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令嬢から成り下がったメイドの分際で、侯爵様と目が合ってしまって  作者: 真好


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 前方を見上げると、そこには依然として宙に留まるグレース様の姿があった。


 彼女はさらに高度を上げ、全身を猛火のとばりで覆っている。


 対するアルフォンス様は氷の防壁を解除し、ただ私を抱いて浮遊していた。

 私を守るために魔力を割いているはずなのに、その横顔には揺るぎない余裕が漂っている。


「母上」

 アルフォンス様の声が、静かに、けれど鋭く響く。

「これ以上争いを続ければ、この敷地すべてが火の海か、さもなくば酷寒の地と化してしまいます」


「――それこそが、今の母の心境そのものよ」

 グレース様が忌々しげに言い放つ。

「選びなさい、アルフォンス。この母の心を焼き尽くすか、あるいはこの侯爵邸を灰燼に帰すか。……どちらを望むというの?」


「極端すぎます。母上はなぜ、そこまで憤っておられるのですか? もし、私が心を寄せたこの女性が『平民』であるからという理由であれば、それは大きな誤解です。この子は、平民ではありません。ルミナス家の令嬢、エルナ・セレスティア・ルミナスです」


 その名がアルフォンス様の口から告げられた瞬間、グレース様の声色がわずかに揺らいだ。


「……ルミナス家の」


 突き刺すような視線が再び私を捉える。

 火炎の勢いが一瞬だけ陰ったように見えたが、気のせいだった。彼女の表情に浮かんだのは納得ではなく、より深い蔑みだった。


「では、あの『元令嬢』なのね。ならば尚更、正気の沙汰とは思えませんわ。過去がどうであれ、今は平民に身を落とした娘……それを承知で共に踊ったというの? 侯爵家、そしてベルンハルトの名に泥を塗るにも程がある。ましてや、国家反逆罪で没落した一族の娘を選ぶなど……アルフォンス、あなたは騎士団長の誇りさえも捨ててしまうつもりかい!?」


「身分が、爵位が、地位が、一体何だというのです!」


 アルフォンス様の怒号が、母君の威圧を撥ね退けるように響き渡る。


「そんな虚飾に、私は一目惚れなどしない。私が命を懸けて戦ってきたのは、そんな空疎な名誉を守るためではないはずだ」


 私を抱きしめる彼の手のひらに、ぐっと力が籠もる。


「私が騎士の道を歩んだのは、国を護るため。そして……こうして守るべき女性ひとが目の前に現れた時、その手を引き、護り抜く力を得るためだ。母上の面目を保つために、私は騎士団長になったわけではない!」


「……っ!」


 正論という名の刃を突きつけられたからか、あるいは息子のあまりの気迫に圧されたのか。


 グレース様を包んでいた荒れ狂う火炎が、目に見えてその勢いを失っていく。

 だが、二人の周囲には依然として蜃気楼のような魔力の残滓が揺らめき、張り詰めた緊張感は消えていない。


 やがて、グレース様は私を射抜くような眼差しから、じっくりと吟味するような冷徹な観察の視線へと変えた。


「――哀れな息子」


 彼女の口から漏れたのは、憤怒ではなく、どこか哀れみを含んだ響きだった。


 怒りが凪いだ後に残ったのは、迷い込んだ息子を導こうとする、いわば母性のようなものだろうか。


「あなたはただ、その娘のかんばせに騙されているだけよ」


 その言葉の真意を測りかね、私が息を呑んだ時だった。

 ふと視線を落とせば、崩壊した広間の残骸を囲むように、いつの間にか大勢の「観客」が集まっていた。


 避難したメイドたち、そして異変を察して駆けつけた数十人の騎士たち。


 彼らは剣は抜かないまま呆然と、あるいは戦々恐々としながら、空中で繰り広げられる侯爵家の親子喧嘩を見上げていた。


 そこには、疲弊しきった顔のロゼッタやデインの姿もある。

 朝の静寂を木っ端微塵に打ち砕いたこの惨状に、彼らはもはや天を仰ぐしかないようで。


「騙されている……? 一体この子が、私にどのような嘘を吐いたというのです」


 アルフォンス様が不服そうに問い返す。グレース様は、理性的でさえある淡々とした口調で断じた。


「嘘などという高尚な話ではないわ。欺かれているのは、あなたの本能よ。人間という種が抱える、卑俗で動物的な本能にね」


「仰る意味が分かりかねます」


「まだ分からないの? ――要するに、その娘はただ『かわいい』だけ、だと言っているのよ」


 不意に投げかけられた言葉に、私は呆然としてしまう。


 褒め言葉として受け取るには、声色にあまりにも毒が混じりすぎていたから。

 しかも眼下の瓦礫の山が、本来の私の無様な姿を象徴しているようで、とても肯定的な意味には聞こえなかった。


「閣下」

 グレース様が再び、息子を呼ぶ呼称を公的なものへと戻す。


「あなた様はただ、あの子の容姿が好みであっただけ。性欲という、野蛮で一次元的な原始の欲求に突き動かされているに過ぎないのです。それを高潔に装うために『一目惚れ』などという甘ったるい言葉で、自身の短絡的な行動を正当化しているだけなのですよ」


「――ええ、それが何か問題でも?」


 アルフォンス様は、事も無げに、迷いのない声で言い放った。

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