12
ロゼッタさんが去り、ようやくクロエと二人きりになる。
沈黙を埋めようと、気恥ずかしさを紛らわしながら「元気だった?」と声をかけようとした、その時だった。
クロエがベッドから弾かれたように飛び起き、身を投じるような勢いで私にしがみついてきた。
「エルナ様……っ!」
あまりの勢いに、痩せ細った私の体は大きくよろめく。
折れてしまいそうなほど強く抱きしめられ、私は苦笑しながらなんとか踏みとどまる。
「クロエ、久しぶりね。元気そうで何よりだよ」
問いかけるまでもなかった。私を抱きしめる腕の力強さが、彼女の健やかな成長を何よりも雄弁に物語っていたから。
「会いたかったです……ずっと、ずっと……!」
私の耳元で溢れんばかりの涙声を絞り出すクロエ。
その姿は、かつての屋敷にいた頃の、甘えん坊な子供そのものだった。
「相変わらず泣き虫なのね」
私は彼女の背にそっと腕を回し、あやすようにゆっくりと撫でた。
「今、いくつになったの?」
「……じゅう、ご歳、です……」
ひっくひっくとしゃくり上げながら、クロエが答える。
「十五歳か。そろそろ泣き虫は卒業してもいい年でしょ」
「泣かずにいられるはずありません! こんな……こんなに嬉しくて、悲しいのに……」
次第に大きくなる彼女の鳴き声を受け止めながら、私は感慨にふけった。
クロエはルミナス家で十歳の頃から働いていた子だ。
十三歳の時に引っ越しの理由で屋敷を去り、別の奉公先へ向かったはずだが、まさか王都最高峰のベルンハルト家に再就職していたとは。
やはり、世界は広いようで狭い。
次第に私の胸元が彼女の涙で濡れ、じっとりと冷たくなってきた。
このままだと服がずぶぬれになってしまうと思い、私は優しく彼女の肩を押し、懐から距離を置いた。
それでも涙の止まらない彼女のために、私はポケットからハンカチを取り出し、その目元を丁寧に拭ってやる。
クロエは拒むことなく、子供のようにされるがままになる。
「こうしていると……」私はぽつりと呟いた。「昔を思い出すわね」
「エルナさまぁ……」
昔と変わらぬ声色で甘えてくるクロエ。
背も伸び、体つきも少女から女性へと変わりつつあるが、その無邪気な性格だけは当時のままだった。
それがたまらなく微笑ましく、そして、胸を締め付けられるほど懐かしい。
自分がまだ令嬢だった頃の、平穏に満ちた記憶――。
(……いけないわ)
私は強く首を振り、甘美な追憶を振り払う。
そして、視線を鋭く改めてクロエを呼んだ。
「クロエ」
「はい、エルナ様」
「『様』をつけるのは、もうやめて。私はもう、令嬢ではないのだから」
「で、ですが……」
「やめなさい」
断固とした拒絶を、自分自身に言い聞かせるように二度繰り返す。
「私はもう、あなたたちが仕えるべき貴族ではないの。ただの、エルナよ」
しかし、クロエは不服そうな顔をした。
それは、以前の屋敷でも彼女がよく見せていた懐かしい反抗の表情。
彼女は意を決したように、どこか挑戦的な眼差しで私を見据える。
「嫌です」
「クロエ」
「嫌なものは嫌です!」
クロエは言い切った。
「エルナ様の身分がどう変わろうと、世間でどう呼ばれようと、私の中では永遠に、世界で一番美しくて素敵な、私のエルナ様なんです!」
「……クロエ」
複雑な感情を押し殺し、私はかつて主従だった頃のように、あえて厳格な表情を作ってみせる。
「わがままを言わないで。私をこれ以上に困らせるつもり?」
「……もちろん、人前では呼び捨てにします」
クロエは、そこだけは譲歩するように言葉を継いだ。
「それくらいの分別はありますよ。私ももう十五歳なんですから。……でも、せめてこうして二人きりの時だけは、どうか、エルナ様と呼ばせてください」
折れる様子のない彼女に、私は深い溜息をついた。
「困った子ね、本当に……」
昔から一度言い出したら聞かないところがあった。その強情さは相変わらずで。
令嬢だった頃なら身分を盾に屈服させることもできたが、今は同じ平民の身。
彼女の意志を強引に捻じ曲げることなど、今の私には不可能だったし、何より無駄な抵抗だとすぐにわかった。
私が諦めたように溜息をつくと、クロエはまた涙腺を緩ませて私を見つめた。
「あんなに高尚だった私のお嬢様が……」
嘆きのような、独り言。
「こんなに痩せ細ってしまって。もちろん今も本当にお美しいですけれど、でも、あんまりです。可哀想なエルナ様……」
可哀想、という言葉が、まるで遠い異国の誰かに向けられたもののような、他人事に聞こえてくる。
私はただ苦笑するしかなかったが、それでもクロエとの再会が純粋に嬉しくて、口角を上げ続けた。
「……夕食が来ませんね」
ふと我に返ったクロエが、部屋の入り口に目を向けた。
「部屋で待っていてください、エルナ様。私が厨房へ行って、食事を持ってきますから」
「いいえ、いいわ。自分で行くわよ」
「無理を仰らないでください!」
立ち上がろうとした私を、クロエが強引に引き止める。
ロゼッタが座っていた椅子の前まで私を連れていくと、半ば強制的に座らせた。
抗おうとしたが、驚くほど力が弱っていた。
今の私は、十五歳の彼女に抗うことすらできないのだ。
(……食べないと、本当にまずいかも)
脳が危険信号を発していた。
急激な空腹のせいか、視界がわずかに揺れ、めまいが私を襲う。
「じゃあ……お言葉に甘えようかしら」
そう言って彼女に任せようとした瞬間、扉の向こうから控えめなノックの音が響いた。
「あ、ちょうど来たみたいです」
クロエが弾んだ声でドアに歩み寄り、何気なくそれを開けた。
「……っ」
次の瞬間、私とクロエは同時に凍りついた。
「こ……こ……」
クロエが喉を震わせ、かろうじてその名を絞り出す。
「侯爵様……っ!?」
そこには、食事の載った銀盆を自ら手に持った、アルフォンス様が立っていた。




