5.全国大会と陽彩イズム
全国大会は東京で行われるため、飛行機での移動となる。初めて飛行機に乗る虹介だが、心躍ることなく神妙な面持ちで上空での時間を過ごした。
隣に優南が座っていたが、彼女は音楽を聴いていたため、会話は一切なかった。途中、キャビンアテンダントが無料のスープを提供しようとしていたが、優南は眠っていて虹介は読書をしていたため見送られた。だんだんと味気ない時間に襲われ、あのときスープを貰っておけば、と後悔をした。
成田空港に着き、一行は山手線に乗り宿泊するホテルがある日暮里駅で降りる。東京の人の海に呑まれそうになるが迷子にならないよう必死に前へ進む。
しかし普通に歩いているだけで何人もの人に追い越される。それは谷坂も先輩方も同様だった。
東京の人は皆、何かに追われているのだろうか。
ホテルに着くと、東北三県ほどの高校と合同練習を行うことになった。雰囲気自体は全道大会の時とさほど変わりないが、一人の先輩がいないだけで雨雲を飲み込んだような気持ちになる。
谷坂が主導すると、選手らは一斉に練習を始める。電卓の叩く音は全道大会より若干静かだ。そのせいか自分の叩く音が響いて、こいつ遅いな、とか、本当に勝ち上がってきたのかよ、なんて架空の声が聞こえてくる。何も起きていないのにネガティブになるのは、心が弱っているからかもしれない。
一セット目が終わり、虹介は復習に取り掛かる。全ての問題が解けるわけではないが、確実に解ける問題を落としてしまった今回は深く反省しなければいけない。
解きなおしていると、「間違ってるじゃない」と優南が言った。すかさず「すみません」と言ったが、優南は「どこ分かんないの?」とまるで別人のような優しさで接する。
虹介は少々驚きつつ、素直に「割引の問題です」と言った。
「ちゃんと読んだ? 翌々日に割り引くって書いてるでしょ? それに両端入れって書いてるから日数計算をしっかりメモしなさい。これはちゃんと読めば解ける問題だから。あと今回ならこの仲立人の問題解けるから」
優南は虹介のシャープペンを取り上げると余白に計算式を綴る。やけに優しい優南に違和感を覚えながらも虹介は必死に説明を聞いた。
「買い主の支払総額と売り主の手取金が書いてて、買い主の手数料は売り主の手数料の1.2倍より九八〇〇円多いって言ってるから、これが手数料の差になるの。それでさっきの支払総額から手取金を引くと手数料合計額が出るじゃない。それで手数料の差と合計額で式が作れるから、解けるわよ。OK?」
虹介は話を聞きながら式を考え、それを書いた。
「こうですか?」
「おう、できんじゃん」
「ありがとうございます。……なんか今日優しいですね」
「うるさいなぁ。ほら、他の問題も解いて。落とす問題を選ぶのよ」
「はい、分かりました」
「……絶対優勝しようね」
優南はそう言って自分の席に戻った。虹介はその後ろ姿に向けて、「もちろんです」と誰にも聞こえないような声で言った。
そして練習は無事終えたが、不安な要点を残した虹介は明日が来なければいいのに、と考えていた。
その晩、谷坂は「ゲン担ぎだ!」と言って、ホテルから徒歩十五分ほどにあるとんかつ専門店に連れて行ってくれた。普段食べることのできないような値段のとんかつはとても美味しかった。味に集中出来たらよかったのだが、虹介の頭の中はパニックになりそうなくらい明日を怖がっていた。
「畠中、美味いか?」と向かいに座る谷坂が訊いた。
「あ、はい。とても美味しいです」
「緊張すると思うけど、その緊張度合いだけ本気で挑んでるってことだから。いつもの練習を思い返せば大丈夫だから」
「……頑張ります」
とんかつも食べ終え、ホテルまで移動をする。谷坂と二年生の二人が前を歩き、隣にみのりがいる。目も合わせることなく、二人は黙って歩いていた。
すると横断歩道で運悪く信号に引っかかり、前を歩く三人と別れてしまった。谷坂は振り返り、先に行ってるから、というようなハンドサインをした。隣にいるみのりが両腕を使って丸を作った。
「昨日のことなんだけどさ」とみのりが赤く点灯する信号を見つめて言った。「陽彩と何を話したのか訊かないけど、陽彩をつらくさせることはしないでね」
「しないですよ、そんなこと」
「じゃあ諦めてるってことね」
「……そうです。それに明日の大会で良い報告が出来ればそれでいいんです」
「良かった。てっきり陽彩のことを泣かせるようなこと言ったのかと思ったよ」
「え、泣いてたんですか?」
反射的に返事をした虹介はみのりを横顔を見つめた。みのりは少しだけこちらを見たが、大きな咳払いをしてそれまでの違和感を吹き飛ばしたようだった。そしてみのりは「なんでもない」と言った。
「みのりさん教えてください。どうして泣いてたんですか?」
すると赤く点灯していた信号は青竹色を放ち、それが灯ると同時にみのりは歩き出した。同時に人の海に巻き込まれてみのりの後ろ姿は見失ってしまった。
もうそれどころではない、皆とはぐれてしまう。人の海をかき分け、逆流する人に負けぬよう体の向きを何度も変え、点滅する横断歩道を渡りきる。数十センチ先にいるみのりが探すしぐさをしていて、虹介を見つけるとホッと胸をなでおろした。虹介は早歩きでみのりのもとへ向かう。
「よかった、見失ったから焦ったよ」
「いえ、はぐれなくてよかったです」
あの一連の出来事があったから、お互いあの話題に触れることはなかった。よそよそしい会話だけをしながらホテルに入り、各々部屋に戻る。
北陵商業の男は虹介のみであるため、秋田代表校の男一人と同部屋になった。とても気まずい空間になるが、彼はイヤホンを身につけて音楽を聴いていたため各々の世界に隔てられ、それは虹介にとってありがたかった。虹介は明日の全国大会に向け、応用問題の解きなおしをしていた。
すると音楽を聴いていた彼がこちらに来て、「なんか教えようか」と言った。敵の成績を上げようとする行動にとても不思議に思い、「そんなことしていいの?」と純粋な気持ちをぶつけた。
「別にいいんだよ。同じ部屋だからってわけじゃないけど、お互い教え合うことで学ぶことってあるから。俺のためでもあるし、君のためでもあるから」
「じゃあ遠慮なく」
それから約一時間、応用計算の解き方を教えてもらった。彼の説明はとても論理的で数式がかなり省略されていて、その式を理解するのに何回も質問をしてしまった。結局、最後に書かれる式は虹介が普段教えてもらうような詳細を書いた式だ。
そのときに、「こんなに情報量多い式書いてたら解ける問題も解けないよ。ある程度ステップを飛ばした式を書けるようにしないと太刀打ちできないよ」と言われた。
ここで初めて、虹介は電卓の記憶機能を多く使ったやり方で、式を書く無駄時間を学んだ。とても遅い学びだが、改めて解きなおすと、普段一分かかる問題も式を書かないことで半分で解けるようになった。
「その調子、君って一年生でしょ?」
「はい、なんで知ってるんですか?」
「同部屋だって聞いたときに言われたからね。ちなみに俺は三年」
「だと思いました」
「後輩に教える感じで、俺のノウハウも教えるよ。自分で言うのもあれだけど結構ためになると思うんだ」
「ためになります」
「な? だけど君と同じで、後輩の奴らはみんな情報量多い式を書くんだ。その時間無駄だって言ってもまだその問題にぶつかったことがないから」
「僕もそうでしたけど、その理論を聞いてとても時間が省略されました」
「良かったよ。あ、そう言えば君の高校って橋本陽彩って人いるでしょ」
突然その名を言われたことにより、虹介は動揺を隠すためにわざとシャープペンを落とした。
拾おうとすると彼が先に拾ってくれ、「ありがとう」と言った。そのころには少し心臓は落ち着いた。
「陽彩さんですよね、いますよ」
「あいついないけど、大会でないのか?」
彼は陽彩の存在を把握しているが、陽彩の病気のことを話していいのか躊躇いが生じた。知らないところで噂になるのは迷惑にあたると思い、虹介は「手首骨折したみたいで」と嘘をついた。
「それは残念だな」と彼は悔しそうに言った。「一年生の冬頃な、東北合宿つって三泊くらいして合宿する行事があるんだよ。そのときに隣になって全部の点数が同じでライバル意識が勝手に芽生えてな、ずっと競い合ってた。俺が女相手にむきになるなんて思ってなかったからすげぇ覚えてんだ。それで俺が解けない問題に出くわしたとき、あいつが教えようとしたんだ。そのときは見下しやがってなんて思ったりして性格が悪かったが、あいつの教え方はすごく分かりやすかった。それに何があってもずっと笑顔なんだ。次のセットで俺の方が点数多いと褒めてくれんだ。こいつはどこまで優しいやつなんだろうって短い期間で考えさせられたよ。あ、ごめんな。話過ぎた」
「いえ、大丈夫です。もっと話聞きたいです。じゃあ二年生の頃も同じだったんですか?」
「そうだな。その前に二年のころの全国大会で久しぶりに会って、お互い頑張ろうなんて言ってた。結果は同じ点数で三等だったよ。そのときに『来年は一緒に優勝しようね』なんてバカみたいな約束しようとするんだ。でもその顔からふざけてるなんて感じ取れないから、約束を交わしたよ。それで次の合宿で、お互い同じ点数の同率一位として首位を守ってたんだ。顔見知りから始まってるし応用問題満点同士だと周りが復習する時間に無駄話ばっかりしてたんだ」
「どんなこと話してたんですか?」
「本当にどうでもいいことだ。進路とか趣味とか恋路とか。正直、あいつが彼氏いないって聞いたときは驚いた。どこを取っても非の打ちどころがないように思えたからな。その後の休憩時間に二人でコンビニに行ったことも覚えてるな。そのときに『明日最後だから一緒のスイーツ買おうよ』なんて言ってたな。だから二年の頃は楽しかったな。また来年もこの雰囲気で会いたいなって思うくらい。だから全国大会で会うの楽しみにしてたんだ、俺」
「陽彩さんはいい人ですよ、本当に」
「だよな。初対面の性格悪い男にも優しくするもんだから、あいつは気づかないうちに人を好きにさせるような人だと思った。君はどうだ?」
「……正直惚れそうですね」
「だよな。俺も二年の合宿終わってから急に空しくなったんだ。これって元カノと別れたときの感覚に似てるなって。あぁ、俺はあいつのこと好きなんだなって思ったよ」
「告白する予定だったんですか?」
「決めてなかったが、終わるころにはしてたんだろうな。まぁいないなら忘れるしかないけどな。連絡手段もないし、いい思い出だったって胸にしまっておくわ」
虹介は思考を巡らせ、最適な答えを探す。
彼の思いは、悲しいが永遠に叶わない。だがただの選手ではなく、陽彩さんにゆかりのある人だ。僕が勝手にやっていいことではないが、陽彩さんが死んでしまうまでに会わせたい。
「連絡先を教えることは出来ますよ」
「んー、やっていいものなのかな。なんかずるい感じがして躊躇うな」
「じゃあやめときますか?」
「いや、教えてくれ。俺は結局好きなんかな、あいつのこと」
「そうだと思いますよ」
虹介はまず自分の連絡先を教えた。
「畠中虹介って言うんだな。遅くなったけどよろしくな」
「はい、えっと……、しちごさんかけさん?」
「やっぱ初見じゃ読めないよな。これで七五三掛って読むんだ」
「すみません、読めなくて。よろしくお願いします」
虹介は続けて陽彩の連絡先を教えた。
「ありがとうな。ちょっと送ってみるわ、俺のこと覚えてるかどうかも知りたいし」
「覚えてるといいですね」
虹介はそう言うが、絶対に返信がこないことを知っているため「陽彩さん、普段スマホを触らないので一か月後とかに返信くるかもです」と嘘を伝えた。
「おう、了解だ」と七五三掛は答えた。希望に満ちた表情をする七五三掛を見て、愛想笑いをした。
その後は再び応用問題のノウハウをたくさん教えてもらった。だがすぐに取り込むと調子が狂うかもしれないということを言われ、可能な範囲で七五三掛式を行うことにした。それだけでも、普段五分ほどかかる易問である数問は三分で解き終わり、他の難問に割く時間が多くなったことはメリットだった。
それに七五三掛は普通計算でパーフェクトを記録したことがあるらしく、優勝候補として恐れられているらしい。底辺の成績に近い虹介だが、七五三掛は「明日はお互い頑張ろうな」と優しく声を掛けてくれた。
彼は少なからず、陽彩の優しさを受け継いでいるみたいで、それが安心感となって心に余裕ができた。
練習を終えた後は七五三掛が買い溜めていたコンビニスイーツを食べた。彼のルーティーンらしく、大事な日の前日は甘いものをたくさん食べてリラックスをするらしい。七五三掛は何個かスイーツを分けてくれた。スイーツを食べながら進路や趣味、恋路について語り合った。
もちろん、陽彩が好きだという虹介の気持ちは深く閉ざした。七五三掛は北海道にある国立大学を受験するようだ。陽彩さんがいるからですか、と訊くと照れ笑いを浮かべながら否定し、「単純に北海道が好きだから」と答えた。
道産子としては嬉しい言葉だった。今日まで不安で、明日が来なければいいと思っていた全国大会は、七五三掛の存在のおかげで楽しみになっていた。いや、陽彩の影響を受けた彼の言葉や形姿、親切のおかげなのかもしれない。
そんな優しさに包まれて、憩いの時間を過ごして全国大会前日は役割を終えた。
朝、目が覚めると七五三掛は歯磨きをしていた。虹介は慌ててスマートフォンで時刻を確認すると、六時半を過ぎたところだった。少し余裕がある時間だが虹介は起き上がり、置きっぱなしにしていたペットボトルの緑茶をぐいっと飲んだ。
「おう、起きたか」と歯ブラシを咥えながら言った。
「おはようございます」と虹介は軽く頭を下げて言った。
「ちょっと朝早いけど出かけないか?」
七五三掛は突然そう言った。頭がまだ正常に作動していない虹介はその言葉の意図を理解しようとする。結局悩ませて首を大きく右に傾けると、「起きてっか?」と歯磨きを終えた七五三掛が覗くように見てきた。
「いや、こんな朝早くどこに行くのかなって」
「甘いものでも買いに行こうぜ」と七五三掛は微笑みながら言った。
「でも無断で外に出たらダメなんじゃ……」
「なんか言われたら『七五三掛さんが誘ったんです、断れなかったんです』って言っとけ」
「本当に庇ってくれます?」
「庇うさ、嘘はつかない」
「じゃあ行きます」
虹介は急いで顔を洗い、寝癖を直して制服に着替えようとすると、「私服の方がいいかもな」と助言を受け、翌日着る予定の私腹を取りだしてそれを着た。
準備を終え、二人は部屋を出て、そのままホテルを出た。
朝であるにもかかわらず東京は忙しない。行き交う人のほとんどがスマートフォンを操作するか耳に当てている。中にはホスト帰りのような千鳥足の女性もいれば何の仕事をしているか分からないアロハシャツを着た男もいる。
東京は同じ人間でも様々な種類がいて——人間を標本にするならここで全て揃いそうなくらいもってこいの場所だ。
二人は最寄りのコンビニに立ち寄ると、七五三掛はカゴを持って迷うことなくスイーツコーナーに向かった。
「七五三掛さんってスイーツ好きですよね」
「あれ、知らないのか?」と驚いたような顔で訊いた。
「そりゃあ、あれだけ昨日食べてたら七五三掛さんがスイーツ好きなことは知ってますけど」
「ん? ちげえよ。あいつもスイーツ好きだろ」
あいつという二人称が誰なのか、それはすぐに分かった。
思い返しても、とくに陽彩がスイーツに目がない光景は——いや、一度だけ目にしたことがあった。
全道大会のとき、お菓子を奢ってくれた際に陽彩はスイーツを大量に購入していた。
「じゃあ、陽彩さんに影響されて?」
「んー、なんというか。元々スイーツは好きなんだけど、この前みたいなルーティーンはあいつと同じなんだよ。それで昨日の話に戻るけど、一緒にコンビニ行ったときにこんな感じでいつもスイーツばかり買うんでさ、影響されちまったってことよ。俺って流されやすいよな」
「大事な日の前にしかしないんじゃないんですか?」
「これは単純に俺の嗜好品だ」
そうなると陽彩はなぜ、合宿の最中に一緒のスイーツを購入したのか気になるところではあるが、単純な思い出創りだと考え、虹介は熟考の入口を引き返した。
七五三掛はスイーツを一つ取ると、「畠中も何か買った方がいいぞ」と促され、同じものを購入した。
ホテルに戻ると、七五三掛の高校の顧問と遭遇したが、いつものことなのか注意は何もなかった。だが虹介に「気づかれんように帰れよ」と言った。彼が相当な実力者だから連れも甘く見ているのだろうか。
部屋に戻ると、朝食の時間が近づいていたため制服に着替えて朝食会場に向かった。ここでは学校ごとに分けられるため、ここで七五三掛と一時的な別れをした。谷坂が座っている席を探し、足を運ぶ。
「おはようございます」と虹介が挨拶をした。
「おう、おはよう。よく眠れたか?」と谷坂は訊いた。
「熟睡しました」と当たり障りない答えを言った。
そんな会話をしていると、遅れて優南と純礼、みのりが顔を出した。三人は同部屋らしいため同時刻に来た。
ホテルで朝食を済ませ、出発時刻の数分前にエントランスにいるように支度を始める。どうやら北海道と秋田の高校は顧問同士が仲良いためか、先輩たちも面識があるようだ。それ故か、翌日の東京観光は合同で行われるらしい。
それを知っている七五三掛は、「明日はここのスイーツが食いたいから、一緒に行かないか」と大会のことを忘れているような話題を持ちかける。
ひとまず虹介は「いいですよ」と上辺の返事をした。
準備を終え、エントランスに向かうと虹介と七五三掛以外の人が揃っていた。そして谷坂と秋田の顧問が人数を確認すると、「じゃあ行きましょう」と谷坂が言い、ホテルを後にした。
人で溢れかえる山手線に乗り、痴漢と間違われないように両手で吊り革に捕まる。そう教えてくれたのは七五三掛だった。彼の言うことに間違いはないと信じ込んでいるためか、訝しがられる周りの目はとくに気にならなかった。
有楽町駅につくと、人混みを避けつつ電車を降りた。はぐれそうになるが、背の高い七五三掛をすぐ見つけることができたため、置いていかれることは無かった。
徒歩五分、全国大会の会場である帝国ホテルに着いた。エントランスをくぐってエレベーターに乗り、普段は宴会場として用いられる大広間に向かう。そこが今回の戦場となる。
一流ホテルということもあり、一番奥まで歩けば数分はかかりそうだと思えるくらい広かった。外光は全くなく、温かみのある電球色は異世界に踏み込んだような緊張感があった。
「こっからは敵同士だな」と七五三掛が言った。
「自分なりに頑張ります」と虹介は言った。
全道大会とは違く、様々な方言が飛び交うことで全国大会に来たのだと実感をする。北海道は必然と一番目であるため、またもや前から詰める形になり前の方に北海道組の席がある。一番前にみのり、続けて優南、虹介、純礼と座る。
会場は重たい空気に包まれ、隣に座る千葉代表の女子はカタカタと静かな音で電卓を打っている。
「……なに?」と彼女はナイフを突き刺すような口調と目つきで言った。
「いえ、なんでもないです」と言ってすぐに視線を逸らした。
虹介は開会式まで指ならしを始めた。陽彩が教えてくれた練習方法を一言一句脳内に反芻させ、実行する。
入部当初と比べると、全ての指が意思を持って動いているように感じる。短い期間だが、先輩に追いついたという錯覚を覚える。
会場内に鳴り響く電卓を叩く音は、遠い町の方で銃撃戦でも行われているかというくらい激しかった。
そのサウンドは虹介を焦らせ、だんだんと心臓の音にも悩まされる。震えはじめる左手に手汗が滴る右手。緊張状態はどうやら限界を超えているようだ。
虹介が以前、陽彩から教えてもらった深呼吸を実践するが、緊張はおさまらない。そして開会式が始まろうとしているのか、隅の方で偉そうな大人たちが話し合っている中、白髪が光り輝く一人の男が動き出した。
その男は分厚いファイルを持って演台の前に立つと、「静かにしてください」と一言。数秒後には無音に近い状態になった。
「これから開会式を始めます。全国商業高等学校協会を代表しまして、理事長の長谷川から挨拶があります」
そう言うと、眼鏡をかけた細い目をした小太りの男が登壇する。そして長々と電卓の歴史であったり、近年の企業経営の状況、粉飾決算の社会問題など話し続けた。それを聞き流していたせいか、緊張は徐々に和らいだ。
話し続ける男がだんだん汗をかくと、上から降り注ぐ照明が輝かせ、デコレーションをしているように思えて笑いをこらえるのに必死だった。
男が話し終えて降壇して、しばし時間を空けてから始めるようだ。トイレ等を済ませる人たちが席を立ち、残った人たちはお菓子を食べたり動画を閲覧している。
隣の女子も席を立って、視界はやや広くなった。虹介は彼らの様子を見て、朝に買ったスイーツを食べようと考えた。
椅子の下に置いたバッグから、プレミアム商品となっていたエクレアを取り出し、それを味わって食べた。糖分を補給したことにより疲れが吹き飛んだような気がして、今ならどんな困難も乗り越えられる気がした。
休憩時間、仲間同士の会話は一切なく、各々が自分の世界に入って臨戦態勢を整えていた。虹介の頭の中では、優勝への道が陰りなく見えていた。最低限、やるべきことを果たせば、後は先輩たちがまかなってくれる、と。
そして時間が来た。ややイケメンな男が前に用紙を配る。ここは全道大会と同じのようだ。合図が行われると、その用紙は後ろに回ってくる。用紙を貰った際、優南の表情は酷く固まっていた。その表情が頭に焼き付いたまま用紙を後ろに回した。
「では普通計算を始めます。……よーい!」
男の合図でここにいる約二百人が同時に用紙を裏返しにする。その音は、本当に用紙を裏返しているだけなのか、疑うほどだった。
「はじめ!」
その合図と同時に場内は銃撃戦のような音を轟かせる。その音に驚き、怯み、虹介の左手は突然震えはじめた。
あれ、リラックスしてさっきまで震えが止まっていたのに、どうして……。
そんなことを考えていても時間は過ぎてゆく。虹介はがむしゃらに目の前の問題にとりかかる。
やばい、ミスタッチをした。あ、字が崩れて読めるのか怪しい。……またやらかした。次ミスしたら殺されるレベルで許されない。
虹介はたかが乗算と除算で数回ミスをした。裏返すころにはメンタルが半壊していた。だが心を入れ替え、見取算は精神を研ぎ澄ませる。
その結果、解いた五問はミスはしなかった自信はある。だがそれは決して良いことではない。如何に乗算と除算でミスをしないかが問われる普通計算では、もはや無意味なことだった。
普通計算が終わったとき、虹介はすぐに反省を始めた。
これは緊張感の欠如、一瞬の気の緩み、精神の弛緩と言った油断が招いた不幸だ。そんなつもりはなかったが、いつの間にかそんな心境になっていたことに気づかなかった自分に責任があると虹介は深く心を痛めつけた。
団体での点数は、虹介の数問のミスで大きく順位が動いてしまう責任の重さをこのときは知らなかった。焦りで溢れる表情は、誰もが心配するものだった。
全国大会では、普通計算と応用計算との間に約十分ほどの休憩時間が設けられる。虹介は逃げるようにトイレに駆け込んだ。突如訪れた吐き気は抑制することができず勢いよく吐き出した。
決して昨日のスイーツが原因というわけではない。ただ自分の愚かさが露呈し、見えない敵に圧迫され、それに耐えきれなくなった、そんなところだ。
トイレを出ると、見知らぬ男子から、「大丈夫ですか?」と心配されたが、「大丈夫です」と目も合わせずに言った。
水道で口をゆすぎ、若干喉の奥で違和感を覚えるが、そんなことを気にせずに次の応用問題はとるべき点数を確実に獲得する、そういった意識を一点に集中させる。
会場の戻ると、不安げな視線が送られていると勝手に思い、おのずと喉の奥から酸っぱい液が送られてきそうになる。席に座ると後ろの方から七五三掛がやってきて、「どうだった?」と肩を叩いて言った。
「やばいです、かね」と虹介は本質は言わずに濁した。
「そっか。じゃあ応用計算は頑張れよ」と言って七五三掛は去って行った。
それがまたプレッシャーとなり、思考回路はショート寸前だ。暑くもない、むしろ冷房が効いて肌寒いくらいの空間で汗が滲み出てきた。
休憩時間が終わり、応用計算が始まった。「はじめ!」の合図で用紙をめくる音は普通計算のときと比べるとまばらで音が優しめだった。
一通り問題に目を通して解けると感じた問題にチェックをつける。そのチェックをつけた問題を解き終え、約三分の時間が経過した。
これは七五三掛式のおかげで他の問題に割く時間が増えた。ここから解けるが、少し時間のかかる問題に着手する。虹介は問題文を読みながら大事なところを丸で囲んだり線を引いたりして全文を読む。
そこから丁寧な式を作り、代入して答えを出す。簡略な解きなおしを行い合致していることを確認し、次の問題に移る。
ふと隣を見ると、シャープペンを置いていて電卓をひたすらタッチして、全て解き終わったのだと焦り始める。背中を火で炙られているような感覚に陥り、冷静さは完全に欠いてしまった。
絶望の最中、虹介のぼやけた脳内に陽彩の笑顔が映し出された。だがその笑顔は徐々に雲がかかって軽蔑するような目つきになっていた。そして、「だから忘れなさいって言ったのに」と崖に突き放すような一言をもらった。
実際、虹介の頭の中では崖から落ちた映像が映され、海に全身が沈んたとき、幻想から帰ってきた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
鳴り響く電卓の音が徐々に静かになっていることから、終わりにさしかかっているのだろう。
虹介は残された時間でもう一つ解けそうな問題に手を付ける。いつもは解けないような問題だが、今回ばかりは頭が冴えて三十秒未満で答えを出すことができた。七五三掛式のおかげとも言えるだろう。
答えを書き終えると、「止め!」という男の声がかかる。自分の中では上出来だと思うが、普通計算も合わせると結局は底辺のような成績になるのかもしれない。
虹介はそのことに焦った。先輩たちに合わせる顔がないのだから。虹介は、休憩時間が始まる瞬間、また逃げるようにその場を立って会場から身を消す。
*
「あれ、虹介くんどこ行った?」とみのりは純礼に訊いた。
「終わるや否や走ってどっか行っちゃったよ」と純礼は言った。
みのりはあたりを見回すも、虹介の姿は見つからず訝しい目をする。みのりはひとまず緊張の緩和から尿意を催したためトイレに向かった。
個室に入って用を済ませながら、みのりは点数について自信が無いことを想い出し、項垂れた。トイレでは個室の外で選手たちの会話が聞こえる。どうやら相当自信があるのか、「優勝もらったわ」と戯言を言っている。みのりは用を済ませて個室を出ると、自信に満ち溢れた顔と目が合い、逸らすように水道に向かう。
当然、誰かが話しかけてくるわけではないが、とても居心地の悪い場となっていた。
みのりもまた、全力を出し切れなかった一人だった。
少し外に出て、頭を冷静にさせよう。
そう思ったみのりは大広間から少し離れ、エントランスに向かった。人が比較的少ないここでは、空気が澄んでいた。人という異物が混じる空気はドーパミンを刺激させ、だんだんと不快になる。
みのりはメインロビーにあるフカフカな椅子に腰を掛け、天を仰ぐ。
はぁ、優勝目指すなんて言っていたけど、三等すら怪しいかもしれないなぁ。あ、隣に人がいるの気づかなかった。この人も絶望したようなオーラを放っていて似た者をかんじ……あれ?
みのりはその絶望する男性が虹介だと気づくにはそこまで時間がかからなかった。顔は全く見えないが、なぜだか分かる。
みのりはその脇腹を人差し指でつんつんとつつく。ビクンと反応する虹介はこちらの姿を確認すると、また項垂れた。今度はさっきより深く。
「どうした、少年よ」
「もしかしたら、俺のせいで優勝できないと思います」
「虹介くんも失敗したか」
「はい。……え? ”も”ってことはみのりさんも?」
「やっぱり精神状態が万全じゃなかったよ、ごめん」
「いや、それはこちらもなんで……」
「優南には悪いことをしたよ。あんなに一生懸命に取り組んで、熱心に指導もしてたのに、肝心の私がこんなんじゃ全部が水の泡」
それから時計を見て、休憩時間が終わろうとしていたため、「戻ろっか」と虹介に言って、会場に戻った。
席に着くと、谷坂が足早にやってきて「どうだった?」と訊いた。みのりは「頑張ったんですけど」と言葉を濁した。谷坂は「そっか。でも結果はまだ分からないからな。陽彩に良い報告できるようにしような」といつもの笑顔で言った。すぐに笑顔をつくって「はい」と答えた。
*
完璧だ……。
優南は応用計算を解き終わった後、心の中でそう呟いた。初見の全国大会の問題は極めて難しい難易度だが、全て解き終え、かつ見直しをしたときの答えと合致した。
これで彼の点数が低くても優勝が狙える気がする。
すると優南は後ろの方でみのりと純礼が会話した声が聞こえ、飲み物を一口飲んだ後、振り返る。そこにはみのりの姿はなかった。
「何話してたの?」
「畠中くんどこ行ったの? って訊かれたからあっち行きましたよって」
「あー、そういえばいないね。落ち込んでんのかな」
「優南がきつくあたるからでしょ」
「もうやってないから関係ないよ。それよりどう? できた?」
「んー、微妙かな。そっちは?」
「めちゃくちゃできた。優勝狙えるかもしれないくらいできた」
「凄いね、こんなときでも成績が良いなんて」
純礼はそう言うとゆっくり席を立ち、背伸びをした。彼女のスタイルの良さがはっきりと見え、他校の男子の視線が集中するのを感じた優南は周りに警戒する視線を送る。
「私はさ、陽彩さんのことが頭でよぎってあまりいい成績じゃないと思うんだ。あのハッピーオーラ溢れる笑顔を見てないから、体が重く感じちゃって」と純礼は言った。「でも優南はちゃんと打ち勝って凄いね」
言われてみれば、陽彩さんのことがよぎって思うようにならなかったとかなかった。これは悪いことなのか……。
優南はそれに気づいた途端、骨が抜けるような感覚になり、肩の力が無くなった。
「私って、性格悪いのかな」と優南は呟いた。
「どうしてそう思うの?」と純礼が訊いた。
「私は競技は競技って思ってる人だからさ、みのりさんが自分の感情で選出したことに凄い苛立ちを覚えちゃったじゃん。そこからやつあたりじゃないけど畠中くんにスパルタ指導して優勝に近づけようって思ってさ、当時は間違ってる意識なんてなかった、むしろ正しいと思ってたの。優勝が恩返し、そう思ってたのって私だけだったみたいね。だって私は競技中に陽彩さんのことは考えてなかった。普通の感情を持つ人間なら、ここで陽彩さんを思い出して普段の力が出せないのかな。性格悪い人間こそ上に行けるって、私のことを言うのかな」
「それは違うよ」と純礼が言った。「優南は誰よりも真摯に電卓と向き合ってるよ。優勝して私たちは成長したって姿を見せるためにしっかり分析して、みのりさんの選択に抗ったことも分かる。どっちも正しいんだから、仕方ないの。それに私は公私混同をしちゃっただけ。上に行ける人はしっかり気持ちの切り替えができる。性格が悪いとかじゃない。だから優南はできたの。それを責める人がいるのなら、その人の価値観がおかしいだけだから。気にしないで」
「……すぅみぃれぇ~」
優南は弱った声を上げて純礼に抱きついた。まるで迷子の子が母親を見つけたみたいに、しがみついて離さなかった。純礼は母のような温もりを醸し出して、我が子を愛でるように優南の頭を撫でた。
「優南も成長したよ。最初は負けず嫌いが溢れすぎて気難しい人だったけど、今じゃこんなに視野が広がってるんだから」
「違うよ。でもそう思われるようになったのは純礼のおかげなんだと思う」
「私はなにもしてないよ。優南が変わったんだよ」
「ううん。あ、でも今思えばね、陽彩さんがいたからそのダメな性格が穏やかになってたんだと思うんだ。陽彩さんがいなくなってから私もハッピーオーラ貰ってないから、いつもの悪い感情ばかり前に出ちゃってたのかも」
「ほお、陽彩さんって人を変える力を持ってるんだね。じゃあ帰ったら陽彩さんに報告しようよ。抱き合いながら陽彩さんのこと大好きって。みのりさんに動画撮ってもらってさ。あと優勝したことも報告するんでしょ?」
「絶対する! でも優勝かどうかはまだ分かんないけど、喜んでもらえる成績だと思うからそれもする!」
「じゃあついでに次の読上算も優勝しちゃえ」
「ゆうな頑張るね!」
*
読上算が始まろうとする静寂の中、虹介は精神を集中させようとしたが、ここで結果を残す意味が見いだせないまま問題が始まってしまった。結果、出発前に練習した成果を出せず、簡単なはずの予選の問題を全て間違って予選落ちとなった。
みのりと優南、純礼は予選通過し、虹介だけが後ろに下がる。七五三掛も予選を通過しているため全道大会とは異なり独りでその後の様子を見ていた。
お経のように数字が読み上げられ、同時に電車が通過するような轟音が場内に響き渡る。読み上げが終わるや否や答えを記入するカリカリというペンの音、その後の交換を指示する男の声音、隣の人と交換する際の紙の音、答えを読み上げる声音、全てが耳鳴りを超えて耳障りなものだった。
この空間では、圧倒的な落伍者だった。なぜなら隣にいる男女が「うちの高校の一年生残ってるよ。やばくね」という会話が聞こえたから。一年生だから許されることは無い、だからこそ、ここで犯した失敗は決定的な汚点なのだと会場の悪魔に思い詰められた。
陽彩さんに合わせる顔が、喜んでもらえる顔が僕には全くない。どこまでもどうしようもないクズだ、僕は。どうしよう……。
自分の中で様々な思いが絡み合い、ほどけない固結びになっている。これが血管だったらいいのに、とさえ考えたこともある。
結局、優勝したのは隣で噂されていた一年生だった。とても小柄な女の子だがいかにも完璧なオーラを漂わせ、貫禄さえ感じた。
そしてその事実は虹介の愚かさを明白にするようなことで、公私を両立できない最低人間だと知らされ、地の底へと押しやられた気がした。。
昼休憩は支給された弁当を食べたが、冷たくて固い白ご飯に割り箸をさすと、いとも簡単に折れた。それに嫌気がさした虹介はおかずにあったハンバーグを一口で食べて弁当に蓋をして、足早に会場を去った。
そろそろ休憩時間が終わって、成績発表および閉会式の時間となるが、どうせ名前の呼ばれることがないだろうと思い、ホテルの外に出た。
その場から見える東京タワーが幻想のように見え、取り憑かれた様にそれを凝視していた。
「あれ、畠中じゃないか」
背後から虹介の名を呼ぶ声が聞こえ、振り返ると火のついたタバコを片手に持つ谷坂だった。谷坂がタバコを吸う人だと初めて知った虹介だが、驚くことは何もなかった。
「そろそろ閉会式始まるぞ」
「どうせ呼ばれませんよ、僕の名前なんて」
「そんなこと言うなよ」
「取り返しのつかない失敗をしましたから、いいんですよ」
「卑屈にならなくてもいいじゃないか」
谷坂は汚れた灰色の煙を天に向かって吐いた。ほんのりと香るタバコの匂いは、なぜだか安らぐものだった。
「失敗から何か得たことはあるか?」
「いえ。強いて言えば、自分の愚かさですかね」
「そうかぁ……」
谷坂は再びタバコを吸い、まだ火が灯っているタバコを携帯灰皿でこすり潰した。
「畠中は最初、全国メンバーに決まったときどう思った?」
「……嬉しかったです。嬉しかったですけど、荷が重いとも思いました」
「どうして荷が重いと思った?」
「陽彩さんの代役に務まるわけないし、優勝が狙えるはずの代でほとんど経験のないペーペーの一年生が出場して、輪を乱すなぁって。現に優南さんからきつい指導はありましたから」
「優南はそういうところあるからな」と谷坂は笑った。
「これは先生が学生時代によく言われたことなんだけどな」と前置きをして谷坂は言った。「歳をとれば仕事ができるなんて思ったら大間違いだって言われてさ。当時は響かない言葉だったけど、この仕事やって色んなことが起きて分かったんだ。一年生が実力で代表入りしたり、三年生が落ちた検定を一年生が余裕で受かったり、甲子園のマウンドに三年生が立たなかったり、サッカー部のエースは二年生だったり」
「何を言いたいんですか?」
「要は、そこに務まる人っていうのは決まってるんだよ、結果はどうあれ。いくら長年同じ仕事をしていても若く入った人がその上を仕事することもある。逆に、できない人がその仕事をする人もいる。畠中のケースで言えば後者だな。できないって言ってもそんなに差はないけどな。陽彩の穴を埋めることができるのは、松村じゃ務まらなかった、畠中だから変わった務まったんだよ。先生が思うに、陽彩と松村の性格は似ている。どっちも楽天的な思考で物怖じしない、周りの幸せが自分の幸せっていう性格だ。それ故に同じような人が代役に務まるっていう考えもあるが、それじゃ変わるはずだったものはそのままになる。なにか変化が欲しいから、対極にいるような人が務まるんだ。もちろん、それ以外の理由があったのかもしれないが、畠中が最適だったんだなって今日まで過ごして思ったな。結果は残念かもしれないが、それ以外で良い結果は残ったの思うよ。少なくとも、優南は成長しただろうな」
「それは誉め言葉として受け取っていいんですか?」
「あぁ、もちろんだ」
「じゃあ、良かったです。ここまでやってきて」
「引退するようなこと言ってるけど、あと二年はあるからな?」
「もちろんですよ。一生懸命自分の役割を務めたいと思います」
雨雲のような思考に晴れが生じたのは、間違いなく今の言葉が要因だろう。もしかしたら、何もできていないと思っていたが、変わったことがあれば陽彩が喜んでもらえる、そう思っただけで落伍者なりに良い立場だと感じた。
優勝より、みんなの成長。みのりはこれを目論んでメンバー入りさせたのかとも考えたが、申し訳ないがそんなはずはないと思った。だがそうなるのは必然だったのだろうとも考えられ、みのりが決めた決断はあらかじめ決められていた運命のようなものなのかもしれない。
「ありがとうございました、先生。名前は呼ばれないと思いますが閉会式に出席します」
「おう、良かった。じゃあ戻るか」
歩き始めた瞬間、谷坂のポケットから電子音が聞こえた。それはスマートフォンの着信音だった。谷坂がその画面を見ると、僅かに眉をピクリとさせ、「ごめんな」と言って少し離れて通話を始めた。
先に戻ろうとも考えたが、一人で行くのは不安だった。閉会式が始まる、もしくは始まっている空間に一人だけで行くのは羞恥があった。
そして一分も経たないうちに谷坂が通話を終えたが、その顔色は若干青くなっていた。谷坂は虹介の目を見つめ、大きく喉仏を動かした。
「畠中に先に言っておくが——陽彩が息を引き取ったそうだ」
虹介はその言葉を聞いたとき、地面に足がついている感覚もなくなり、背骨を引き抜かれたような体になって、膝から崩れ落ちた。思考回路も何もかも、人形のように何も無くなった。
流れる血液が水銀になったかのように体が重くなった。
このタイミングで陽彩さんが死んだんじゃあ、僕が殺したみたいじゃないか。




