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令嬢から成り下がったメイドの分際で、侯爵様と目が合ってしまって  作者: 真好


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 朝礼が始まると、そこからは凛とした事務的な空気が流れた。


 かつての奉公先での朝礼は、狭く薄暗い部屋に押し込められ、淀んだ空気の中で行われる苦行のような時間だった。


 しかし、この公爵邸の広間はだいぶ違う。

 高い天井と磨き上げられた床、そして洗練された調度品。

 メイドたちのための場所でさえ、ベルンハルト家の品格を物語っていた。


 グレース様の手元には、昨日の報告書があるのだろう。彼女は迷いのない足取りでメイドたちの前を歩きながら、昨日の不備を鋭く指摘し始める。


「ハンナ。西翼図書室の三段目の棚、僅かに埃が残っていたわ。やり直しなさい」

「はい、申し訳ございません。直ちに」

「マルタ。銀食器の輝きが鈍いわ。磨き粉の量を見直しなさい」

「失礼いたしました。以後、徹底いたします」

「ソニア。庭園の飛び石の隙間に雑草が見えたわよ。景観を損なうことは許しません」

「承知いたしました。本日中に処置いたします」


 一切の無駄がないやり取り。

 指摘は的確で、答えるメイドたちの声にも迷いがない。


 続いて、本日の業務の割り振りが始まる。


「カリナ。午後の来客に備え、応接室の準備を。花は白を基調にしなさい」

「畏まりました。清廉な印象で整えます」

「クララ。リネン室の在庫整理。特に毛布の点検を急ぎなさい」

「承知いたしました。正午までに報告いたします」


 といった具合で、グレース様は三十名ほどもいるメイドの一人ひとりに、直々に、そして細やかに指示を出していった。


 全ての指示が終わると、グレース様はメイドたちをまっすぐに見据え、静かに、けれど熱を帯びた声で語りかけた。


「忘れないで。あなたたちは、ただのメイドではない。掃除や手入れをこなすだけの労働者ではないの」


 その言葉に、室内の空気が一段と引き締まる。


「あなたたちの仕事のすべては、王立第二騎士団団長、アルフォンス・ベルンハルト侯爵を陰で支えるという、この国にとって極めて重要な使命に繋がっている。今、この国で最も期待され、国の未来を切り開く英雄……その輝ける星の足元を固め、平穏を守る。これは誇らしい仕事よ。その自負を胸に、今日も最善を尽くしなさい」


 メイドたちが一斉に「はい!」と声を揃える。


 その地響きのような返事と漲るエネルギーに、私はただただ圧倒される。

 彼女たちはもはや、単なるメイドには見えなかった。まるでアルフォンス様の旗の下に集った、メイド服を纏った騎士たちのようだった。


 その熱狂的な士気の高まりが一段落した時だった。


 朝礼が始まってからずっと、一度も私と目を合わせようとしなかったグレース様の視線が、初めて私へと向けられた。


(わざと、後回しにされていたんだわ……)


 新入りの私に対する、ある種の洗礼。慇懃な無視。


 そんな風に身構え、緊張で顔を強張らせていた私の予想は、次の瞬間、脆くも崩れ去った。


 私を見たグレース様の瞳は、ただ丸くなるだけだった。


 まるで、そこにいるはずのない異物を見つけたかのような、純粋な驚き。

 その反応を見て、私はようやく「最悪のシナリオ」に気づき、背筋が凍りついた。


 彼女は戸惑いを隠せぬまま、私に向かって問いかけた。


「……君は、一体誰だい?」


 単なる自己紹介を促すような問いなどではない。

 グレース様は、本当に私の正体を知らないのだ。


 どう答えるべきか迷い、私が完全に言葉を失った。

 広間の空気が急速に不穏なものへと変わっていく。


 メイドたちの視線が私とグレース様の間を激しく往復する。「えっ、大奥様がご存じなかったの?」という困惑の波が、さざ波のように広がっていく。


 絶句したまま立ち尽くす私に見切りをつけ、グレース様は背後に控えるロゼッタへと鋭い視線を投げる。


「ロゼッタ。一体あの子は何者なの?」


 あの凛としていたロゼッタが、一瞬だけ言葉に詰まるような仕草を見せた。


「……ご存じではないのですか?」

「全く知らないわよ。最近、新しく使用人を雇う予定なんてなかったはずでしょう」


 講堂の中に、メイドたちのひそひそとした雑談が湧き始める。


 使用人の頂点に立つ女主人が、新入りの存在を把握していないなど、この邸宅ではあり得ない事態だと言わんばかりに。


 事の重大さを悟ったロゼッタさんが、恐る恐る、絞り出すように説明を始める。


「昨夜……アルフォンス様が、直々に連れてこられた子にございます」


 その言葉を聞いた瞬間、グレース様はまるで時が止まったかのように凍りついた。


 三秒ほど、永遠とも思える沈黙が流れた後、彼女の口からひどく平坦な声が漏れた。


「……はぁ?」


 再び、彼女の視線が私へと突き刺さる。


 瞳は驚愕に見開かれたままだったが、そこには先ほどまでなかった、火を噴くような怒りの灯が点り始めていた。


「も、申し訳ございません」

 ロゼッタの弁明が続く。

「グレース様も既にご承知のことと思い込んでおりました。昨夜、閣下からは『母上には明日の朝礼が始まる前に自分から直接説明するから、それまで絶対に他言するな』と、強く口止めされておりまして……」

「私は息子から何も聞いていないわよ!」


 沈着冷静を絵に描いたようだったグレース様の声が、一転して激昂へと変わる。


「つまり……」

 彼女は震える声で、ロゼッタに詰め寄る。

「アルフォンスが、夜も更けた時刻に、私のいるこの家に、見ず知らずの娘を連れ込んだというの?」


 ロゼッタは覚悟を決めたように目を閉じ、深く首を垂れた。

「……左様にございます」


「ふざけるんじゃないわよ!!!」


 凄まじい怒号が、講堂に響き渡る。


 まるで獅子の咆哮のようなその叫びは、衝撃を受けた耳の奥で、キーンと高い耳鳴りを残すほどだった。


 広間に集まったすべてのメイドが氷のように固まり、そしてその中心で、私はもはや岩となって立ち尽くしていた。


 そんな私へ、グレース様がおもむろに首を巡らせる。


 人がこれほどまでに恐ろしい形相になれるものなのか。


 彼女は射殺さんばかりの目で私を見据えると、演台を降り、床を乱暴に踏み鳴らしながら、私の方へ歩み寄ってきた。


 打たれる。


 それは予感などではなく、もはや目に見える確定事項だった。


 私はせめてもの防御として目をぎゅっと閉じ、顔の筋肉に思い切り力を込めた。


 その時だった。


 講堂の扉が勢いよく、弾け飛ぶような音を立てて開いた。


「母上!」


 凛とした、しかし焦燥を含んだ男の声が響く。

 私は恐る恐る瞼を開き、その声の主へと視線を移した。


 講堂に乱入してきたのは――他ならぬ、アルフォンス様だった。

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