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ドアの向こう、廊下から響いてくるベルの音。
それは市場の客引きや緊急事態を知らせるような暴力的な騒音ではなく、あくまでこのメイド棟に眠る者たちを揺り起こすための、適度な熱量を持ったアラートだった。
ベルの音は遠ざかってはまた近づき、誰かが廊下を練り歩きながら朝の訪れを告げる。
その音に、隣で眠っていたクロエが即座に反応した。
先ほどまで子供のように無邪気な寝顔を晒していたのが嘘のように、彼女はぱっと目を開けた。
微睡みに身を委ねるような甘い猶予など、自分自身に一秒たりとも与えない。
即座にベッドから這い出すその一連の無駄のない動作に、彼女がこの屋敷で積み重ねてきた研鑽と成長の跡が見て取れた。
ベッドを抜け出し、スリッパを履きながら、クロエが私に声をかけてくる。
「エルナ様!」
弾かれたように駆け寄ってくる彼女に、私は申し訳なさが込み上げた。
「お加減はいかがですか? もう大丈夫なのですか?」
「ええ、おかげさまで。もう平気よ」
「エルナ様、昨夜大浴場で気を失っていたのですよ!」
「ええ、そうみたいね。迷惑をかけてしまったわ、ごめんなさい」
「本当に、本当にもうよろしいのですか? 無理をなさらず、もっと休んでいてください。メイド長には私から上手く伝えておきますから」
「いいのよ、本当に大丈夫だから。ありがとう」
クロエはまだ信じられないといった様子で、心配そうに私の両手を握りしめた。
私はその温かな手に力を込め、微笑みを返す。
「本当に大丈夫。今の私は、驚くほど元気なの」
「……まあ、それならいいのですけれど……」
なおも私の顔色を念入りに窺うクロエ。
ふと私がまだ裸足であることに気づき、慌ててスリッパのところへ駆け出そうとする。
「いけません、エルナ様! 暖房が入っているとはいえ、床は冷えるのです。風邪を召してしまいます」
今にもスリッパを捧げ持ってこようとするクロエの手を、私は制した。
彼女が不思議そうに振り返るのを横目に、私は自ら歩き出す。
「自分でやるから」
私は自分の足でスリッパの場所まで行き、それを履く。
呆然とするクロエに、私は言葉を重ねる。
「裸足になったくらいで風邪なんて引かないわ。いつまで私を箱入り娘のように扱うつもり?」
「だって……心配なのですもの」
「クロエ。私たちはもう、あの頃の二人ではないのよ」
叱るでもなく、悲しむでもなく、私はただ淡々と、事実だけを告げる。
「私たちの関係は、以前とは全く違うものになったの。共に暮らすことになっても、今は同じ身分で、同じ職場の同僚」
「……」
「呼び方は『様』のままでも構わないけれど、扱いはもう、令嬢に対するものではなく、一人の対等な同僚として接してほしいの」
私の真剣な眼差しに、彼女も何かを察したのだろう。
心配のあまり八の字に曲がっていた彼女の眉が、少しずつ、本来の形に戻っていく。
やがて晴れたクロエの満面に、穏やかな笑みが浮かんだ。
「エルナ様」
クロエは言った。
「たった一晩で、さらに美しくなられましたね」
「え……? いきなり何を」
気恥ずかしさに問い返すと、クロエは以前と変わらぬ様子に戻り、私に抱きついてきた。
「やっぱり私はエルナ様が大好きだ、という意味です!」
私たちはそうやって短く抱き合い、笑い声を交わしてから離れた。
すると、クロエは先ほどの私以上に真剣な表情を浮かべ、言葉を継いだ。
「エルナ様は、まだ子供で仕事もろくにできず、叱られてばかりだった私を、ずっと気にかけてくださいましたよね」
思い出してみる。
私にとってクロエは妹のように愛おしい存在だった。泣きじゃくる彼女をあやし、内緒でお菓子を分け与え、共に遊んだ日々が点々と蘇る。
「身寄りのない私を家族のように扱ってくれた……。今の私が生きてこれたのは、エルナ様がいてくださったおかげです。だから――」
クロエは拳を自分の胸に強く当て、力強く宣言した。
「今度は私が、エルナ様の力になる番です。何があっても私はエルナ様の味方です。ですから遠慮なんてせず、どんどん私を頼ってくださいね、エルナ様」
「……ええ。ありがとう、クロエ」
「まあ、どこまでお役に立てるかは分かりませんけれど!」
最後におどけて見せる彼女の気遣いに、潤みかけた視界がすっと晴れる。
そのおかげか、胸に灯った温かな熱量は、新しい日常へと踏み出すための原動力と変わる。
こうして、ベルンハルト公爵邸での私の本格的な日々が幕を開けた。
***
「これが、エルナ様の仕事着です」
クロエがタンスから取り出したのは、昨日見かけたメイドたちの制服だった。
それは、以前の奉公先で着ていた地味なものとは一線を画す、洗練されたデザインだった。
深い黒の生地に、眩いほど純白のエプロン。襟元や袖口には繊細なレースが施されているが、決して華美に過ぎず、作業の邪魔にならないよう緻密に計算されている。
若者は可憐に、熟練のメイドは凛として見える、気品に満ちた仕立てだった。
私の口からは「可愛い」ではなく、別の言葉が漏れた。
「……格好いいわね」
「でしょう?」
クロエが誇らしげに頷く。
「さあ、着替えましょう。すぐに朝礼が始まりますから」
クロエの手を借りて慣れない制服に身を包み、私たちは足早に部屋を出た。
薄暗い廊下を歩きながら、私は隣のクロエに声をかける。
「それにしても、朝が随分早いのね。まだ四時だわ」
前の職場より二時間も早い。
果たして慣れることができるだろうかという不安がよぎるが、私は即座に首を振ってそれを払拭する。
やるしかないのだ。
向かった先は、メイド棟内にある食堂を兼ねた大広間だった。
分厚い両開きの扉を押し開けると、室内の空気が一瞬で静まり返る。
既に大勢のメイドが集まっており、どうやら私たちが最後の到着となったようだった。制服の着付けに手間取ったせいだろう。
広間は、ステンドグラスから差し込む淡い光が清浄な空気を際立たせていた。
長いテーブルが整然と並ぶその空間には、三十名近いメイドたちが集結している。かつて通っていた貴族学園の一クラス分ほどもあろうかという人数だった。
当然のように、彼女たちの視線が一斉に私へと注がれる。
それは好奇というより、刺すような鋭敏さを孕んだ眼差しだった。
一瞬の静寂の後、また波が引くようにひそひそとした雑談のざわめきが戻る。
「エルナ様」
クロエが私だけに聞こえる小声で促した。
「行きましょう」
私は腹をくくるように頷き、彼女の背を追って空席の前へと立った。
指定の席はないようで、皆まだ着席せず、直立したまま待機していた。
やがて、広間の正面にある重厚な扉が開かれた。
室内の雑談が、今度こそ完全に止む。
姿を現したのは、二人の女性だった。
一人は昨日私を検分したメイド長のロゼッタさん。そしてその前を歩くのは、初めて目にする女性だった。
ロゼッタより幾分か年下に見えるその女性は、美しく整えられた短い銀髪に、質実剛健な美しさを湛えたコバルトブルーのドレスを纏っていた。装飾を最小限に抑えたその装いは、かえって彼女の持つ気品を際立たせている。
一目でただ者ではないと分かる。
「……あの方は?」
私が囁くと、クロエは固唾を呑み、緊張した面持ちで答えた。
「前侯爵夫人であり、現侯爵様の母君であらせられる、グレース・ベルンハルト様です」
グレース様が上段の演台に立つと、広間全体の空気が張り詰めた。
メイドたちの背筋が一段と伸びるのを感じ、私も自ずと姿勢を正す。
そしてグレース様の口から、明瞭で威厳に満ちた声が響き渡る。
「――朝礼を始めるわよ」




