第三話
「俺さ、人間のくせに、人間が好きじゃないんだよね」
ユウキは自虐的に笑ってそう言った。
「人の為に生きると良い、と世間では言われているけど、それが選択できなかったんだ」
空っぽだけど、それだけは曲げられない事実として横たわっていたという。
人の為に生きる事も出来ない。
自分が何をしたいのかも分からない。
だけど、人間社会で生きなければならない。
この社会で、これまで通り装って生きていくことは、今の自分には厳しい。しかし、この状態で生きていく未来は見えない。
手詰まりだと感じ、もういっそ、自分で寿命を決めて死んでしまおうと思ったのだという。
「もう、色んなものから解放されたくて、必死で働いて、一年間生活できるだけの貯金をしたんだ」
そう言うユウキは、少しすっきりとした顔をしている。
「それで、やり残したことをやって、来年死のうと思ったんだ」
すっかり暖かくなった部屋の中で、いつまでもダウンを着ていたことに気づき、今更だがダウンを脱いで、座っている横に無造作に置いた。そして、少し座り直した。
「彼女とかは、いないんだっけ?」
「いると思うか?」
「だよな……」
「結局、そういう相手がいたところで、また顔色を窺って疲れるのが目に見えているし、こんな気持ちを抱えている状態で誰かと付き合うとか無理だわ」
「まー、そうか」
「うん。そこら辺のことは、もう考えられないよ。そもそも前の会社も給料安かったし、ほんと自分の事で精一杯でさ」
「それ、分かるわー」
少し緊張していたユウキは、その会話でリラックスしたのか、再びペットボトルの水を飲んだ。
「まあ、そんなわけで、分かってもらえたか?」
「そうだな。ユウキがなんで死のうと思ったのかは分かった」
「止めるか?」
「んー……。止めたいけど、止めても無理そうだな、と思った」
オレは、ユウキの考えを頭から否定することはできなかった。
「だから、止めるのはやめた」
そう言って、ペットボトルを持ち上げると、結露した水滴がローテーブルについていた。雫を手で拭ってから一口飲んで、オレはユウキを見た。
ユウキはオレが止めない事に安心したのか、少し微笑んでいるように見えた。
「今のユウキはさ、自分の命を、自分で握ってるんだよな」
その言葉に、ユウキは少し驚いたような顔をした。
そして、コクリと頷く。
「確かに。俺は今、自分の命を自分で握ってるな」
「それって、なんか少しだけど、自分のものを取り戻した感じしないか?」
「そう言われると、そうだな……。誰かに盗られてたわけじゃないけど、今はちゃんと手元にある気がする」
「だよな」
オレはうんうんと頷いて、頭の後ろで手を組んだ。
「これから、まずはパソコンを作るんだろ?」
「ああ」
「他にも何かやろうと思ってることあんの?」
「とりあえず吉川英治の三国志を読む」
「渋いなー」
「ちゃんと読んだことなかったからさ、前から読んでみたかったんだよ」
「ユウキらしいな」
笑いながらそう言うと、ユウキもつられて笑った。
それを見て、オレは話題を変えた。
「オレさ、よく自分探しの旅とか、本当の自分を見つけるとか、そういう言葉を聞くたびに、何言ってんだろうって思ってたんだよな」
「なんだよ、唐突に」
オレの言葉に、ユウキは突っ込む。
「あれって、自分があると思っている奴らの言葉だろ?」
「まあ、そうだな」
「でも、『本当の自分』って本当にあるのかなって思うんだよ」
「?」
「人間は所詮、生まれてきた国とか、地域とか、環境とかで、全然違う常識を植え付けられるわけだろ?」
「うん」
「それって、確固たる自分なんてものは無い、と言っているのと同じだと思わないか?」
「……」
「与えられたもので変化するような、そんなあやふやなものを、絶対的なものだと思い込む事の方が怖い、とオレは思うんだ」
オレは組んでいた手をほどき、ペットボトルを手に取った。それを飲むわけでも無く、手の中で転がした。
「自分の意思で生きている、と言う人は多いと思うけどさ。その『自分の意思』だと思っている内の、一体何パーセントがオリジナルの考えなんだろうな?」
「……」
「だからさ、あれだよ。ユウキもさ、自分の事、空っぽって言ってたけど、それは、そんなに気にすることじゃないんだよ」
「そう……かな」
「むしろ、自分の内面と真摯に向き合わないと、そんな事すら気がつかないだろ」
「……」
ユウキは少し考え込むように俯いた。
「これから、時間がなくてやれなかったことをやるわけだろ?」
オレの言葉にユウキはすぐに顔をあげる。
「うん」
「それなら、どんな些細な事でも、時間がかかる事でも、とことんやり尽くすといいと思うんだ」
「?」
「だからさ、今年一年、心のままにひとりで過ごすだろ? そこで、うっかり来年も引き続きやりたいことが出てきたらさ、それは来年やってもいいと思うんだよ」
「来年、死ぬ予定なのに?」
「そんなにきっちり決めたところで、誰にも迷惑かからないって。それよりやりたいことを、やらずに死ぬほうがもったいないだろ? 今のこの環境で『ユウキ』として生きているのは、この時代だけなんだからさ」
「……」
「例えば、年末に読みたい本が出てきてさ、でも意外と人気作品で、図書館で予約を入れたら何百人待ちで、このペースだとオレの番は来年かー、じゃあ来年まで待つか。仕方がない、死ぬのも延期だ、とかでもいいんだよ」
「死ぬのをやめる理由、軽っ」
「いいんだよ。それくらい緩くてさ」
外ではパトカーのサイレンが鳴っている。
この寒い中、バイクで逃げている人がいるのか、騒々しいエンジン音が遠くに聞こえる。
「分かったよ」
オレの言葉に少し呆れてはいたが、ユウキは笑って同意してくれた。
「それでさ、もし来年も取り敢えず生きることにしたらさ、「あけおめ」でいいから連絡くれよ」
そう言うと、「あけおめって何だよ」とユウキは声を出して笑った。そして
「約束はできないけど、分かったよ」
と目じりに涙をためて答えた。
それからオレはユウキがこれから作ろうとしているパソコンの話を聞いたり、最近読んだ面白かった本の話をしたりして、アパートを後にした。
*
あれから一年が経とうとしている。
ユウキは宣言通りに連絡を断ったようで、一度も連絡はなかった。
共通の友人から、「返事来ないんだよ。何か知ってる?」と安否を聞かれることもあったが、「忙しいんじゃない」と適当に答えておいた。
そして、オレからも敢えて連絡しなかった。
あの日の事を思い出す。
ポツリポツリと俯いて話すユウキの姿が目に浮かぶ。
あの時、ユウキが話してくれた死にたい理由。
それがオレには手に取るように分かった。
何故なら、オレ自身が同じ理由で自殺しようと準備していた事があったからだ。
空っぽな自分に、人間として生きる事の辛さ。
何が正しいのか分からない不安。
薄暗い部屋の中、ひとりで引きこもって、長い時間ずっと考えていた。
オレは何者になりたいのだろうと。
そんな時に、たまたま見つけた記事が、オレの心を揺さぶった。
それは仲間がみんな死んでしまい、たった一人になってしまった先住民族の話だった。誰もその言語を知らず、誰もその文化を知らない。そんな状況に陥る人間が、狭くなったこの時代の世界にいるのかと驚いた。
そして、もし自分が同じ状況に立たされた場合、どんな気持ちで生きていくのだろうと。
その時に、ふと思ったのだ。
いつの間にか当たり前のように自分の中にある常識も、アイデンティティも全て、生まれてから与えられたものではないかと。
自分自身で獲得したものなんて、殆ど無い。
それはこの世界で生きる、すべての人間がそうなのでは無いかと思ったのだ。
与えられる情報のほとんどは、社会を円滑にするための潤滑油であり、個性を発揮するようなものでは無い。
それなのに、個性がどうとか、自分探しがどうとか、そんな事を嘯く人間たちに疑問を抱くようになった。それと同時に、空っぽな自分が、そのままでも良いことに気がついたのだ。
それから先は、気楽だった。
人間のくせに、人間が好きではない。それでも、今から別の動物になることはできない。だから、人間社会で生きるために、最低限ルールは守る。
だけど、ありもしない自分を探すために、様々なものを求める必要は無くなったし、これが常識だと決めつける事も無くなった。他人と比較することも無くなると、焦ることも無くなった。
そして、ただ流れるように、今日まで生きてきたのだ。
あの時、ユウキにもあの記事の話をしようかとも思ったが、あの状態の時に、他人から押し付けられる情報ほど鬱陶しいものは無い。
だから、何とかこの気持ちが伝わるように、自分の言葉で話してみたのだ。
ユウキはあれだけ自分と向き合って、考え続けている。誰かの意見を鵜呑みにするような奴じゃないと知っている。
だからこそ、きっかけさえあれば、また考えて、ユウキなりの答えを導き出すのではないかと期待しているのだ。
死を選択するのは、選択するだけの理由がある。
それでも、やはり生きてほしいと願ってしまう。
オレは、オレと似たような人間がいる事に、勇気が湧いたのだ。
この先、再び挫けてしまうこともあるかもしれない。それでも、同じように悩み、考えながらも、必死で生きている仲間がどこかにいるかと思うと、それだけで、また頑張れる。
だから、もしユウキが死ぬことをやめたのなら、その事を伝えたい。
ユウキが生きていてくれるだけで、オレは心強いと。
──果たして、オレの言葉はきっかけになれたのだろうか……。
テレビも動画配信サイトも、どこもかしこも新年のカウントダウンを始める。
「さん、にー、いち、新年、あけまして、おめでとーございます!」
親が見ているテレビから、そんな賑やかな声が聞こえてきた。
オレは手元のスマホを念じるようにじっと見つめる。
その思いに応えるように、スマホが震え、画面に新着メッセージのポップアップが表示された。
急いでそれをタップすると、そこには「あけおめ」とユウキからのメッセージが表示されていた。
オレは一人、こぶしを握り締めた。
了