罪を連れて
窓に雨が打ちつける音が絶え間なく続く。
さっき淹れたコーヒーからは、まだかすかに蒸気が立ち上っていた。
机の上には、薄い靄のような静けさがたまっている。
忘却屋はインク瓶の蓋をゆっくりと開け、古びたペン先を磨く。
細やかな作業のひとつひとつが、時間を作り上げているようだった。
そして、夜の雨に耳を澄ませる。
雨音の向こうで、誰かが過去を引きずりながらこの場所へと歩いてくる気配がする。
ここは「記憶を忘れるための場所」だ。
名乗る者も、泣く者も、皆ここで自分の過去を置いていく。
カランカラン。扉の鈴が鳴る。
「……記憶を抜いてほしい」
濡れたコートの男が、低い声で言った。
目の奥に泥のような疲労が溜まっていて、声には迷いが色濃く滲んでいた。
忘却屋は何も問わない。ただ頷き、機械を起動する。
蒸気の圧が上がり、管がかすかに震える音が静寂を裂く。
ペン先からは濃いインクが紙の上へ流れ、記憶の断片を記録していく。
「夜」「手」「血」「後悔」──
文字はにじみ、紙の繊維へと深く染みていった。
それは、おそらく誰かの命に触れた記憶。誰にも言えなかった罪の記録。
最後ににじんだ“名”を確認すると、忘却屋は無言のまま紙をやぶった。
明日には焼却だ。干渉しないこと。それがこの店の暗黙の掟だった。
男が屋台を後にし、雨音だけが残る。
だがその静けさの中、何かが脳裏にひっかかる。
忘却屋はふと立ち上がる。まるで引き寄せられるように棚の奥へ手を伸ばしていた。
指が触れたのは、黄ばんだ紙と、かすかに滲んだインクの跡。
取り出したその記録の末尾には、さっきの依頼人と同じ“名”が、確かに記されていた。
その瞬間、胸の奥底で重く沈んでいた何かが、ゆっくりと浮かび上がる。
無邪気に笑っていた。
あの狭い裏路地で、片手に古びた歯車を持ち、まっすぐに笑っていた少年の顔。
小さな声、小さな手。
そのすべてが、今も胸を締めつけるほど鮮やかだった。
けれど自分は弱かった。
あの日、その手を振り払ったのは、自分だった。
逃げてきた過去。
消したつもりの罪。
だがその記録は、ここに残っていた。
記録より先に、自分の良心が、忘れることを許していなかった。
忘却屋はインク瓶の蓋を閉め、破いたばかりの紙片を拾い集める。
それを、丁寧に、指先の震えを抑えながら、つなぎ合わせていく。
どれだけ時間が経ったのかは、わからない。
けれど、紙はおおよそ元の形を取り戻した。
そして、外套を羽織る。
足元には、男が残した水の跡が続いている。
それを辿るようにして、彼は家を出た。
外には夜明けの気配がしていた。