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重い塊が底の見えない深い淵へと落ちていくような、逃げ場のない静寂が場を支配した。
グレース様の顔から血の気が引き、顔色が幽霊のように青ざめる。
しかし、彼女はその衝撃を飲み込むかのように、恐ろしいほどの静謐さをその身に纏わせた。
もはやこの世に彼女を動揺させるものなど何ひとつ存在しないのではないかと思わせるほど、冷徹で、絶対的な落ち着き。
彼女は、誰にともなく、しかし広間を囲むすべての人間に届くような声を張り上げた。
「――皆」
戸惑う一同に返事をする余裕を与えず、彼女はもう一度、鋭く叫んだ。
「皆!」
その言葉に弾かれたように、周囲にいたメイドや騎士たちが一斉に「はっ!」と声を揃えた。
「今、この場で聞いたことは、すべて聞かなかったことにしなさい。……いいわね?」
彼女の言葉に、最初は困惑の沈黙が返った。グレース様は逃がさないと言わんばかりに、さらに声を重ねる。
「返事は!」
「「「は、はいっ!」」」
わずかに揃わぬまでも、騎士と使用人たちの決死の返答が、瓦礫と化した空間に響き渡る。
グレース様は、追い打ちをかけるように付け加えた。
「もしも一言でも口外する者がいれば、その命はないものと思いなさい。ベルンハルトの名にかけて、地の果てまで追い詰め、相応の報いを受けさせると約束するわ」
彼女はそこにいる一人ひとりの顔を、その眼球に焼き付けるかのように、あるいは呪いの印でも刻むかのように、じっくりと見回した。
全員と視線を合わせ、逃げ場を封じてから、彼女は一度だけ深く呼吸をした。
「解散。直ちに持ち場へ戻りなさい」
その淡白な指示に、人々は蜘蛛の子を散らすように、一切のうろたえを見せずに各々の持ち場へと分散していった。
***
修羅場の跡には、私とアルフォンス様、そしてグレース様の三人だけが残された。
皆が遠ざかり、人の気配が完全に消えたことを確認すると、グレース様は深い溜息とともに、ゆっくりと地面に降り立った。
アルフォンス様もそれに合わせるように着地したが、その腕には、未だにお姫様抱っこの形で私が抱えられたままだった。
父以外にこんなことをされた経験のない私にとって、それは気恥ずかしさと、何より命の危険を感じるほどの不安が入り混じった、この世で最も心地の悪い体勢だった。
世の女性たちが夢見るであろうアルフォンス様のお姫様抱っこを、私は今、世界一の不便さとして享受していた。
「あ、あの……お下ろしいただけませんか?」
「……まだ足が痛むだろう? 大丈夫、エルナはすずめの羽より軽いから」
「い、いえ、あ、ありがとうございます?じゃなくて!……重さの問題ではなく、非常に恐縮ですので……っ!」
チラリとグレース様の表情を伺うと、案の定、私以上に不快そうな顔をしてこちらを見ていらっしゃる。
「お、お願いします! 下ろしてください。足はもう平気です、立てますから!」
「……そこまで言うなら。わかったよ」
ようやく折れてくれたアルフォンス様の手によって、私は久しぶりに地面の感触を両足で確かめることができた。
再び、グレース様との対峙。
改めて見ると、グレース様は、魔力の激しい行使のせいか、あるいは息子による疲れのせいか、朝礼の時に比べて十歳は老け込んでしまったかのように見えた。
「アルフォンス」
グレース様が、重い口を開く。
「あなたは今、自分が何をしでかしたのか、分かっているのね」
「……はい。母上には、申し訳ないと思っております」
「私の面目などどうでもいいのよ。問題はそこではないことくらい、あなたも分かっているはずだわ」
「……」
グレース様は再び深い溜息をついた。
「二十年以上……、二十年以上も隠し通してきたのよ。社交界への露出を極限まで絞り、出自を悟られぬよう、一挙手一投足を、振る舞いの一つ一つを完璧に演じてきた。すべてが上手くいっていた。……それを、さっきのあなたの一言が、すべて台無しにしたの」
「心配はいりません、母上」
アルフォンス様が言った。
「この侯爵家に仕える者たちは、皆、母上が自ら厳選し、厳しく鍛え上げた精鋭ばかりです。彼らが安易に主家の秘密を口外するなど、万に一つもありません」
「……甘いわね。一体、何人の使用人がここにいると思っているの? そもそも、人はそう簡単に信用してはならないものよ。騎士団長ともあろう者が、そんな道理も分からないのかしら」
「……」
アルフォンス様は否定せず、沈黙でその言葉を受け止めた。
「おそらく、この事実は外へ漏れるでしょうね。そして、その後に吹き荒れる爆風を一身に浴びるのは私ではない。あなたなのよ、アルフォンス」
母としての切実な懸念が、その声には滲んでいた。
だが、アルフォンス様は覚悟の上だと言わんばかりに、平然と言ってのけた。
「既に、あのような大勢の目の前でメイドにダンスを申し込んだ身です。目立ちすぎた代償ならとうに払っていますよ。今更一つや二つ、他の噂が増えたところで、痛くも痒くもありません」
「……随分と楽観的な解釈ね」
「ええ。恋に落ちると、世界が驚くほど前向きに見えるものなのですね」
少し茶化すような、けれど確信に満ちたその言葉に、グレース様の表情が呆れに染まる。
そして次の瞬間、彼女の唇からふっと笑みが零れた。
失笑に近いものではあったが、張り詰めた糸が切れたようなその穏やかな反応に、三人の間に立ち込めていた緊張がわずかに緩んだ気がした。
「母上」
アルフォンス様が、改まった様子で母へと一歩近づく。
「エルナを、ここに置いてください。……今すぐ認めてほしいとは言いません。ただ、今は、この子をここにいさせてほしいのです。私はもっと、彼女を知りたい。この瞳を、近くで見つめていたいのです」
グレース様は、再び長い沈黙に沈んだ。
瞼を閉じ、深く思考を巡らせる彼女の時間を邪魔せぬよう、私とアルフォンス様もじっと待つ。
やがてグレース様は目を開き、アルフォンス様ではなく、真っ直ぐに私を見据えて言い放った。
「……分かったわ」
「母上、ありがとうござい――」
「ただし、」
彼女の声が、感謝を口にしようとしたアルフォンス様を遮る。
「あくまで、一介の使用人としてよ。あなたの伴侶として認める気など、これっぽっちも持ち合わせていないわ。微塵もね」
アルフォンス様の顔に不服そうな色が過ったが、今の状況ではこれが最善の妥協点だと判断したのだろう。
彼は静かに頷いた。
「エルナ、それで構わないかい?」
アルフォンス様の問いに、私は深く頭を下げた。
「身に余るお計らい、心より感謝申し上げます。このような騒動を引き起こしてしまったこと、伏してお詫びいたしますとともに、この寛大なるご配慮、生涯忘れません」
礼を述べる私を、グレース様は依然として厳しい眼差しで射抜いていた。
「勘違いしないで。アルフォンスのしでかした不始末のせいで、あなたにはもうここ以外に居場所がなくなってしまった。だから仕方なく、慈悲をかけているだけよ。認めたわけでも、歓迎しているわけでもないわ。メイドとしての検分は、これから嫌というほど厳しく行います。仕事が満足にできなければ、アルフォンスの意向に関わらず、即座に解雇しますからね」
「はい。肝に銘じます。ベルンハルト家のお役に立てるよう、全身全霊で務めさせていただきます」
私の決意を確かめるように見つめていたグレース様は、最後に、この場に渦巻いていたすべての因縁を断ち切るような、重く、長い溜息を吐いた。
それは、暴風雨が過ぎ去った後の静寂に似ていた。
とにかくため息の多い方だと、つい思ってしまったりして。
こうして、粉々に砕け散った広間の残骸と、青白い霜が降りた冷え切った空気の中で。
私たちはようやく、長く、過酷な「朝礼」の終結を迎えたのだった。




