第3話 進路希望調査が真っ白すぎて詰んだ件
2024年3月23日 午後3時20分 進路指導室
「佐藤さん、進路希望調査の件で話があります」
担任の田中先生に呼ばれ、ユイは重い足取りで進路指導室に向かった。廊下に響く自分の足音が、まるで処刑台への歩みのように聞こえる。上履きのゴム底が床を擦る音が、やけに大きく響いた。廊下の壁に貼られた先輩たちの進路実績のポスターが、まるで自分を責めているように見える。
進路指導室は窓が大きく、午後の陽射しが斜めに差し込んでいた。しかし、その明るい光も、ユイの心の暗さを照らすことはできない。埃が舞う光の筋が、まるで自分と世界を隔てる檻のように見えた。部屋の隅に置かれた観葉植物だけが、生き生きとしている。
「座ってください」
田中先生が椅子を勧める。40代半ばの温厚そうな男性教師だが、今日の表情は少し困惑している。眼鏡の奥の目が、心配そうにユイを見つめていた。パイプ椅子が軋む音が、静かな部屋に響く。
机の上には、真っ白な進路希望調査用紙が置かれていた。「将来の夢」「希望進路」「興味のある分野」...どの項目も、ユイにとっては答えようのない質問ばかり。紙の白さが、自分の心の空虚さを映し出しているようだった。
「えーっと...」
田中先生が用紙を手に取り、困ったような表情を浮かべた。紙を持つ手が、少し震えているように見える。
「佐藤さん、この調査用紙ですが...」
「すみません」
ユイが小さく頭を下げる。声が震えているのが自分でも分かった。喉がカラカラに乾いて、唾を飲み込むのも苦しい。
「まだ決められなくて...」
「いえいえ、責めているわけではありません」
田中先生が慌てて手を振る。その動作が、かえってユイを惨めな気持ちにさせた。
「ただ、何も書かれていないというのは...少し心配でして」
確かに、用紙は完全に空白だった。他のクラスメイトたちは、「看護師になりたい」「デザイナーを目指したい」「大学で経済学を学びたい」など、それぞれに夢や目標を書き込んでいる。廊下で見かけた同級生の顔が、みんな自信に満ちているように思えた。
でもユイには、何もない。
(私って、何のために生きてるんだろう...)
胸の奥に、重い石が沈んでいくような感覚が広がった。友達もいない、特技もない、夢もない。そんな自分に、どんな未来があるというのだろう。窓の外を飛ぶ鳥が、自由で羨ましく見えた。
「何か、興味のあることはありませんか?」
田中先生が優しく尋ねる。声のトーンを意識的に柔らかくしているのが分かって、それがまた辛かった。
「趣味でも、好きなことでも構いません」
ユイは考えた。唯一続けているのは、美久のブログを読むこと。でも、それを趣味と呼んでいいのだろうか。「ブログを読むのが趣味です」なんて、恥ずかしくて言えない。
「あの...ブログを読むのが好きです」
小さな声で答えた。蚊の鳴くような声だった。
「ブログ?どんな内容の?」
「旅行記とか...動物の話とか...」
嘘ではない。でも、本当のことでもない。美久さんのブログが好きなのは、内容じゃなくて、美久さんという人そのものが好きだから。
「それなら、旅行業界や動物関係の仕事はどうでしょう?」
田中先生が提案してくれるが、ユイにはピンとこない。美久のブログが好きなのは、美久という人が好きだからであって、旅行や動物そのものに興味があるわけではない。でも、それを説明するのは難しい。複雑すぎて、言葉にできない。
「考えてみます」
ユイはそう答えるしかなかった。他に言いようがなかった。
「そうですね。まだ1年生ですし、時間はあります」
田中先生が微笑む。作り笑いではないけれど、困惑が滲んでいるのが分かった。
「でも、あまり一人で悩まず、誰かに相談するのも大切ですよ」
(誰かに相談...でも、相談できる人がいない)
ユイは頷きながら、心の中でそう思った。相談できる相手がいたら、とっくに相談している。
進路指導室を出ると、廊下の窓から桜のつぼみが見えた。もうすぐ春がくる。新しい季節がくる。桜は毎年同じように咲いて、同じように散っていく。でも、自分の人生に春はくるのだろうか。
(美久さんの見た世界を、私も見てみたい)
ふと、そんな思いが心に浮かんだ。美久さんと同じ体験をしたら、私も変われるかもしれない。美久さんが訪れた場所に行けば、何か見つかるかもしれない。
それは、まだ小さな願いでしかなかった。しかし、その小さな願いが、やがてユイの運命を大きく変えることになる。そのことを、まだユイは知らない。




