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君のオレンジなんか救けなきゃ良かった  作者: 綾沢 深乃
「第1章 彼だけが知っていた彼女の様子」
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「第1章 彼だけが知っていた彼女の様子」(1)

(1)


 ホームルームを終えて放課後になると、和倉彩乃はすぐに教室を出た。隣の席の三嶋澄人は後を追いかけて教室から出る。


 放課後特有の解放感から廊下にいる生徒は皆、浮き足立っているが、そんな事は彩乃には関係ないようで、彼女は生徒達の間をスルスルと抜けていく。その後ろを澄人も同じようにして続く。一応、気付かれないように距離を開けているが本人は前しか向いていないので、大丈夫だろう。


 彩乃が今の行動を約一時間前から考えていた事を澄人は察していた。彼女は六時間目の途中から、シャーペンを持っているだけで動かさなかったからだ。その代わりにじっと黒板の上にある時計を睨んで授業が終わるのを待っていた。


 そのもどかしさは表情から隣の席の澄人にも伝わっており、教室の後方では二人が長針の進みの遅さを感じていた。


 やる気のない担任の連絡事項だけのホームルームが終わると、頭にオレンジ色の栞を挟んだ彩乃は、帰り支度をせずにすぐに教室から出て行ったのだった。彼女は廊下を早歩きで進み、昇降口まで降りていく。そして、上履きのまま重たいガラスの玄関扉を開けた。


 履き替えている暇はない。


 澄人は彩乃に倣って、上履きのまま外へ出る。地面の固い感触が薄い上履きから伝わり、それが非日常的な感覚を呼んだ。彼女は一度も振り返る事なく、黙々と足を進ませる。


 運動部の生徒が続々とグラウンドへ出て行くのを横目で見ながら澄人は前方の彩乃を追いかける。彼女は外を掃除中の生徒達を抜けて先程まで授業を受けていた校舎横まで来た。そして、そのまま緑のペンキで塗られた非常階段を上っていく。


 カンカンと足音を鳴らして、彩乃は休む事なく上っていく。後ろを歩く澄人はどうしても足音が鳴ってしまうので、気付かれないか心配したが、相変わらず彼女は振り返る様子がない。斜め下から見える視線は真っ直ぐ上を向いていた。彩乃が向かおうとしているのは、屋上。


 澄人と彩乃が通うこの学校は、防犯上の理由から校舎から屋上へ直接上がる事は出来ないよう、施錠されている。


 しかし、校舎に設置されている非常階段からならば、辿り着く事が出来る。勿論、五階分の階段を上がる根気が必要となるが、彩乃の足取りから、それは持ち合わせているようだった。


 一定のリズムを保った彩乃は屋上へ到達する。流石に屋上に上がる訳にはいかないと澄人は最後の階段で身をかがめて、様子を伺った。


 屋上は校舎内からは誰も入れない事、グラウンドから見えない位置にある事から、立っていても注目は浴びない。彩乃の腰より少し高い位置にある白の真新しいフェンスがこの場所に長い間、誰も訪れていない事を証明していた。


 彩乃は白のフェンスに両手を置いて、まるで毎日やっているみたいな軽やかな動作で、向こう側へと飛び移った。この時点で澄人は立ち上がり、屋上へと入る。彼が入っても、こちらを振り返らないのは、本当に気付いていないのか。それとも気付いていて敢えて無視しているのか。


 屋上に入ってから初めて感じる下から吹き上げる風。鳥にならないと見られない。遠くの山々まで見渡せる景色。それらが今、眼前にあった。


 彩乃はその風を受けて、肩まで伸びるインクを落としたような黒髪をバサバサとなびかせていた。その姿に思わず見惚れてしまっていた澄人だったが、彼女は両手を広げた途端、駆け寄って手を伸ばす。


 白く細い彩乃の右手首をしっかりと掴んだ。


 突然、強い力で掴まれた彩乃は両肩が跳ねる。こちらを向いて固まっている彼女に澄人は風に負けない大声を飛ばす。


「早く! こっちに来てっ!」


「……うん」


 澄人の訴えに彩乃はコクンと頷いた。てっきり抵抗されるのかと気構えていたのに予想外の素直さで今度は澄人が驚く。彼に手を掴まれたまま、彼女はフェンスの向こうからこちらに戻る。戻る動作は先程よりぎこちなかった。


 そのまま座り込む二人。澄人はもしあと数秒、自分が止めるのが遅かったら今頃どうなっていかを想像して思わず、背筋が震えた。手首を掴まれた彩乃は下を向いたままだ。長い髪に隠れて表情は読み取れない。彼女の頭に挟まっている栞は教室で見た時からずっとオレンジ色だった。


 風になびく彩乃の栞を目で追っていた時、彼女が顔を上げた。


「手、離して」


「あっ、ああ」


 指摘されて彩乃から手を離す。白い腕首に自分の手の痕が赤く残っていた。


「痕、ごめん」


 命を助けた側の自分がどうして謝らなければいけないのか。反射的に頭を下げた澄人は次の瞬間にはそう疑問を抱く。


 その時、彩乃の手が彼の頭にポスッと乗った。重さを感じない羽のように軽やかな彼女の手の感触が頭頂部から伝わる。何故か頭をさすられた。


「えっ? 何?」


「ううん。何も」


 頭を上げて聞き返すと彩乃は乗せていた手を素早く離して、後ろへと回す。


 僅かな時間、沈黙が生まれた。


 彩乃が行おうとしていた行動を助けた澄人。考えられる次の行動は彼女から動機を聞く事だろうか。


 だが、今までまともに話した事のない自分にその役目が務まるのか。


 不安を抱きつつも、覚悟して「あのさ、どうして……」と口火を切った。


 しかし、彩乃は澄人の問いかけに答える事はせず、スッと立ち上がり、最初から何も無かったかのように非常階段を降りて行ってしまった。


 あまりの切り換えの早さについていけなかった澄人はすぐに降りられず、屋上に残ってしまう。カンカンッと非常階段の足音が聞こえなくなった時、ゆっくりと腰を上げた。頭にはまだ、触られた感触が残っている。


「あー、もう」


 思わず声が漏れる。


 今日一日の中で間違いなく一番疲れた。正確に言うと一日はまだ、八時間程残っているが、これを上回る事はないと言い切れる。


 澄人は屋上から降りようと非常階段に足をかける。そして最初の一歩を踏み出す前に振り返った。もういないはずの彩乃が脳裏に焼き付いていたせいで、そこには彼女の残像が微かに見えていた。


 澄人の目に残る彩乃は、両手を広げて重力に身を任せる直前だった。


 そして彼女の頭には、オレンジ色の栞が挟まっていた。

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