第1話 物語を紡ぐ二人の絆
2029年5月15日 夕暮れ 祢古町を見下ろす丘
「あの春の日から、もう5年が経つのね」
相沢美久は祢古町を見下ろす丘の上で、膝の上の黒猫を優しく撫でながら呟いた。28歳になった彼女の表情には、あの頃にはなかった深い安らぎが宿っている。
眼下に広がるのは、夕陽に染まる理想の町並み。石畳の道を人間と猫人間が肩を並べて歩き、カフェのテラスでは種族を問わず笑い声が響いている。空気中には焼きたてのパンの香りと、どこか懐かしい花の匂いが混じり合っていた。
「そうですね」
膝の上の黒猫——佐藤ユイが、今では自然になった人語で答える。金色の瞳には、5年間の経験が深い知恵として宿っていた。
「私が初めて美久さんに会った時、まさかこんな未来が待っているなんて思いもしませんでした」
美久の手が止まった。思い出すのは、あの雨の日の猫カフェ。緊張で震え声になりながら「相沢美久さんですか?」と尋ねた16歳の少女の面影。
「あの時のユイちゃん、とても孤独そうな目をしてたのよね」
「そして美久さんも、何かを隠しているような、寂しそうな笑顔でした」
二人は微笑み合った。今では、お互いの全てを知り尽くした、世界で一番の理解者同士。
町の向こうから、夕食の支度を告げる鐘の音が響いてくる。メロディーは古代猫王国の伝統的な旋律と現代の音階が見事に調和したもの——まさに、この町が歩んできた道のりを象徴するような音色だった。
「この物語を、いつか本にしてもいいかしら?」
美久が突然言った。風が髪を揺らし、夕陽を受けて金色に輝く。
「本に?」
ユイが首をかしげる。その仕草は、猫になった今でも変わらない癖だった。
「だって、とても信じてもらえないような話でしょう?」
「猫に転生した高校生と、1000年前の記憶を持つ女性が、古代王国の復活を成功させて、人間と猫人間の共生社会を作り上げたなんて」
確かに、冷静に考えれば荒唐無稽な話だった。でも、眼下に広がる現実が、全てが真実だったことを証明している。
「でも、誰が信じるでしょうね」
ユイが苦笑いを浮かべた。
「『ファンタジー小説』として読まれるのが関の山でしょう」
「それでもいいの」
美久の目が優しく光った。
「大切なのは、この物語が誰かの心に届くこと」
「孤独な人に『一人じゃないよ』って伝えること」
「諦めかけた人に『奇跡は起きるよ』って教えること」
ユイの胸が温かくなった。それは、まさに美久のブログが、かつての自分にしてくれたことだった。
「それに」
美久が悪戯っぽく笑った。
「読んだ人の中に、もしかしたら猫と話せるようになる人がいるかもしれないじゃない?」
「それは...ないでしょう」
「でも、信じる気持ちがあれば、きっと何かの奇跡は起きるのよ」
美久がユイを抱き上げ、立ち上がった。空は茜色から紫に変わり始め、最初の星がきらめいている。
「それじゃあ、始めましょうか」
「何を?」
「私たちの物語」
美久が町の方向を見つめた。そこには、今日も新しい出会いと、小さな奇跡が生まれている。
「とても長い話になるわよ」
「覚悟はできてます」
ユイが答えた。
「それでは...」
美久が深呼吸をする。夜風が二人を包み込み、どこからか猫たちの鳴き声が聞こえてきた。まるで、これから始まる物語を祝福するように。
「2024年3月25日、桜のつぼみが膨らみ始めた、あの春の日のことから始めましょう」
「佐藤ユイという名前の、とても孤独な女子高生がいました...」
美久の声が、静かな夜に響き始めた。