家の灯
春先のおだやかな空気が朝から清々しく感じられる。朝から晴れわたり、今日もいい天気だなあと予感させる。
ボクは入江一翔。自宅から徒歩数十分の学校へ通う小学生だ。今年の4月から4年生になり、ぞくに言う小学校高学年の仲間入りをしたごくごくふつうの子供だ。どこのクラブ活動にも所属していないいわゆる帰宅部だ。運動は中の下、勉強は上の上。背たけはクラスでは中くらいだ。
自宅から小学校に通う通学路にはいくつもの家が連なり、住宅街となっている。ここはある県の地方都市。東京からは少し間があり、人口も減少気味で過そ化がゆるかに進んでいる。だから住宅街と言っても、少し歩けば畑や林が広がるプチ田舎だ。
小学生の視線は低い。通り過ぎる車すら見上げないといけない。とにかく視野がせまいのだ。
(子供が車の事故にあいやすいのも判る気がする)
視線が低いと死角も多くなる訳で、大人が気づくような障害物も見えてなかったりする。後は知能の問題か。子供は危険察知能力が低い。これは経験によるものが多いから、体験していない小学生は仕方ないのかもしれない。
その日、ボクは母親の買い物に付き合い、おかしを強請ったりしていた。小学生のお小づかいは心もとない。どこかで元を取らねばいけないのだ。
「近くのスーパーがつぶれちゃって、買い物するのも大変になったわねえ」
母親がグチをこぼす。
「そうよねえ。ウチも最近はネットショップばかりだわ」
「そのうち、車を持ってないと買い物に行けなくなるのかしら」
ボクの母親がとなりの同年代の専業主婦と話をしている。たいていは他愛のない話だ。
「あら、近くの伊野さんも言ってたわね。ほらあそこ、めん許は返納してしまったから」
「ウチも同じようなものね」
車の運転に自信のない母親がため息をもらす。主に自家用車は父親が通勤に使っており、母親が使うのは休日のごく限られた時間だけなのだ。
「伊野さんとこもそうだけど、最近はこの辺も年寄りの一人暮らしが多くなったわねえ」
となりの主婦がやや声をひそめてうわさする。
「そう言えば、3丁目の川田さんもこの前しばらく顔を見せなくなったと思ったら自宅で-」
母親は人並みにうわさ話が好きだ。こちらが聞きたくもない、老人の孤独死の話を延々と子供の都合も考えずに続けている。
そんな話をされるから、ふだんは気にかけないようなささいな事に、こっちも気になってしまうのだろう。
自宅からボクの足で5分くらいのところに鈴木家がある。木造で築数十年は過ぎているであろうか、親の代から受け継いだ家だと言っていたから、相当に古い日本建築の家だ。そこには夫に先立たれ、子供もいない老婦人が一人で住んでいる。ボクは勝手に「鈴木のおばあちゃん」と呼んでいる。
毎朝登校する度にげんかん先をはき清めていて、目が合えばあいさつを交わす。
「あら、今日も元気だねえ」
「はい」
毎日平日にくり返されるほぼ変わらぬ会話。彼女にとって、それは日課のようになっているのかも知れない。たぶん他の小学生たちにも同じように話しかけているのだろう。
(今日はいないな)
ボクが鈴木家の前を通りかかると、げんかんには件の老婦人の姿はない。ボクが小学校に上がって以来、鈴木のおばあちゃんがげんかん前に立っていなかったと言う記おくはないくらいだ。ボクは鈴木家のしき地内をキョロキョロと見回す。ふとげんかん口に目をやる。げんかん口以外は高いかべに囲まれた家で、げんかんだけが通りに直接面しているから、そこだけがよく見える。老婦人の姿がない以外は特段いつもと変わらないなと思いつつ、一つ違和感を感じて思わず足を止めてしまう。
(げんかんの外灯が付きっ放しだ)
ふだんは老婦人がげんかん先にいてあまり気にしていなかったが、確か外灯が朝っぱらからついているところなんて見た記おくがなかった。特に注意をはらっていなかったので自信はないが・・・。学校からの帰りがけで、冬の間の夕暮れが早い時期に、たまたまげんかんの外灯が点灯し、中から出て来る老婦人に出くわした時があった。ちょうどポストに郵便物の回収をしようとしていたらしい。
「あらあら今日はずいぶんとおそいのね」
老婦人に心配した声をかけられた。
「今日はロングホームルームだったので」
「おやまあ、小学生も大変だねえ」
ロングホームルームが何ぞやと判っているのか判っていないのか、いつもの調子で老婦人は返してくる。ひどい時には7時限目の授業もあるのだ。ゆとり教育よ、どこへ行った?
老婦人が家に再びもどり引き戸を閉めた後、「カチッ」という音とともに、げんかんの外灯は消えたのを覚えていた。つまり鈴木家のげんかんの外灯は、周辺の明るさで自動点灯消灯する明るさセンサーではなく、スイッチでONOFFするタイプだ。いかにもアナログな家に相応しい作りだと思ったものだ。
(消し忘れか)
そんな思いをすぐ打ち消す。ここの老婦人はマメで、朝のげんかん前のそうじはもちろん、照明の管理も徹底していた。げんかんの外灯を付けるのは一時的に外に出る時だけであって、用が済むとすぐに消灯していた。少なくとも、ボクが陽の短い間の日暮れに通りかかった時にもげんかんの外灯が付きっ放しになっていた記おくはない。げんかん前のそうじに関しては、雪の降った翌朝にもはき清めていたくらいの筋金入りだ。
(遂にボケたか)
どんな元気な人間も老いて、時にはちほうしょうになったりする。だが、ここ数日の様子を見ていてもそんな兆候は見られなかった、と思う。
ボクの想像はどんどん飛やくしていく。
(病気にでもなったのだろうか)
一番可能性がある話である。ただ単に体調が悪くて寝こんでいるだけかも知れない。あるいは病院に夜に病院に行き、そのまま入院になってしまったのかも。そう考えると、げんかんの外灯が付きっ放しになっている理由もつじつまが合う。仮に自分が夜に帰って来ても、外灯が付いていれば、げんかんの鍵の開け閉めにも難じゅうしないはずだ。だが、鈴木さんが入院したなんて話は聞いていない。昨日今日の話であればうわさ好きの母親の耳にも入ってくるはずだが、そんな話題は今のところ上がっていない。もちろん、母親があえて言っていない可能性もあるが、その線はうすそうである。買い物帰りの世間話が好きな母親が万が一にも話さない訳がない。そういう性格なのだ。
(じゃあ、入院でなくて、やはり体調不良で寝こんでいるだけなのだろうか)
ちょっとかぜをこらせたとか軽い病気ならいいが、例えば脳いっ血とか心臓発作とか重いしょう状であったなら・・・ボクの心配は現実味を増していく。益々鈴木家から目をはなせなくなる。
(どうしようか)
ボクは迷い始める。だが、時間は待ってくれない。多分ボクの母親に言わせれば、
「そんな心配でちこくなんて・・・あなた、学校に行きたくない理由でもあるの?」
ありもしないいじめでもねつ造されかねない。ボクの学校だっていじめくらいある。程度の違いこそあれ、だれもがそんな経験は一度くらいある。そこをどうかわすかで学校-延いてはクラスでのポジションが確定してしまうのだが。まあ、そんな事はどうでもいい。正直そんなつまらない理由で痛くもない腹を探られるのはボクの本意ではない。
ボクはじゃ念を振りはらい、ようやく歩みを再開する。けれど、もう想はつきない。
(もし重い病気-脳しっかん系であればゆう予はない。本で読んだけれど、たおれてから数時間が生死の分かれ目だと書かれていた。もしそうなら、ヤバくね?)
てかすでに手おくれの可能性が高いだろう。げんかんの灯りを付けたのは日が暮れてから夜が明けるまでの間だ。これが明け方だったとしても今が8時30分、今の日の出は4時30分くらい。あ、ビミョーなタイミングからも知れない。思わず歩みを止めてしまう。
(いや、待て待て!)
心の中で一人突っこみをしてしまう。それ可能性の一つだ。思いこみで行動するのは危険だ。それは今までの人生で何度も経験してきた事ではないか。もっと広い視野で考えるべきだ。
ボクは今日何度目かの歩みを再び始める。何も病気だけが原因ではない。例えば強とうに入られてしばられているかも知れない。もしくは失神してるとか。最悪は殺されたか。どれに転んでも救出もしくは早期発見は必要になってしまう。再びこのまま鈴木家をはなれていいのかと言う最初の問題が頭をもげてくる。仮に生存していると仮定しよう。その場合も比較的速やかな救出が必要になる。身動きが取れなければ、二次的な問題として食事がとれず空腹ならまだいいが、うえ死に至る可能性があるのだ。
(まずいじゃん)
どう転んでも安否の確認は必要なようだ。
だが悲しいかな、ボクはしがない小学生、そんな安否の確認なんてできるはずもない。ましてやほぼ半分が空想の産物であるボクの勝手なもう想でさわぎ立てるのも頂けない。もしボクが思ったとおりであればそれはそれで良かった良かったになるが、もし全然違っていたら・・・例えばげんかんの外灯などただの消し忘れで、今朝もたまたま別の用があって出くわさなかっただけの場合、自分の立場が危うくなる。下手をすればいたずらだとかウソときゅうだんされて変なレッテルでもはられでもしたら、ボクの人生は半分終わってしまう。
(それはかんべんだなあ)
小学生で人生が半分思ってしまうなんて、洒落にもならんでしょ。オオカミ少年にはなりたくない。ボクはおく病で優じゅう不断だ。もちろん、そう言った性格だけでなく経験則も入っているので、いちがいに性格だけのせいだけではないのだが・・・
ただ、このまま放置したままでよいのかと言う自分の良心がかせになる。知っていながら-今の段階では確定してはいないけど-何もしなければ、きっと自分の心に傷が残ってしまう。もしくはトラウマになるかも。仮に手おくれだったとしても、知らぬ振りをするよりはよほどましだと言う思いが強い。
(じゃあ、どうやって安否を確認するかだな)
歩きながらボクは思考をめぐらす。
一番手っ取り早いのは鈴木家のげんかんのチャイムを鳴らす方法だ。ふつうに老婦人が出てくれば適当にごまかして退散すればいい。ただ、これにはやっかい事がともなう。変にかんぐられていたずらされたと思われたらめんどうだ。ただでさえ顔見知りで自分がどこのだれの子とすら知られている。親にでもチクられでもしたら後々めんどうだ。逆に反応がなかった場合、そこで手づまりになってしまう。今は通勤・通学時間帯で人通りも多い。他の大人に自分が鈴木家のげんかんのチャイムをおしているところを見られて、今回の鈴木家での出来事が後々何らかの事件に発展した時、目撃者に通報されでもしたらそれはそれでアウトだ。
じゃあ人目のないところを見計らってしき地内-庭に回ってみたら?これは明らかな不法侵入になり、例えば鈴木家の老婦人が実は健在でその場を見られたら言い逃れができない。子供の視野はせまい。ボクが気づかなくても近所の人の目が偶然ボクの姿をとらえていたら、不審者扱いもしくはいたずら目的で他人様の土地に侵入したと判断されかねない。これはこれで困る。げんかんのチャイムをおすよりもリスクが大きすぎる。それに今は通学している最中。そんな時間はないに等しい。
そんな訳で、今のボクには学校に登校する以外に方法はなかった。
その日は学校に行ったものの、鈴木家の老婦人が気かかりでロクに勉強に身が入らなかった。授業に集中していないと先生に2回もおこられる始末で、散々だった。帰りのホームルームが終わると、友人たちのだべりもそこそこに家路についた。
一度気になり出すと確かめずにいられない性分なのか、ボクは全速力で鈴木家に向かう。ものの10分もかからずにたどり着く。
(やっぱり点いてる)
しばらく電球を交かんしていないのか、げんかんの外灯は時折ちらつきを見せながらも弱々しくかがやいている。白熱灯の光だ。未だにLEDに交換かんなんて思いつきはないらしい。今はまだ夕暮れには時間がある。もう消し忘れのレベルではないだろう。だがと打ち消す思いも。昼間ではないにせよ、辺りはまだ明るい。夜に消し忘れた老婦人が昼間に気づくのだろうかと。再び様々なおく測が頭にもたげてくる。ボクは思わず立ち止まり、通りに面したげんかんに入りかけようとするが、すんでのところで思い止まる。ボクは辺りを見回す。ちょうど下校の時間が重なっているのか、道には小学生を含めた学生がそれぞれ小さな集団をつくってしゃべりながら往来しているのが見える。だれも鈴木家の様子など気にしてない。近くの中学生なのだろうか、ボクよりもずっと背の高いセーラー服姿の女子が甲高い声を上げている。
(無理だよな)
これだけの目撃者がいては他人の家に入るのは難しい。ボクはその場をはなれて後ろ髪引かれる思いで立ち去る。
「あら?今日は早いのね」
自宅のドアを開けると、ちょうど買い物でも行くつもりだったのか、母親がげんかんにいた。いつもは友達とだべったり遊んだりして、母親の帰れコールがスマホから来て、ようやく重い腰を上げるのが常だった。自主的に帰宅して来たボクを母親はいぶかし気に見るが、リビングでゲームを始めたのを見て、またゲームばかりとお小言に言いつつエコバッグを用意している。
母親が買い物に出かけた後、ボクはげんかんを漁る。どうやら運が良かったらしい。げんかんにはまだ町内会の回覧板が置かれていた。ふだんはそんなもの興味もなく、振り向きもしない。だが、今日に限っては貴重な情報源だった。
この町内は老人の世帯が多い。元々古い街だ。かれこれ何十年も住んでいるお年寄りもめずらしくない。特に独居老人の数は少しずつながら増えている。市役所の安全安心メールや高齢者向けの安否電話に登録している世帯もあるが、地域での見守りと称して、特に独居老人の連絡先を公表している町内会もある。ウチの町内会もその一つだ。年寄りで孤独死する人が町内でもあり、回覧板には個人情報を保護する前ていで、年寄りの連絡先が書かれている。回覧板に載っている時点で個人情報の保護もあったものではないのではとは思うが、遠くの家族より近くの他人と言うところか。
(鈴木、鈴木と)
件の老婦人の名前はすぐに見つかった。「鈴木洋子」と。連絡先も記載されている。ボクは家電の受話器を上げ、電話番号をと中までおしかけハタと手を止める。またぞろイヤなケースが頭にうかんできた。すでにげんかんの外灯の異変に気づいてから7時間は経っている。さっき家の前を通った限りでは、まだ鈴木家は朝から何も変わっていないように見えた。もちろん警察や救急車の姿も見られなかった。
(警察・・・)
もし強とう事件や変死事件になった時、警察が介入してくる可能性がある。その時もし固定電話に着信記録が残っていたら、警察は当然調べるだろう。警察の権限を持ってすれば通話元の特定など容易いだろう。
(その時、何て言い訳する?)
間違えたとかいたずらでしたで済ませられるのだろうか。それとも正直に鈴木家のげんかんの外灯の話をするべきか・・・いや、ダメだ。警察なんて出来る限り関わるべきでない。こちらの生命の危機でも直面するような事態でもなければ。警察に不信感がある訳ではない。でも、警察とは間を置いていたいと考えるのは一般人の素直な気持ちであろう。特に今回は人一人の生命が関係しているかもだ。
なら公衆電話は?どこに人の目があるか判らない状きょうでの電話連絡なんてナンセンスだ。目撃でもされていたらアウトだ。子供の視点は低い。自分なりに注意していても、大人の高い目線は恐ろしい。それに警察の能力をなめてはいけない。ほんの少しの手かかりから人物を特定してしまうだろう。
ボクは受話器を置かざるを得なかった。
ならば次の手だ。
ボクが固定電話前で迷っている間に、買い物から母親が帰ってきたのだ。ボクはあわてて固定電話から間を置く。ボクの行動に母親は一時的にいぶかしんだが、冷蔵物があるのをすぐに思い出したようで、「早く冷蔵庫に入れなくちゃ」と言いながらキッチンへと急ぐ。
ボクはその後を追う。
「ねえお母さん」
母親の注意を引こうと声をかける。
「何かしら?」
視線は冷蔵庫に向けたまま問い返してくる。あまりボクの意見に耳を傾ける様子ではないな。それでもふみこんでみる。
「近所に鈴木さんって家、あるじゃん」
「そうねえ」
「おばあちゃんが一人で暮らしている」
「ああ・・・」
「あそこの家なんだけど-」
ボクは朝気になっていた事を母親に話す。朝になってもげんかんの外灯が付きっ放しになっていた事、鈴木のおばあちゃんの姿が見えなかった事、何かあったのではないかと言う事。
でも母親の反応は悪い。
「年寄りなんだから、電気の付け忘れくらいあるでしょう」
と切り返される。
「じゃあ姿が見えなかったのは?」
「用でもあったんじゃない?」
身もふたもない返事だ。
「だったら体調でも悪いんじゃ・・・」
「他人様の家の事情なんてそれぞれなんだから、あまり首をつっこまないものよ」
ボクの言葉にかぶせるように母親はやや口調を強めて言う。子供をふうじこめるような物言いに少し反発したくなった。
「じゃあ、せめて民生委員にでも話した方がいいんじゃない?」
「民生委員って・・・」
一体どこでそんな言葉を覚えてきたのかしらと母親はうろん気な顔になる。
うん、確かに民生委員の話はまずかったかも。ちょっと向きになり、よけいな知識をひけらかしかけてしまった。
母親はようやくボクの方に向き直り、しばらく考えていたが、
「一翔、それ本当の事なの?」
と問い質してくる。何かを確かめるような視線で。
「それは・・・」
ボクは言葉につまる。とどのつまり、鈴木のおばあちゃんが体調が悪いと言う話はボクのおく測にすぎない。警察で言う物証がなく、状きょう証拠ばかりだ。逆に言えば、そんな状きょうだからこそ、ボクも二の足をふんでいるのだと今更ながらに気づいてしまう。
そんなボクに、母親は一つため息をつく。
「そんないい加減な話で民生委員が動く訳ないでしょ?」
「でも、話くらいなら」
ボクは食い下がる。
「もし一翔のかん違いだったら、はずかしい思いをするのはお母さんなのよ」
「それは-」
「おく測だけで判断するなんて一番いけない事なのよ」
明らかにめんどう事はごめんだと顔に書いてあるが、母親の言う事にも一理があり、ボクは次第に言葉を失っていく。あきらめの境地とも言う。
ボクの次の手も見事に不発に終わった。
(さあて、困ったものだ)
夕食の後、ゲームをせずにボクはそそくさと自室にもどった。マンガも読む気にならず、ボクは自室のベッドに寝転がり思いなやむ。
(やる事なす事全て不発だ)
全てが後手後手になっている感じで不快極まりない。
そもそも初めから迷いなく鈴木家のげんかんのチャイムを鳴らしていれば、こんななやむ事もなかったのではと後かいがこみ上げてくる。
(いまさら、だな)
そう、いまさらなんだ。過ぎてしまった時はもどせない。ここはポジティブにならなければ。
ボクは身体を半回転させ、うつぶせの状態になり、思考をめぐらす。
では近所の人に相談してみるか。何人かの鈴木のおばあちゃんと知己のありそうな年寄りの顔が頭に思いうかぶ。だが、これといった人物が思いうかばない。そもそも鈴木のおばあちゃんはあまり近所付き合いをしておらず、特に親しいおとなりさんがいないのだ。夫に先立たれてからそのけいこうが強くなったような気がする。また立地の問題もあり、なおさら近所とは親しい付き合いがなくなっている。あまり鈴木のおばあちゃんと親しくないおとなりさんに相談するのは、まるでうわさを流しているように見えないか。ここでボクの心の弱さが再び出てくる。母親の言うとおりボクの気のせいに終わったら、近所の人に不信感をいだかせる原因にならないか。・・・どう見てもベストな選択とは考えられない。むしろ鈴木のおばあちゃんにもう少し親しいおとなりさんでもいれば、すでに安否確認がされているだろうに。
(それに昨日の今日だな。さっき母親にも相談したばかりで舌の根のかわかぬうちに、また近所の人に同じような相談をしたと母親に知られたら、折かんされかねん)
あそこのお宅の子はウソつきだなんてうわさが立った日には、うちの両親も身の置き所に困るだろう。特に世間体を気にする母親は。ボクが責められるのは目に見えている。
(不採用だ)
ボクはまるで自分で自分の首をしめている気分になった。
それとも民生委員に直接相談してみるか?今の時点でだれがこの地区の民生委員のなのかすら判らない。そこから始めなければいけないのだ。民生委員はいそがしくて活動もままならないと聞く。今は夫婦とも共働きが当たり前の時代で、民生委員のなり手がいないと母親がうわさしていたのを聞いた記おくがある。
(そうだよなあ・・・自分の生活でいそがしいのに、近所とは言え他人の世話までするなんて)
民生委員が子供の話に困わくする将来しか想像できん。
しばらくベッドの上でなやんでいたが、そのうちねむ気がおそい、完全に寝落ちしていた。子供の身体は寝付きがよく、便利なものだと思いつつ・・・
次に気がついた時には翌日の朝になっていた。陽射しが閉め忘れたカーテンから室内に降り注ぎ、目を開けたボクはそのまぶしさに思わず目をつぶってしまう。
(・・・朝になってしまった)
寝落ち際のうっ屈した気分も今はすっかり吹っ飛び、清々しい朝をむかえていた。つまり、昨日の異変に気づいた朝からすでに1日近くが過ぎていた。
ベッドから起き上がりパジャマをふだん着に着がえ、階下に降りて洗面所で顔を洗い、キッチンに向かうと、すでに母親が朝の朝食の準備を終えていた。
「今日は少しお寝ぼうさんね」
すでに父は朝食を終え、出勤している。東京の会社なので朝は早いのだ。母も近くのスーパーでパートタイマーをしている。今日はおそ番なのかゆっくりだ。早番の時はこの時間はもっとバタバタしているが。
「まあね」
ボクは生返事をして一つあくびをしながら席につく。テーブルの上に置かれたトーストにかぶりつく。昨日は頭を使ったせいかやけに食欲がある。頭を使うとエネルギーを消費するらしいからそれの状態になっているのかも知れない。
食事をしつつ、ボクはチラと母親の様子をうかがう。昨日のボクの話などすっかり忘れてしまったかのように鼻歌をキッチンで歌っている。基本切りかえの早い人なのだ。忘れっぽいとも言う。
(うらやましい)
ボクはと言えば、未だに昨日の思いわずらいが頭にこびりついていて、完全に気分がよくなった訳ではない。ただ、さすがに1日が過ぎてしまい、昨日なような追いつめられるような感情はかなり鳴りをひそめていた。これを時のじょう化と言えばいいのか、人間特有の都合の悪い記おくは頭から消去される機能が働いているのか。
それでも食事を終え、歯をみがき、ランドセルを担いで外に出たボクの足取りは重い。
気分的には上向いているものの、また鈴木家の前を通らなければいけないからだ。正直遠回りをしようかとも思った。けれど、何か逃げているみたいでイヤだった。一度気になり出すと頭からはなれない質なのだ。色々考えているうちに件の鈴木家が近づいて来る。
-案の定、鈴木家のげんかんの外灯は付けっ放しになっていた。ボクの心臓を何かがしめ付けるような不快な気分がおそう。だが、そんなボクの気分などお構いなしに、異変があった(かも知れない)鈴木家の前を通勤するサラリーマンやOLは、何事もないように足早に通り過ぎて行く。多分彼らには通勤中のいち風景にしか映っていないのだろう。近所の人の姿も見えず、鈴木家に注視しているボクは意識過じょう過ぎるのかと思うくらいだ。
(そうなんだろうか)
そんな言葉が思わず口からもれかける。
無力なボクにできる事と言えば、なるべく鈴木家を通り過ぎるのに時間をかける牛歩戦術を採るくらいだった。
学校のクラスにたどり着くと、いつもの小学生特有のけんそうが教室に満ちていた。担当の教師でも来なければ、このけんそうは決してなくならない。だが、今のボクにはこのくらいのさわがしさの方が気分的に楽だった。
授業が始まってもボクの心は鈴木のおばあちゃんの安否で頭がいっぱいで、授業の内容はさっぱり頭に入ってこない。黒板の板書のノートの写しすら止まりがちだ。
すでに鈴木家の異変から1日以上が経っている。ボクの頭の中では、早く鈴木のおばあちゃんの様子を見たいと言う強い気持ちと、母親の意見にえいきょうされたのか、そんなのきゆうに過ぎないだろうと言う二つの思いが交差し、グルグルと回っている。まさに堂々めぐりだ。自分が小学生である力のなさ-仮に大人だったとしても、自分がどこまでやれるのかは自信はないが-を実感せずにはいられない。異変に初めに気づいた時点で行動できなかった結果がこれだ。思い付きでもいいからげんかんのチャイムをおして鈴木のおばあちゃんの安否を確認すればこんな思いなやむ必要もなかったのに。これをこうかい先に立たずと言うんだろう。
学校の最終授業が終わるころには、ボクは精神的にヘトヘトになっていた。
(これはいかん)
小学生でメンタルなんてかんべんだ。仲のいい友達がどっか遊びに行こうぜとさそってくるが、「気分じゃない」と断る。帰ろうと立ち上がりかける。
「入江君」
名前を呼ばれ振り向くと、ボクのクラスの担任の先生が手招きをしている。
「後で職員室に来てくれないかな」
まだ20代であろうそれなりに可愛い顔をしている女性教師だ。先生になってまだ5年だと4月の新しいクラスのあいさつで言っていた。
「・・・はい」
ボクは内心イヤな予感がよぎったが、顔には出さなかった。担任の教師のご指名とあれば行かねばならぬ。
先生が教室を去って行くと、またぞろ友達が数人群がって来る。
「お前、何かやったのか?」
興味丸出しで聞いてくる。
「さあね」
たいてい職員室に呼び出されるのは何かしでかして怒られるか、プライベートな内容で呼び出されるかのどちらかだ。中学生くらいになれば本人の心情を汲んでひそひそ話に終始したりするくらいの節度も見られるが、ここは小学校。平気でずかずかと人の心情など察せずふみこんでくる。
「いいなあ、中村先生と話せて」
素直にきれいで若い先生への憧れなのか、友達の一人がうらやましそうに言う。ませガキめ。お前にはあのクラスの女は10年早いわ!・・・何て思いつつも半分スキップして職員室に向かってしまうのは、ボクがののしった友達以上にませている証左だわな。
職員室のドアをノック、「失礼します」と断ってから中に入る。放課後直後で教室からもどって来た担当の先生を中心に室内は先生でいっぱいだった。ボクは一時的に圧とうされかけるが、本来の目的を思い出し、ボクは担任の先生を探す。彼女は他の同世代くらいの男性の先生と談笑していた。
(盛りおって)
ボクはわざと少しかけ足で担当の先生に足音が聞こえるようにあからさまにパタパタと内ばきの音が聞こえるようにする。二人はボクの存在に気づく。一時的にじゃまが入ったとばかりに男性の先生がムッとしたような顔をするが、小学生の生徒と担任の女性の先生を配りょしたのか、顔に作り笑顔を張り付けてそれじゃあと去って行く。
(口説いてんじゃねえよ)
ボクは社内れん愛のじゃまをしつつ、
「先生、来ました」
と済ました顔で担任の先生の顔を見る。彼女の顔には、さっき話しかけていた男性の先生の姿を追うような素振りもなかった。
(脈なしか)
ボクは心の中でざまあと思った。
「ああ入江君。・・・ちょっと場所を変えようか?」
と言い、生徒指導室を指差す。ボクはちょとイヤな気持ちになる。たまたまそこしか部屋が空いていなかったのかも知れないけれど、「生徒指導室」と言う部屋にはいつもおくしてしまう。だって、「生徒」を「指導」する部屋でしょ?入るのはふつうにイヤだ。
そんなボクの心を知らない担当の先生は率先して部屋に入って行く。ボクは心にネガティブをただよわせながら、トボトボと後に続く。
「何かあったのかな?」
先生は座るなりそうたずねてくる。
「はっ?」
いきなりだな。
「だって、今日の授業中、上の空だったって、何人かの教科の先生から聞いてるわよ」
かなり目立っていたようだ。自分が考えている以上に、小学生は気持ちが顔に出るようだ。いや、そこは気をつけなければいけないところか。ちょっと何かあったくらいで気づかれているようでは、友達にもマウントを取られるわな。だが、これ幸いだ。
「実は-」
「うんうん」
担当の先生は積極的に聞き入ろうとする。
ボクは例の近所の鈴木家のおばあちゃんの話を始める。初めは熱心に聞き入っていた先生の目から次第に興味が失われていくのを感じ、ボクの熱べんは次第に冷めていった。こういった場面は今までに何度も見てきたので、おどろきはしなかったが、軽い失望感を感じていた。きっと担任の先生的には、ボクの様子を見て、家庭か学校で何かあったんではと言う感覚でおなやみ相談をしたかったのだろう。それが近所の云々かんぬんの話になり、話の方向があやしくなったのと自分の専門外であると察したのが、思わず顔に出てしまったのだろう。これがベテランの先生であれば、表情にも出さず上手くスルーするのだろうが、まだまだ5年目の若い女性の先生だ。そこまでの顔芸は身についていないのだろう。
「・・・判った。入江君はそのおばあちゃんが心配なんだね。まあ、折りを見て、地域の民生委員にでも話してみるよ」
先生は形ばかりの返事をする。あまりきん急性を感じさせない言葉だった。
ボクにしてみれば転がりこんできたチャンスだと思ったが、上手くいかないものだ。それとも、やはりボクの話の持って行き方がダメだったのだろうか。
可愛い先生とのせっかくの会話が、かえってネガティブになってしまったと感じた。
直接乗りこむのもダメ、無策に電話するのもダメ、母親もダメ、近所の人もダメ、学校の先生もダメ。ダメダメつくしだ。ボクの説得力のなさや人をかいじゅうするねばり強さ、人を動かす力がないのが起因しているのだから、人ばかりを責められない。ふつうの小学生では大人にたよるしかないが、その大人のだれも味方になってくれない。完全に行きづまった感じだ。
それでもボクはあきらめきられない。こうなったら一層の事、完全他力本願を考えてみるか。
さて、鈴木のおばあちゃんの近所の人が気づいてくれるのを考察する。立地はどうか。鈴木家は一応、この界わいでも住宅地の中にある。だが・・・鈴木家の両どなりは空き家で、人も住んでいない。たまに空き家を相続した家族辺りが家の草むしりに来るくらいで年の360日くらいは無人だ。近所の人に期待するのはあまりにも状きょうが悪すぎる。裏は公園と呼べるくらいの空き地が広がっている。何でも昔は有名人のごうていが建っていたらしいが、その有名人が死ぬとともに遺産相続やら財産の放きやらで細かく分割され、ごうていは売りはらわれ、今は完全な未利用地状態となっていると言ううわさだ。相続人があまりに多いため、不動産投資もままならないと。両どなり・近くの住人や土地の所有者には望みようがなかった。
はたまたボクのような好奇心のある(?)小学生あたりが同じように無人の如き鈴木家に不法侵入する可能性はそれはあるだろう。どうせそんな真似をする小学生はいたずら目的だ。施錠がしっかりされていればそこであきらめるだろう。ぬすみ癖のある小学生(この場合、中学生でも高校生で大人でも構わない)が窓や戸をこわして室内に入ろうとする可能性はあるだろう。そうすれば必然的に鈴木のおばあちゃんの安否も確認される。
だが、他力本願の弱いところはだれが?いつ?どこまでやるか?が判らない。つまり可能性はあるが、相当な時間がかかり、もうその時点では完全に手おくれである。何度も言うが、鈴木のおばあちゃんに最悪の事態が起きている前ていである。
(ループだわな)
何事もなければ違いなのだ。あれこれボクがせんさくするだけと労に終わるだけである。けれど、やはり他力本願はおすすめできないと改めて気づいてしまった。
ボクがあれこれ想像しているうちに、その日の帰りのホームルームも終わってしまった。足早に家路につく者、友達とだべり始める者、一日話さなかっただけで仲のいい友人たちはボクを除け者にしてグループを作っている。
ボクは完全のこの世界からそ外されてしまったようなわびしさを感じていた。
(やっぱり自分で何とかしないと)
他人にたよるのは今回の場合はどうも具合が悪い。
(今だって確信のないことを人に訴えるのは決め手が欠けているんだな)
筋が悪すぎる。人を動かすような事実が足りないのだ。
(じゃあ信じられのは自分だけ・・・か)
結果的にバカげたもう想であったと自分をはじるだけならいくらでもはじてみせる。でも、鈴木のおばあちゃんの安否が確認されない限り、ボクの心の不安は取り除けない。そして、一つの可能性がある限りは全力をつくしたい。これはホントに自分の質なのだ。例えどんな手段を講じても・・・。そう思ったしゅん間、ボクの心は吹っ切れた。
(せいぜい足がいてみせるさ)
最後の手段に打って出るべく行動を開始する。
教室を見回すと何人かのクラスメートが残っていた。ふだんはクラブ活動に興じている男子も何人かいた。今日は休みなのかひまを持て余している様子がただよっている。
ボクの通う小学校のクラスには野球をしている友達が何人かいる。野球は学校のクラブ活動を中心に地域の少年野球やリトルリーグ、クラブチーム、はたまたプロ野球が運営するジュニアチームなどと多種多様な組織が存在している。それだけ野球が日本ではしんとうしていると言える。具体的なランクがある訳じゃないが、少年野球はなん式ボールを、リトルリーグ・クラブチーム・ジュニアチームはこう式ボールを使用している。将来プロを本気で目指しているのなら、ジュニアチームを目指すだろう。野球への本気度で、所属する団体が違ってくる。
クラスメートはその中でも学校のクラブ活動に所属しているやつらだ。プロを本気で目指す気はないが野球は好きレベル。同好会レベルと言ったところか。こ問はいるが、全てのこ問が野球経験者ではないので、野球への指導も限界があるし、小学校のグラウンドははっきり言ってせまい。常に他の運動クラブとの場所の取り合いになり、練習のできない日もある。当然クラブ活動のない日もある訳だ。野球好きが好きな野球もできずに空いてしまった時間を無いに過ごしている。そこをつけば、たいていはムキになるか何も知らない素人がイキがってるんじゃねえよとばかりに上から目線で受けて立つ。小学生は良くも悪くも単純だ。
クラスで野球をやっているリーダー格の友達に、近くに広い空き地があって野球もできるとけしかけると、独自の情報もうを使って人を集めてきた。クラブ活動の仲間らしい。中には全く知らない姿もあった。クラブやバッド、マスク、ベースなどの用具をそろえて。
(どれだけ野球にうえてんだよ)
そんな皮肉が頭にうかぶくらい、彼らはやる気満々だった。
「ホントに広いんだろうな?」
ボクの近所の道を通りながら、リーダー格の友達がしつこいくらい聞いてくる。野球がやりたくてうずうずしている感がこちらにも伝えわってくる。その後を同級生がぞろぞろとついて来る。突然の招集に戸まどっている男子もいるが、大半はウキウキしていた。野球用具は分担して持っている。手慣れているのは、もしかして今日と同じように学校外で野球をしているのかも。
「広いって。二試合分くらい同時にできるよ」
ボクが自信満々で答える。何せ毎日登校時に見ている場所だ。ここいらの一般の住宅地の10倍くらいあるムダに広い空き地なのだ。
「ふ~ん」
彼は悪くない印象を持ったらしい。手に持ったバットで軽くスウィングをしてる。自前の物なのだろうか、右手にはずいぶんと使い古したバットを手にしている。左手にはグラブをはめている。
「ああ、昔有名人のごうていが建ってたトコだろ?」
別の友達が思い出したようにつぶやく。何人かの同級生が俺も知ってると話に加わるように声を上げる。
「知ってんのか?」
リーダー格が言葉を発した仲間に振り返る。
「うわさだけだよ」
彼は自信なさげに答える。
「周りも空き家ばかりで思いっきりできるぜ」
ボクはリーダー格の友達の背をあとおしするようにさり気なく補足する。
「そいつはいいじゃん」
予想どおり彼はうれしそうにほくそ笑む。ふだんから練習を満足にできず、力を持て余しているのだろうか、彼はうでをぶす。そこだけはリーダーの風格だ。
(それなりにやる気になってもらわないと、な)
ただ、リーダー格の男子の表情はさえない。
「・・・結局10人しか集まらなかったのかよ」
リーダー格が少し不満そうにもらす。
(10人集まれば十分じゃん)
あの短時間でこれだけの人数をそろえられるリーダー格の同級生のカリスマにおどろいてるくらいだ。将来、どんな大物になるのやら。
「仕方ないだろ?いきなりの呼びかけなんだから。これだけ集まっただけでも大したもんじゃん」
副将格の友人に言われ、リーダー格はビミョーな顔をする。彼としてはフルメンバーをそろえたかったのだろう。
(バスケだよなあ)
5対5じゃ、そのまんまバスケじゃん。一人は審判役だ。交代で審判役を務める手はずになっている。ただ、こちらとしてはメインは攻撃を考えているので、変にガチに守られるのは困る。こちらの望むのは打ち合いだ。一方的にボクの所属するチームが打ちまくるならもっとよし。まあこちらの目的に守備などほとんど関係ないものかもしれんが・・・
「やれるだけましか」
リーダー格はブツブツと自分を納得させるようにつぶやく。
これから楽しみがあると歩く時間も非常に短く感じるのか、話しているうちに空き地に着いてしまった。
ボクは一度視線を動かし、件の家の位置を確認する。やはり家の周りは空き地と空き家で囲まれており、人家からはなれてしまっている。空き家は草ぼうぼうか家がくち果てていた。人の住まない家は直ぐに老きゅう化すると言うが、それを具現化した状態が目の前にある。鈴木家に異変があっても、これでは近所の人が気づくのは難しいだろうな。
ボクがあれこれ考えているうちに、野球クラブの小学生たちの半分が空き地に散って行く。持って来たベースを早速地面にうめこみ、守備位置付近の確認をしている。
「いいか?」
リーダー格がころ合いを見計らって見わたす。守備の選手たちはそれぞれのニュアンスでOKと伝えてくる。審判がプレーボールと宣言し、野球が始まる。
ボクは後攻のチームに入り、2ベース辺り(1チーム5人しかいないので、外野もかねている)の守備位置につく。ピッチャーの投げるボールを目で追いつつ、頭はフル回転していた。
(試合はサスペンデッドゲーム。日ぼつで終了だ。5対5の試合。チャンスは3回あるかないかか)
ボクは場所を提供したゆうぐうそちで3番バッター。だが、今回の場合、打順はあまり関係ない。目的さえ達成できればいいのだから。
「おらおら、ちゃんと打てよ」
ベンチ(?)からヤジが飛ぶ。気分だけはプロ野球か(笑)
だが、ヤジのせいか元々実力がその程度なのか、本来はピッチャーでない選手のゆるい球にもぼん打が続く。敵チームだから早く攻撃が終了するのはいいんだが、味方のチームもこれではなあ。・・・案の定、相手ピッチャーはリーダー格の同級生だ。彼はポジションもピッチャーなのでそれなりのボールを放ってくる。味方チームの選手は球いにおされて当てただけのバッティングかぼてぼてのゴロ。
(こりゃ、3回回るかな)
打席が少なくなれば、それだけチャンスも減るのだ。
そしてボクの打順が回ってくる。ピッチャーはボクを見ると一度ニヤッとする。その表情がボクに対する感謝なのか、なめられているのか、よく判らない。振りかぶり、オーバースローでボールを投げてくる。ボールは低めにストライクが決まる。
(いいボール、だな)
見てた時よりもコースも球いもある。打てんのかな、ボク。だが、そんなことは言ってられない。ボクは一度バッターボックスを外し、仕切り直す。だがきんちょうがぬけきれない。
ピッチャーが2球目を投げてくる。ストライクゾーンだ。ボクはバットを振る。だが、力み過ぎてスウィングがぎこちない。不安定なバットのきせきはボールから半分外れていた。
〈バコン〉
まぬけな音とともにバットに当たったボールはピッチャー前にぼてぼてに転がっていく。リーダー格の同級生は難なくボールをグラブでほ球する。
「何だ?走らないのか」
バッターボックスでこうちょくしているボクを見て、リーダー格はニヤリと笑う。ボクの戦意そうしつを見ぬいたかのように。そして、ボールをそのまま一るいに投げる。
「アウトっ!」
審判のい勢のいい声が空き地に響きわたる。
(情けねえ)
ボクはくやし紛れに地面にバットをたたきつけようとしたが、借り物だ。何とか思い止まり、下を向きながらバットをその場に置く。
(無ぼうだったかもしれない)
そもそもふだんから運動もロクにしていないボクが、いきなり野球なんて、どだい無茶なんだ。それに相手は少年野球に所属する選手に比べれば格下かもしれないが、常日ごろから野球を慣れ親しんでいる同級生とは経験も身体つきも違うのだ。どれだけ思い上がってたんだ。
ボクは守備につくために地面に置きっぱのグラブを手に取り、重い足取りで歩く。
結局2回目の打席もぼん退した。味方の同級生いわく、力み過ぎてバットの軌道がバラバラだと指摘も受けた。全くその通りだ。バッティングなんてレベルじゃなかった。はずかしい。鈴木のおばあちゃんを助けるなんて言いながら、この様だ。助ける以前の問題だった。
(どうする?)
ボクのあせりは今までマックスにまで達していた。
(恐らく次が最後の打席)
否が応でもきんちょうで心が高鳴る。
味方チームはリーダー格のピッチャーを前にわずかに1安打。勝負になっていない。リーダー格の同級生のドヤ顔が目にうかぶ。くやしいが相手の実力を認めざるを得ない。
(だが)
あきらめる訳にはいかない。試合の行方なんて鼻からどうでもいい。ボクはボクの目的を達成できさえすれば・・・
「入江君、打順だぜ」
ボクはチームメートに声をかけられ、ハッとする。とうとう3回目の打席が回ってきてしまったのだ。ボクは完全に自信のないままバッターボックスに立つ。ピッチャーはボクの前2回のバッティングを見て、よゆうをこいている。ピッチャーに変化球を交えられ、あっと言う間に追いこまれてしまう。2ストライクだ。
「へいへい!少しは守備させてくれよ」
相手チームの選手からヤジが飛ぶ。
「・・・・・」
ボクは気持ちを集中させていく。次の一球で全てが決まると思うと、自然気持ちはたかぶり、冷静になっていく。
(向こうは3球勝負だな)
ボクのこれまでのバッティングを見ていたら、遊び球なぞ投げ損だとでも思っているだろう。ピッチャーが振りかぶる。ボールが手をはなれたしゅん間、明らかなド真ん中だ。
(来た!)
ボクのバットは今までとは違い、水平に振られる。
〈カキーン!〉
バットのしんに当たった音がし、ボールはぐんぐんとのびていく。
「あっ!」
打たれたピッチャーが外野にのびていく大飛球をあ然と見送っている。
(行けぃっ)
ボクはダイヤモンドを走りながらいのる。
(もっと・・・もっとのびろっ!)
ゆるやかな放物線を描いたボールは件の家のしき地に向かって飛んで行く。
(あと少し)
ボクは遠ざかって行くボールをぎょう視する。だが・・・
「ああっ!」
残こくにもボールは件の家のコンクリート製のへいに当たり、空き地にはね返される。
(届かなかった、か)
ボクは今日一番の大ヒットを飛ばしたのに2ベース上でうなだだれた。脳裏の毎朝あいさつを返してくれる鈴木のおばあちゃんの笑顔が過ぎる。
(くやしい)
その場で地団駄をふみたい気分だった。我に返り、手を見ると、大飛球を打ったバットを持ったままであるのに気づく。手はバットを強くにぎりしめていて、肩にかなり力みがあったんだと知った。それでも・・・
(もっと大人みたいな体格があったら)
どうしようもない現実を目の当たりにして、ボクはその場にひざまづいた。
その後の事は、正直よく覚えていない。後続の選手がぼん退して、守備についた気がした。味方のピッチャーもがんばり、なかなか守備機会もないままに時間だけが過ぎていく。他の選手にも期待してみたが、バッターが打ったボールのほとんどはベースをこえる事はなかった。小学生レベルでは外野に飛ばすなど無理なんだ。
目的を失ったボクは、だ性で野球を続けていた。何が最後の手段だ。えらそうな考えだけで、自分は何もできなかった。あれこれ思いなやまず、すぐに鈴木家のチャイムをおしていればよかったんだ。自分の優じゅう不断さをのろった。・・・結局周りを気にするあまり、ボクはチャンスを何度も自分でつぶしていただけだったのだ。学校を出た時の意気ようようとした気持ちはすでにむ散していた。バットをにぎった時の高よう感すら今は情けない。はじの上ぬりだ。
そして陽は無常にも暮れてゆく。辺りは夕暮れ時のオレンジ色に染まり始めていた。
「おい」
ボクはバットでコツンと軽く頭をたたかれる。ボクは落ち込んだままゆっくりと顔を上げる。
「お前の番だ」
味方チームの同級生がバットを手わたしてくる。
「へっ?」
よっぽどまぬけでようりょうの得ない顔をしていたんだろう。その同級生はもう一度伝えてくる。
「お前の打順だよ。早よ、バッターボックスに行け」
とうながしてくる。ボクはハッとベース上を見る。・・・全てのベースが味方の選手でうまっていた。
「ツーアウトっ!」
審判がコールする。
いわゆるツーアウトフルベース。
普段なら日も暮れかけ、サスペンデッドゲームだろう。だが、このチャンスでそれを言い出したら、みんなから逃げるのかと言われかねないと察しているのか、リーダー格の同級生は引き下がる気はないようだ。
(まさかな)
同級生からバットを受け取ったボクはゆっくりとバッターボックスに入る。
(最後の最後に打順が回ってくるなんて)
運命があるならばこの時を指すのかもしれないなと思いつつ。ボクの心はとても静かだった。一度はあきらめかけた分、最後に回って来た打席は今までとは違い、何の気負いもなく自然に立てた。
ここまで来ると、さすがにリーダー格の同級生の顔にもつかれが見え始めていた。その証拠がこのフルベースだ。
(小学生の考えを全て捨てろ)
前の打順までのボクは小学生の最大限の力を出す思いでいた。でも、ぼん打をくり返し、3回目の打席もいい当たりはしたが届かなかった。だが、ここに至ってそんな中途ハンパな考えはしない。
「プレイボール」
審判が試合の再開を告げる。
ピッチャーが振りかぶる。セットポジションだ。フルベースなのだからとうランナーを心配する必要はなかろうに。それだけピッチャーの集中力がと切れかけているとボクは見た。
ボールが投げだされる。
(甘い)
ド真ん中よりの中途ハンパなスピードのボールが入って来る。
ボクはボールに合わせてフルスイングする。イメージ的には、プロ野球の4番左打者のホームランバッターのそれだ。ボクは右打席だけどね。ボールを十分に引き付けて、身体を痛めるのも構わずに全力のフルスイング!引き付けた分、ボールはバットの真しんでとらえ、低いライナー性の辺りがピッチャーのわきをかすめていく。あまりの早さにピッチャーはもんぞりがえってさける。他の守備の選手はあんぐりと口を開けたままび動だもしなかった。
だんがんライナーは目にも止まらぬ速さで件の家のしき地内に飛びこむ。
〈パリンっ〉
何かがくだける音がした。角度からして、家の1階の窓ガラスを打ちぬいたのだろう。
その音に反応したかのように、同級生たちはクモの子を散らすようにわき目を振らず逃げ去って行く。空き地には未だにバッターボックスに留まるボク一人だけとなった。
「ひでえな、試合中なのに」
むしろ反射的に逃げ出した同級生たちの軽快なフットワークをほめるべきなのか。残されたベースがみょうに物悲しい。
フルスイングした反動で手は痺れピリピリとしている。だが・・・
「やったぜ!」
ボクは思わずこぶしを天に振り上げていた。
後は予定通りの行動だ。
ボクはその場にバットを放り出し、走り出す。逃げ出した同級生の友達がいない姿に落たんし、次に学校を思いうかべた。
(学校でも先生に怒られるだろうなあ)
自分の目的しか考えていなかったが、少し冷静になってみると、無断で他人のしき地に入り、野球をしていてとなりの家の窓ガラスを割ってしまったのだから問題案件だ。明日担任の先生や生徒指導の先生に怒られるのを想像すると気がめいる。この際、今日のメンバーも全員巻きこんでやろう。彼らにはうらみなどない。むしろボクの目的を達成するために引きずりこんだ引け目すら感じていた。だが、いずれバレるのだから、早めの方がいい。今日のメンバーには後で謝ればいい。
(これも鈴木のおばあちゃんを助けるため)
無理やりに自分に言い聞かせるように心の中でつぶやく。
ボクは通学路を全速力で走り、自宅にかけこみ、のん気に夕飯の支度をしていた事をしょうさいを母親に告げる。
「あら、まあ、どうしましょ!」
動ようする母親。オロオロとするばかりで思考が完全に止まってしまったらしい。
「とにかく連絡を」
ボクはまだげんかんにあった回覧板を母親におし付け、何とかなだめすかし、電話をかけさせようとする。母親は一時の混乱が収まったのか、回覧板を開き、鈴木家の電話番号を確認する。
「・・・・・出ないわねえ」
受話器をにぎっている間も、母親は忙しなくその場で足ぶみをしている。どうしてここまで落ち着きがないんだろ。まあ、その原因はボクなんだけど・・・。母親は何度も受話器を置いて、電話をかけ直すがやはりつながらないようだ。この時点でボクの疑念は確信に変わっていた。
「とにかく鈴木さん家に行ってみようよ」
受話器を置いて考えさせる間もなく、ボクは母親を急かす。いつもの世間体を出されてはいい迷わくだ。今は一刻の時間もおしい。
「そうねえ」
母親は消極的な顔をしている。何かのかっとうがあるようだ。
(ここでためらうか!)
ボクは内心のいら立ちをおさええつつ落ち着いた口調で言う。
「もしボールが原因でケガでもしていたら・・・」
わざと不安を口にする。
(いや、それはそれでヤバいだけど。そんな事態になっていたら本末転とうな話だし)
ボクは自分の言った言葉にちょっとビビッていた。
「それもそうね」
母親はようやく意を決したらしくげんかんに向かう。ここに至るまで20分。我ながら非常に回りくどいやり方だと思う。でも、だれにも疑われず、大人を意識的にゆう導するにはふつうの子供として同じ行動をしなければいけないのだ。
「これが子供の限界さ」
自分に言い聞かせるようにつぶやく。
辺りすでに日が暮れていた。だが、ボクにとっては慣れた道のりだ。母親と一緒だったのでいつもより時間がかかったくらいだ。
鈴木家のげんかんに立つ。母親は何度かためらった後、げんかんのチャイムをおす。なじみの電子音が外からも聞こえる。
「近所の入江です。鈴木さん、いますか?」
大声を出して母親が中に伝える。気が急いている母親は気が短くなっている。
「・・・だれもいないのかしら?」
母親は引き戸もたたいてみるが、一向に中から反応はない。
「旅行にでも出かけてるのかしら?」
「そんな話聞いてるの?」
逆にボクは問い返す。
「全然。それなら話は聞いているはず」
母親は自信を持って言い切る。うわさ話、か。母親は引き戸をたたき、無意識に引いてしまう。
「あら?」
げんかんにかぎはかかっていなかった。少し建て付けは悪いがスーッと開いてしまった。
ボクはひょうしぬけとともに一まつの不安が頭の中に広がっていく。
「不用心ねえ」
母親は引き戸を開けたみたものの、中に入っていいのかどうかためらうようにたたきに入ろうか足をさまよわせている。
とうとう痺れを切らしたボクは、母親を追いこしてたたきに入る。
「一翔ちゃん!」
母親のしっ責も構わず、くつをたたきにぬぎ散らし、ボクは上がりかまちの段差を乗りこえる。
(家の構造が判らない)
洋式の自宅と違い、日本家屋の構造はろう下や仕切りが多く、部屋を探すのが大変だ。友達の家のほとんども洋式のため、想像がつかない。いくつかの障子や引き戸を開け、台所を見つける。
ちょっと違和感を感じる。月明かりが窓から射しこんでいるのだが、みょうに明るく感じる。
「あっ・・・」
窓ガラスが割れ、ビミョーに光がへん光しているのだ。室内には割れた窓ガラスの破片とともに見慣れた野球ボールが転がっていた。
「見なかったことにしよう」
ボクは無意識に視線をそらす。台所を見回すが人の姿はない。
「・・・いない」
ボクには昨日今日鈴木家の台所の設備が使わていないような感じがした。理由は判らない。異変を察知していたそう感じられるだけなのか?数日使わなかっただけでそんな違いが判るものなのか?
(いかん、いかん)
目的をはき違えてはいけない。そんなせんさくをしに来たんじゃない。ボクは台所をはなれ、他の部屋を物色する。後方で母親の声がした気がしたが、構っていられない。ろう下を行き来しつつ建具と言う建具を開けまくる。
「これだから日本家屋はっ!」
ボクは悪態をつく。開口部にはこれでもかと言うくらいに引き戸や障子が設置されている。部屋数も多い。まるで迷路のようだ。ここ10年で今風の洋式建築に慣れてしまったボクにはこの上なくメンドくさい。ようやく階段を見つけ、ボクは2階に上がる。2階は寝室スペースのようだ。階段を上がり切り、ある部屋の前で足を止める。そこだけ、中途ハンパに引き戸が開いていた。胸さわぎがする。
ゆっくりと部屋に近づき、引き戸に手をかける。
「!」
室内の様子をしっかりと確認してから、ボクはあわてて階下に向かって叫ぶ。
「お母さんっ!こっちこっち!!」
ろう下は病院特有の消毒液の匂いがした。
ボクと母親は集中治りょう室の手前のろう下で医師と向かい合って立ち話をしている。
「・・・あと数時間おそかったら、危なかったですね」
宿直の医師が少し重たげなまぶたで状きょうを説明している。今さっき手術も終わり、容体は安定していると言う。件の医師が表情にひろう感を表しているのもそのせいだ。
「内臓しっかんですか・・・」
母親は聞き慣れない言葉に戸まどっている。聞けば、鈴木のおばあちゃんは自宅にいたところ、急に体調の不良を感じて寝室に引きこもろうとしたようだ。そのまま起き上がる事ができなくなり、意識を失ってしまったらしい。事実、寝室には布団がしかれ、彼女は布団に入ってねむるように横たわっていた。初めは死んでいるのかと思い、ボクも二の足をふんだが、かすかな呼吸を感じ、あわてて母親を呼んだのだ。
母親と医師が話している間、ボクはつかれたようにイスに座りこんで二人の会話をそれとなく聞いていた。実際、ボクはつかれていた。昨日の鈴木家の異変の察知から様々な過程を経て、空き地での野球、母親への告白、鈴木の訪問・・・そして病院。子供の小さい身体にはむち打つような行いだった。今もうつらうつらし始めている。ボクの意志に反して。
「これが脳しっかんだったら手おくれだったでしょう」
医師は手術の直後のせいか、少し興奮状態にでもあるのか、じょう舌だ。いわく、部位やしょう状にもよるが、脳しっかんの場合は発病から数時間が勝負なのだと言う。今回は内臓しっかんで悪化するのに時間を要したため、命をつなぎ止めたと。しょう状を自覚してすぐに床に入ったのもよかったのだと。一通りの説明が終わった後、一人の人物が近づいて来る。
「ちょっとよろしいですか?」
彼は今回の救急はん送を聞きつけ、医師と同じく宿直をしているソーシャルワーカーだった。
「鈴木さんのご親族をご存じですか?」
「さあ・・・両親は他界して、連れ合いさんも数年前に亡くなって、子供さんもいないって聞いてましたけど」
母親は自信なさげに答える。うわさ話か、他愛のない世間話として鈴木のおばあちゃんから聞きかじった程度なのだろう。
「・・・そうですか」
ソーシャルワーカーは残念そうにため息をつく。
「こういう場合、まず家族か親族に連絡をしなければいけないんですが」
ブツブツ言いながら医師との会話をさえぎった非礼をわびてその場をはなれて行く。
ボクは待合室の長イスから立ち上がると、その男の後を追う。
「ねえ。家のげんかんのかぎが開いてたよ。身の回りの物を探しに行くと言う理由なら・・・」
さり気なくゆう導する。
「ホント?その手があったか」
彼は手をたたき、大げさなリアクションをする。
喜々として室にもどって行くソーシャルワーカーを背に、ボクは再び長イスに深々と座りこむ。鈴木のおばあちゃんが助かった安ど感と達成感にひたっている。それと自分の考えが間違っておらず、これで変な罪悪感を持たずにいられると言う安心感に満たされていた。
数日後-
休日にボクと母親は自宅のリビングでくつろいでいた。ボクはけい帯ゲーム、母親は昼メロにはまっていた。
ちょうど昼メロがその日のクライマックスに近づいていたらしく母親が身動ぎする。ヒロインが恋人と自宅のアパート前で別れ、室内に入ったとたん、急にめまいがしてその場にたおれこむシーンだ。
(お決まりの病気ネタか)
横目でテレビのディスプレイをぬすみ見ながら、ボクはぼやく。
母親はそのシーンに釘付け。感情移入しやすい質なのだ。
「鈴木のおばあちゃんもこんな感じでたおれたのかなあ」
ボクは何気につぶやいていた。つぶやいた後で視線を感じしまったと口をおさえる。けい帯ゲームのシューティングゲームの自機が操作ミスで自ばくする。
母親がおどろいた表情でボクを見つめていた。
「あなた、まさか・・・」
言葉をにごし、信じられないような目つきでボクに疑念に満ちた目を向けている。
(まずった)
ボクは内心あせっていた。よけいな言葉だった。無意識に発してしまったのは、未だにボクがあの件を引きずっているせいだろうか。
あの後、鈴木のおばあちゃんは順調に回復し、今では病院を退院して前のようにげんかんのはき仕事を再開するまでに回復していた。毎朝あいさつを交わし合う日常がもどってきたのを安どしていた。
油断としか言えなかった。ボクは動ようをさとられないようにゲーム機に目をもどす。平静をよそおい、何事もなかったような振りをする。だが、リセットボタンをおす手がふるえていた。
「・・・何の話?」
ボクはいかにも興味なさげをよそおう。
「だって-」
母親はそこまで言って、ハタと考え直す。ボクは母親の大まかな心の動きをトレースしていた。自分の息子が鈴木のおばあちゃんの異変を知らせるために、ここまでの大かかりなぶたいを作ったのではなかろうかと言う疑念をいだき、野球の件まで想像のはばを広げた時、まさか子供がそこまでは計算できないと、彼女の想像の限界を超えてしまったため、思考を中断してしまったのだと。
「ゲームの邪魔なんだけど」
ボクはめんどくさそうな素振りで母親の言葉をさえぎる。あたかも母親の話に一分の興味もないと言わんばかりに。そんなボクの様子を見て、母親は肩の力をぬく。
「そうよねえ」
一人で納得したように視線をボクからテレビへと再び映していた。もう昼メロは終わり、画面は合間のCMになっていた。
「あら、いいところだったのに」
それほど残念そうな声に聞こえないのは、ひまつぶしに見ていた証だ。父親は上司とゴルフに行っており、休日もあまり相手にしてもらえず、ひまを持て余しているのだ。そのうち電話で仲のいい結こんしている友人と長話を始め、どこかに遊びに行く話で盛り上がるのだろう。入江家にはいつもの日常がもどっていた。
リビングで母親の疑念が完全にふっ拭されたのを確認して、ボクはねむいと言って自室に引きこもる。
勉強机に子供用のベッド。本だなには形ばかりの参考書が入っている。小学校に入学した直後に、息子の将来を期待した親バカな父親が全ての教科一式分を買いあたえたものだ。今では書だなでほこりをかぶったまま放置されている。一見、どこにでもある小学生の子供部屋だ。もちろん、書だなの後ろにかくし部屋があって武器一式が置かれていたり、地下への通路が続いているなんて事はない。ボク自身は一介のどこにでもいる小学生だ。ただ一つを除いて・・・
僕には前世の記憶がある。僕は三十代で一度不慮の事故で死に、現代に転生し、成長して今に至っている。僕が妙に大人びた心情や言葉を使うのも、前世の記憶に引き摺られているせいだ。小学生前は大人の心と子供の身体のギャップに苛立ったり、息苦しさを感じていた。でも今は小学生高学年になり、お互いの擦り合わせも上手くいっている。当時の僕を見て、母親や父親は妙に反抗的で変に大人ぶった子供に見えただろう。今もその片鱗は残っているけど。
僕は自室に入るとベッドの上にダイブする。何かの拍子に右腕を動かすと、ピリッとした痛みが走る。気のせいかと思い再度動かすと確かに痛みと違和感がある。先日の野球で痛めたらしい。予想していたけれど、あのフルスイングは子供の身体には堪えたのだ。当日は色々あって気がつかなかったのだろう。
(明日は病院だな)
僕は小学生らしくない仕種で肩を竦めた-