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泥だらけのラットキング  作者: ヨンソン
1章 ドブネズミ
2/5

【1】

 ホルム地区。この国にいくつもあるスラムの中で最南端に位置し、最も環境が悪い場所だ。

 その雑居街の裏通りで、少年が壁にもたれ、笑っていた。

「ったく……もうちょっと、殴らせてくれたってよかったんだけどなぁ」

スラムの裏路地。すでに陽は沈み、視界の大半は灰色の霧と廃棄物に覆われていた。

壁の染み、剥がれたポスター、腐った木材に縋るように暮らす人々。足音すら怯えて響かせるこの場所で、少年は呑気に立っていた。

壊れた排水管のひび割れから湧き出た水が、わずかに靴先を濡らしていたが、彼はそれすらも意に介さなかった。

 服にこびりついた血は、昨日売人の顔を殴ったときのものだった。ヤツが『ラフル』──最も流通している禁制薬物を、幼馴染のエリナに売り渡したからだ。

彼女はそれを打ち込むと泣きながら笑い転げ、そのまま人攫いに連れて行かれたそうだ。まあ奴隷市行きだ。

 これは事故か?不幸か?どれも違う。

 助けようとした者はいなかったらしい。スラムの人間にとって、それは日常であり、習慣であり、もはや運命ですらあった。

喧嘩ばかりしていても彼女だけは笑っていてくれた。たった一人の幼馴染。

 だから、少年は怒っていた。

 世界に対して。国家に対して。人間に対して。そして、何もできなかった自分に対して。

少年は、独りだった。

誰も話しかけなかった。誰も、少年を気にしなかった。

 だがその胸の奥底では、黒い何かが、常に燃え盛っていた。

怒りだ。

「……」

 この腐った国。麻薬で精神を壊された幼馴染。それを笑って見送った大人たち。沈黙し、見て見ぬふりを決め込んだ世界。

 ――全部、赦さない。

言葉にせずとも、意思はナイフのように尖っていた。この夜、彼は始めると決めていた。

 その時。少年の背後に、それは立っていた。


「私と契約しない?」

 その声は、風に乗って聞こえた。風そのものが、彼女の声だったかのように滑らかで、それでいて異質だった。

少年は短く吐息を漏らす。

「……宗教勧誘なら必要ないんだ。悪いが、他所を当たってくれ」

そう言いながらも、彼はゆっくりと視線を動かした。そこにいたのは、少女だった。

否、少女の姿をした何かだった。

 汚れた月明かりの中、少女は裸足で立っていrる。

漆黒の髪に、夜に溶けるような漆黒のドレスの裾が、風もないのに揺れている。年齢は同い年かもしくは年下のようにさえ見える。

だが、その深紅の瞳だけは、どこまでも深く、視線が合うだけで覗き込まれているかのような錯覚さえ覚えた。

「あぁ。娼婦遊びの趣味はないんだ。金もないしな」

 少年は皮肉を込めてそう言い放った。だが、目だけは笑っていなかった。

少女は微笑んだ。いや――薄気味悪い笑みだった。

「あなたの行動が、この国の均衡を崩す。だけど、私にはあなたの不安が見える。自身の無力を理解している」

その言葉に、少年の眉がぴくりと動いた。その時にはすでに右拳を突き出していた。

 だがその一撃が当たることはなかった。

そこに少女の姿はなかった。幻影か、そう思った瞬間耳元で(ささや)く声が聞こえた。

「怒りに身を焦がしても、拳は誰にも届かない。復讐を誓っても、相手は国。組織。制度。巨大で、形のない壁」

 ――彼女は真後ろにいた。

「あなたが持つ怒りは本物。……でも、それを燃やすだけで終わるのかしら?」

その言い方があまりに自然すぎて、ぞくりとする。

だが少年は笑った。

「なるほど、イカレ女か。お前はまず名前を名乗れよ」

「誰かに名前を尋ねるときは、自分から先に名乗るのが礼儀でしょう?」

「俺はウィル」

「私はユピテルっていうの──私と契約しない?」

「……なら、言ってみろ。契約ってやつの条件を」

 ユピテルは、微かに首を傾げて、答えた。

「あなたの魂を寄越して。代わりに、力を与える。意思を操る術。影の力」

 ウィルは一歩、ユピテルに近づいた。

「魂……か。やたらとファンタジーな響きだな。前払いか?」

「前払いよ」

そして、彼女は続ける。

「あなたの、純粋な怒り。この世全てへの怒り。復讐心――純粋なものは美しい」

ウィルは、長く息を吐いた。

「……他に差し出せるものもないしな」

 ユピテルは、静かに手を伸ばした。

「では、契約を始めましょう」

 その声は、抑揚はなかったが刃よりも鋭く聞こえた。

 ウィルは、わずかに顎を引いた。逃げない。怯まない。このオカルトなことに賭けてみようと思った。

ユピテルが手を差し伸べる。だがその手は、彼の胸元へ――その奥へと、まっすぐに伸びてきた。

「ッ……!」

突き刺さった感触。いや、刺したのではない。すり抜けた。彼女の手は物理法則を無視して、肉を裂くことなく、骨を貫き、心臓のさらに奥――魂へと触れた。

冷たいのに焼けるような感覚。灼熱と氷水が同時に流れ込むかのような衝撃に、ウィルの身体が小さく跳ねた。

「見つけたわ」

彼女の手の中に引き出されたのは、燃え盛る魂だった。紅蓮のように渦巻き、しかし中心は闇に染まっていた。

「こんな汚い炎が俺の魂か?」

「怒りと復讐、そして孤独。あなたの魂は、理想でも正義でもなく、ただ否定でできている……最高よ」

ユピテルはその魂に口づけをした。その瞬間、彼女の指先に魔術式が浮かび上がった。

「――此処に刻まれよ。我が影の宿りし器となれ」

(ささや)きに近いその言葉と共に、ウィルの左肩に灼熱が走った。

「ぐ……あ、ッ!」

 焼印――悪魔の刻印が刻まれていく。肉が焼け、骨が痺れ、神経が雷のように弾けた。

だがウィルは叫ばない。呻きもしない。噛み締めた唇から血が滲むだけだった。

 黒い刻印は螺旋を描き、まるで生きているかのように彼の皮膚に食い込んでいく。その形は、翼を広げた悪魔の紋章。十字でも星でもない、忌まわしき意思の象徴。

 やがて光が消え、刻印は深黒の紋としてウィルの左肩に残った。

 ユピテルは一歩引き、静かに言った。

「契約は完了。私は、あなたの影に宿る」

 次の瞬間、ユピテルの身体が黒い霧となり、地面に伸びるウィルの影に吸い込まれていく。

『……これからは、いつでも貴方の耳元で(ささや)けるわ。怒りを解き放つとき、ためらいなく私を使いなさい』

 声が聞こえたというより、脳に直接流れ込んできたという方が正しい表現かもしれない。そして影が揺れ、静寂が戻った。

ウィルは左肩を押さえたまま、ゆっくりと目を閉じた。

「これでいい。ここが始まりだ」

 そして、ゆっくりと口角を上げた。

「……面白くなってきたじゃねえか」

 スラムを澱んだ風が吹き抜ける。それは彼の背中を押す祝福のようにも思えた。

 このとき、ウィル・アテナは十六歳だった。


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