第2章 第2話 ☆南野…動く!☆彡
原案・テーマ:Arisa
storyteller:Hikari
きらりが戻ってきたのは、グラスの酒が半分ほど減った頃だった。
いつもなら、注文を聞かずにいったときはバタバタと戻ってきて「注文は?」とあっけらかんと訊いてくるのに、足取りも少し重く、顔色も心なしか悪く感じられる。
妙に慎重な足運びだけど、笑顔だけはきっちり整えてきた。
「お待たせしました、お飲み物です」
グラスを置く手が、ほんの少しだけ震えている。
極は気づかぬふりで礼を返し、グラスを受け取った。
きらりは少し躊躇いながら隣に立つ。
店の込み具合を見て、数秒の会話は許されると判断したのだろう。
「ねぇ…ちょっと、相談っていうか…お願いがあって」
「……ほう」
彼女がこんな入り方をしてくるのは珍しい。というよりは初めてだった。
何か込み入った話かと、極は冗談めかさずに相槌を打った。
きらりは一呼吸置いて、ぽつりと言った。
「病院にいってくれない?」
極の手が止まる。
「…妊娠?」
「それセクハラ!」
…元気はあるようだ。
「マジで?」
「えっ?」
「深刻な話、ただの顔見知りのじいさんに頼むこと、で病院…結果はひとつでは」
「……マジで、セクハラだから」
「あれ…」
極みは苦笑しながらこめかみを搔いた。
「もぅ」
きらりは頬をぷーっと膨らませ、極の肩を叩いた。
「そうじゃなくて、健診受けてくれないかな?」
「……健診?」
「うん。務めている病院なんだけどさ…健診の呼びかけが、ね」
「ノルマでもあるの?」
「まさか…そういうのはいわれていないけど…どうしても比べられるからさ」
苦笑するように唇を引いて、けれど目は笑っていなかった。
数日前。
「いいですか? あくまで“健康診断”の名目です。対象者に、出資の話を直接する必要はありません」
白衣の下に紺のスーツを着込んだ事務長が、カツカツとホワイトボードを指しながら話す。
その横で、看護部長は腕を組んだまま頷いていた。
(…また、始まったか)
きらりは心の中でため息をついた。
数ヶ月に一度行われる高齢者向け特別健診の説明会。
だが実際の目的は違う。表向きの健診の裏で、本当に求められているのは――出資者の発掘。
「リストは作成しないように。新規健診利用と出資者はそこにファイルを置いておきます」
一人ひとりの看護師の顔を除くようにしながら事務長は顔を除きながら言う。
「独居、持ち家あり、子なし。できれば後期高齢者未満で…かつあなたたちの裁量の中で」
きらりはメモ帳に注意点を書こうとして「はい、そこメモは取らない!」と睨みつけられた。
健診というのは名ばかりにきこえる。
特定健診であるがゆえに掘り起こしは大変だ。
法定健診のように企業など働く人に義務付けられているものは、会社に申し入れをすることで勝ち取ることはできるかもしれない。
ただ、こちらはそうはいかない。
対象者は、家で独り、テレビをつけたままうたた寝しているような、そんな人たちだ。
連絡すらままならず、たとえ来てくれても――保険点数で病院の儲けになるわけではない。
ぶっちゃけてしまえば、健診そのもので利益が出ることは、まずない。
それでも、やる。
それでも、やらせる。
「彼らは、支援が必要な人たちですから」
事務長は時々、そんな美しい言葉を口にする。だが、誰もが知っている。
『支援』とは、そう見せかけて懐に入るための手段にすぎない。
その後ろに、目に見えない帳簿の数値と、顔の見えないハゲタカがいることを。
「…でも、必要なのは支援が必要じゃない人だよね」
ふと、きらりの隣で誰かがつぶやいた。
先輩の声だったかもしれない。あるいは、自分の心の声かもしれない。
「ちょっと…」
「元気なつもりの人たちほど、病気を見落とすからね」
「…なるほど」
「でも、それ以外を連れて来いってことでしょ」
「……それいったら睨まれるよ」
ほんとうに必要な人は、いつも声を上げられない。
その人たちに手を差し伸べることが、たとえ上の意図がどうであれ――
自分たち看護師にとって、病気になる前にできる唯一の意味がある仕事だと、きらりは考えていた。
「南野さんって毎年検診受けているからあれなんだけどさ」
「…何? 思っていること言ってみな」
「私さ、この間倒れちゃって」
きらりは、困ったように微笑みながらぽつりと言った。
厨房で急に意識がなくなったことがある。
そのあとすぐに病院んい運ばれて検査も受け、問題はないといわれた。
どこかに問題があるとしたら、問題がないことに問題があるらしい。
「前に倒れたのもあるし…ひとりだと、変なこと考えそうで」
「…それと、ワシの健診との因果関係は?」
「何もない」
「ん?」
「ただ私が確認できるところで健診受けてほしいって」
「お父さんにでもいいそうな言い回しだな」
極はそう言って苦笑した。
「ダメかな? あ…返事はすぐじゃなくていいからね」
きらりは言い残すようにして、厨房へとかけていった。
「すみません」
と板長が声をかけてくれる。
「どうして?」
「?」
「謝る理由…」
「…ホント鋭いですね」
「嘘が下手なんだろうな、きらり」
極は苦笑を板長に向けた。
健診を受けていることを知っているのなら、気になれば見せてほしいといえばいい。
いくら務めている病院であってもそれを覗き見ることはできない。
そのことははっきりとしている。そのことは理解している。
…それがばれることを判って…か。
「この間倒れた以降、身に見えない何かが見えるらしいんです」
「……ああ、見えているんだ」
「信じるんですか?」
「信じてないの?」
「信じちゃいますね。嘘のない子だから」
極は、言葉を探して数秒黙った。
黒い球体が彼女の背後にちらついたのを思い出す。
あれが本格的に動き出す前に、見届けておくべきか――
いや、彼女の「頼み」を断る理由はもうなかった。
「予約はいつ入るかな?」
「えっ?」
「きらりに言っておいてやって。そのあとは飯でも付き合えって」
「それもセクハラになるのでは?」
「……なんでもハラスメントかよ」
極は苦笑いしながら、お供えの酒を一気飲みした。
厨房できらりは、片手でガッツポーズをしていた。
極ならやっていることを見極めてくれるような気がした。
極だし…。
後の問題は、ときどき、店の外の電柱に座っている子供とか…うろうろと徘徊する人たちくらいだ。
「ごちそうさん」
「南野さん…考えておいてね」
「ああ…行くようになったら『極さん』って呼んでくれよ」
「えっ?」
「恋人ぽくっていいだろう」
「親子…最悪は爺孫?」
「それは傷つくわ…25のつもりなのに」
夜風が変わった。
そんな予感が、ふと背中に流れ込んできた。
ふん、と鼻で笑ってから、彼女はくるりと踵を返す。
毎年、この時期が来ると、極は決まって人間ドッグに入る。
高級ホテル併設の2泊3日プラン。
年齢とともに、身体のことが妙に気になりだしたということにしている。
とはいえ、ただの健康志向では済まないところがこの男の性である。
(予約…いつだったかな)
約一年前。
「それにしても、来週からドッグなんでしょ? またホテル暮らし、いいなあ」
そう言ってお盆を置いたきらりが、肩をすくめる。
「たったの二泊三日。仕事しなくていいのはありがたいけど、バリウムは何年経っても慣れないねぇ」
「ふふっ。南野さん、いつもホテルのロビーでカクテルみたいに飲んでるって噂、ほんとですか?」
「それ、誰に聞いたの? ……って、さすがにロビーではなく医療フロアの受付ね」
「そこで働いている人、うちの病院で荷も来ているから」
きらりは楽しそうに笑った。
医療従事者というのは個人情報をどういう風に考えているのだろう。
面白おかしく遊ばれているような気になる。
「あ、ちなみに偶然だよ」
「偶然?」
「健康なのに、毎年、ホテル宿泊プラン付きで健診に来る人がいるって。名前だけがかっこいいって」
「…名前だけ?」
「うん。『極』って珍しいよね」
「それで」
「すっごくまずそうにげっぷしそうになるのを我慢しているって」
「うまくないな」
「来年はうちの病院で半日コースで受けなよ」
「…それ病気判るのか?」
「もちろん!」
「でもきらり、ひとつ条件がある」
「なに?」
「俺の健康診断、きみが付き添ってくれるってことで」
「――セクハラ、だからね 次からは追加料金徴収するから」
「この店いつからスタッフが指名制になったんだよ!」
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