちの父様が肩代わりしている分があるの。それを返し終わるまで、あんたは一生、私に傅く犬であるべきなのよ」


 横で静観していたイザベラが、ここでくすりと笑い声を上げた。


「あら、レノア。そんなに怒らないで。エルナも、かつての贅沢が忘れられなくて、こうして高級店を覗きに来ただけかもしれませんわ。もっとも、メイドの分際で、見るだけで買えるはずもございませんけれど」


「それもそうね。身の程をわきまえなさい。あんた、アルフォンス様に捨てられたから、こうして別の金持ちを探しに来たとかじゃなくて?本当に浅ましい女……」


 レノアの手が、いきなり私の肩を乱暴に掴んだ。


「もういいわ。今すぐ連れ戻してあげる。逃げ出したメイドがどんな仕打ちを受けるか、その身に刻んであげなくてはね」


「離してください。私はアルフォンス様の許可なく、あなたの屋敷に行くことはできません」


「うるさい。私の物なんだから、私がどうしようと勝手でしょう!」


 レノアが合図を送ると、店外に控えていた彼女の護衛たちがぞろぞろと店内に押し入ってきた。


 店員たちは、力を持つ伯爵家の横暴に異を唱えようとはしない。


 それどころか、「穢らわしいメイドが厄介事を持ち込んだ」と言わんばかりの視線を私に向けている。


「さあ、お行きなさい。あんたを地下の洗濯部屋に閉じ込めて、二度とその小賢しい口が聞けないようにしてやるわ」


 屈強な男たちの手が、私の腕を強引に掴む。


 抵抗しようにも、多勢に無勢。

 パニックに陥り、泣きじゃくるクロエの声が遠くに聞こえる。


 ――また、あの暗闇に戻されるのか。


 アルフォンス様のいない、希望も何もない、あの地獄へ。


 絶望が胸をよぎったその瞬間、店内に低く、冷徹な声が響き渡った。


「私の屋敷のメイドに、随分と粗暴な真似をしてくれるではないか」


 その声が聞こえた瞬間、店内の空気が一変した。


 掴まれていた腕の力が、驚愕によって緩むのを感じた。

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