4.淡い夜は虚しさを掘り起こす
谷坂のおかげで虹介に関する口論は無くなり、優南も落ち着いたようだ。みのりはその様子を見て大きく安堵した。
その夜、みのりは陽彩に会いに行った。
看護師から特別だと言われ、面会時間外に会うことが許された。みのりは陽彩の笑顔を想像しながら病室を訪れた。
「陽彩、来たよ」
陽彩は相変わらず口だけは麻痺せずにいたが、手や足といったほとんどが動きづらくなっていた。それに陽彩は視力が極端に悪くなり、みのりの姿はもうはっきりみえないようだ。
ゆっくり顔をこちらに向けるが、痛々しく思えて「動かなくていいよ」と言うが、本人は痛くないと言う。
「相部屋の人ね、気遣ってくれて他の病室の人と話してるって」
「なんか悪いことしちゃったかな」
「大丈夫だよ。靭帯やっちゃった人だから」
陽彩の症状比較すると靭帯断裂なんて小石のようなものなのだろう。みのりはそのことを頭の中で整理するが、一切そのことについて言葉は発さなかった。
陽彩が呼吸する度に動く体は眠っているようだ。すると看護師が来て、ベッドを折り曲げ、上半身を起き上がらせた。陽彩は笑みをこぼすが、それは感情の無い人がするようなぎこちないものに見えた。
もうあの笑顔を生で見ることは難しいのだろう。
みのりは丸椅子に座り、陽彩の左手を固く握った。その手を握っているとだんだん目頭が熱くなってきた。
「部活どう?」
陽彩がそう訊くと、みのりは潤った目を拭って「順調だよ」と答える。
「嘘だね」
陽彩は目を瞑り、僅かに動く手で握り返した。ぴくぴくと動く手は親友のものなのか、疑わずにはいられない。
「……なんで?」
「みのりの手から伝わるもん」
「さすが、私の親友だね」
「でしょ」
改めて陽彩は優しい、そのことに気づいたみのりの涙腺は崩壊し、堰を切ったかのように涙が溢れだした。その涙は陽彩のベッドに水たまりを作りそうになるほどだった。思わず、みのりは陽彩のお腹に抱きついた。
「死なないで……陽彩」
陽彩の手は緩徐に動き、みのりの髪の毛を触れた。
「そんなこと言われても、これが運命だから」
「やだ……。陽彩がいないと私、何もできないよ。学校からいなくなって気づいたよ。私の人間関係は陽彩がいなくなったら何も残ってなかった。だからもっと私のそばにいてよ……、お願いだから……」
「甘えん坊だなぁ……」
陽彩の手はとても温かい。その温もりに今まで甘えてきたことを想い出し、みのりは更に涙を流した。
「全国大会終わったらさ、しばらく休みでしょ?」
「……うん」
「そのころには退院する予定だから、余生はみのりと過ごすね」
みのりはその言葉を海馬の奥底までに刻み、ゆっくりと顔を上げた。そして陽彩を見た。微笑みかけるその姿にみのりは涙をこらえた。
笑顔でいなきゃ、陽彩に悪いよね……。自分が一番つらいんだから
みのりは決心したかのような面持ちからいつも陽彩に見せていた笑顔に変え、「ありがとう」と心の底から言葉をかけた。
「あと、お願いあるんだけどいいかな」
陽彩は目線を伏せて訊いた。よほど訊きにくいことなのか、みのりは心配する気持ちを抑えて「大丈夫だよ」と優しく言った。
「最後に部室に連れてって欲しい、かも」
「部室?」
「うん、やっぱりお世話になったし、私の人生を振り返ってみてもあの場所が一番残ってるんだなって思ったし」
「病院出ても大丈夫なの?」
「そこは何とかするよ。割とお願いごと聞いてくれる看護師さんがいるから」
陽彩は悪戯っぽい笑みを作ろうとしていた。みのりは、それを完成させるようにみのりがその表情を作った。
「全道大会終わってからにする?」
「いや、明日行きたい」
陽彩の目の奥で志が輝いていた。陽彩はゆっくりこちらを見て、「無理かな」と不安そうな表情で見ていた。
「大丈夫だけど、なんで明日?」
「なんとなく、かな」
「……分かった。行こうよ、明日」
みのりは心に雲がかかっている陽彩に晴れを与えるように笑顔を見せた。
「ありがとう、本当に」
陽彩は弾ける笑みを隠すように顔を伏せた。
みのりはその帰り道、陽彩がなぜ明日にしようと言ったのか、雨明けの夏の夜、じめっとした空気がまとわりつく中、思考を働かせた。
確かに、急ぐ要件ではあるが医者の言葉では八月末までは生きている予定だ。そういう意味であれば、今すぐにというわけではないが、虫の知らせ、というものだのだろうか。
そしてスマートフォンを取り出し、みのりは脳腫瘍について検索した。だが慣れない医学用語を目にして、スマホから放出されるブルーライトで目が疲れただけだったが、その画面に数滴の液体が落ちた。
あ……。また涙が止まらないや。
みのりは陽彩のことを考えるだけで涙があふれてしまう体になっている。失いたくない人がもうすぐで失ってしまうことに気づいたからか、いつまでも守れるものではないからか。
さよならが近づくとだんだん心が弱ってくる。今まで経験したことのない別れにどんな対応をすればいいのか、分からない。ドラマや映画ではどんな反応をしているのだろう。今までそんな映画を見たことがないから私には一切分からない。
一生に一度しかない出会いの別れ。どの人物にも当てはまるものなのに、これだけ辛いということは、本当に陽彩が大好きだったのだと気づいた。
彼女を失った後、私はどれだけの時間が経てば立て直せるだろう。ただでさえ、土に還りそうな気持ちなのだから、私も後を追ってしまいそうだとみのりは考えていた。
みのりは途中、公園に立ち寄ってベンチに座り、希望を失った少女のように酷く項垂れて、涙を大きな雨粒のように落とした。みのりが吐くため息は、どんなに綺麗に咲いている花も枯らしてしまいそうだった。
翌日の夕方、みのりは病院に訪れた。そのときには陽彩は車椅子に座り、今すぐに出発しても問題ない恰好だった。というより制服だった。その後ろには心配そうに陽彩の母がついていた。
みのりは陽彩の母に目を向け、軽く会釈をした。陽彩の母は頬骨がはっきり見える顔を伏せるように会釈を返してくれた。
みのりは陽彩のもとに向かい、視線の高さがほぼ同じ位置になるよう中腰になる。
「なに?」
「元気そうだなって」
「私はいつも、元気だよー」
ずっとそのままでいてくれたらいいな、という言葉は胸の奥にしまった。
「じゃあ陽彩のこと、よろしくね。みのりちゃん」
「はい、お任せください」
みのりは陽彩の母にできるだけ満面の笑みを送った。
みのりは車椅子の手押しハンドルを握り、「大丈夫?」と陽彩の問いかけた。
「オッケーだよ」
みのりはその返事を受け、車椅子を押しだした。看護師や陽彩の母が見送る中、二人は病院を出て、高校へ向かう。
道中、二人の会話は隙間がないほど途切れなかった。
「なんで制服なの?」
「だって学校行くじゃん」
「じゃあ私も制服着ればよかったな」
「でもみのりのその格好似合ってるよ。生脚がすごいきれいだよ」
「変態」
「それは誉め言葉として受け取りますね」
「……なんで昼間じゃなくて夜にしたの? どっちにしろ今日は部活ないんだから誰もいないよ」
「そうだけどさ。他の人の目も気になるから。極力いない時間帯を狙ってって感じ」
「なるほどねぇ」
「それにちょっと考えたいこともあるし」
「考えたいこと?」
「うん、まぁ言うけどさ。二年前に先輩に告白されたことがあるのよ」
「え!? 初めて知ったんだけど」
「だって言ってないもん、誰にも」
「え、それって誰?」
「槙田先輩」
「あのイケメンで国立大学行った人? なんで断っちゃったのさ」
「んー、分かんない。そのときは先輩のこと好きなんて思ったことないけど向こうは一生かけて幸せにするって言ってくれたの」
「ほぼプロポーズじゃんか」
「そうなの、ちょっと笑いそうになった。でも私の心ってどうもひねくれてるみたいなの。なんでそんなことが言えるの? っていう言葉がすぐに浮かんじゃって」
「大人すぎん?」
「大人、なのかなぁ」
陽彩は少しだけ首を上に向けると、「みのりはそういう話ないの?」と訊いた。
「ないよ、全く。そういう気持ちもないし」
「みのりかわいいのに」
「それを言うならあんたの方がかわいいわよ」
「へへ、ありがと」
陽彩は再び首の位置を戻すと、悩みを吐き出したようなため息をついた。
「どうした?」
「あのときに付き合ってたらどんな人生歩んでたのかなって」
「そりゃあ、順風満帆ってやつになるんじゃない?」
「分かんないよ。もしかしたら先輩が浮気性で他にたくさんの女つくったり、妊娠した途端逃げるような人かもしれないし、結婚した途端ギャンブルにはまりだすかもしれないよ」
「……嫌いなの?」
「違うよ。あくまで可能性の話をしてるの」
「だから恋人つくらないの?」
「そうなのかな。幸せなことを考えればいいんだけど、どうしてもそういう方向ばっかり考えちゃうんだよね」
陽彩は思っていたよりネガティブ思考なのか。じゃあいつもは無茶して明るさを振舞っていたのかな。一番近くにいたと思っていたけど、知らないことだらけなんだな、私。
「これから恋人つくる気は?」
「え? あるわけないでしょ。こんな病人がこれから恋人つくってどうすんのさ」
「陽彩のこと、好きな人いるよ」
陽彩は嘲笑のような笑いをした。
「忠告したでしょ。誰とも付き合わないよ、私は」
「そっか、ごめん」
「みのりは彼氏つくらないの?」
「私はそういうの向いてないから」
「そんなことないじゃん。ちゃんと抱きしめてあげたんでしょ?」
「それは陽彩が言ったからやっただけで、別に好きでもないし」
「へへ、ありがとうね、代わりにやってくれて」
「でもさ、ああ言ったってことは陽彩もちょっとは思いがあるんじゃないの?」
「あるよ。でも何もなかった最初の頃みたいに戻すつもり」
「……え?」
「最後に手紙書いてさ、ちゃんと伝えようと思う。好きになるなって。私のことは忘れろって」
「諦めるかな、それで」
「諦めるでしょ。でも分かんないからさ、私のこと忘れさせるような文章をさ、上手いこと書いてくれない?」
「え、私?」
「そりゃそうだよ。私はもうペンなんて握れないんだから。手紙は準備してないけど、渡すものは準備してるから」
「へ、へぇ、そうなんだ」
「だから、私の仕事を任せるよ、みのりに」
「陽彩の最期まで頼られるとか嬉しい、もちろん受けるよ。それ」
「ありがとう。はぁ、部室楽しみだなぁ」
少々長い散歩だったが、高校に着いた。月が顔を出し、いつもの学校が幻想的にも見えた。
「みのり、ちょっとこれ」
「ああ、ちょっとまって」
陽彩は飲み物を欲しがったため、急いでストローを陽彩の口の中に入れた。どんな感情に襲われて喉が渇いたのか分からないが、こっちまで緊張してきた。
陽彩は部室に入って何をするのだろう。ボロボロと涙でも流すのだろうか。そんなの見たら、こっちまで釣られてしまう。
二人はほとんど生徒がいないことを確認すると、小さく喜んだ。そして特別なとき以外使えない校内のエレベーターを使う。
「エレベーター初めてだ」
「私も」
車椅子でほとんど一杯になりそうな狭さだが、その空間は小さなアトラクションみたいに思えた。古びた音が到着を知らせ、扉が開く。
「もうちょっとで着くね」
「うん、みのりありがとうね、忙しいのに」
「いいのよ、これくらいなんてことないから」
次、曲がれば部室はすぐだ——というところで神様は悪戯をする。
目の前に虹介が現れた。虹介もみのりも、陽彩も驚いたようで沈黙が訪れた。喜びと悲しみ、天秤にかけるならどちらが重いのだろう。陽彩はこの偶然を喜びと捉えるか、悲しみと捉えるか。みのりはそんなことを考えながら、虹介を恨めしく睨んだ。
聴覚が仕事を放棄したとも言えるくらいこの場は静まり返っている。誰が先に言葉を発するのか、駆け引きがみのりの中で勝手に行われていた。
「みのり」
掠れる声で陽彩が名を呼び。
「……なに?」
「部室の中に私を入れたらさ、ちょっと外してもらえるかな」
「……分かった」
みのりの心の中では「どうして?」や「本当に?」と言った陽彩の気持ちを知りたいことばかりだった。だがみのりはあらゆる疑問を消し、それを受けた。
車椅子をそのまま動かすと、虹介は数歩退いてその移動を見ていた。
「ここでいい?」
「いや、もうちょっと端が良い」
陽彩が求めた場所は、一年生のころよく練習していた席だった。そのことをすぐに察したみのりは「分かった」と言い、車椅子を運び、微調整を行った。
「これで大丈夫?」
「うん。ありがとう、みのり。申し訳ないけど一時間くらい席を外してほしい」
「いいよ。じゃあ遠くの空き教室で待ってるよ」
みのりはそう言い部室を出た。呆然とする虹介と目が合い、「言いたいことあるなら言いなさい。叶わないけど」とだけ伝え、空き教室に向かった。
余計な一言だったかな。言っても言わなくても、伝えるつもりだったかな。また空回りしちゃったかな、私。
空き教室につき、真っ先に窓の先にある淀んだ暗闇に目を向けた。
今二人は何を話しているのだろう。両想いのはずの二人だが、必ず結ばれない二人。こんなに悲しい恋はあってはいけない。
大きく息を吸い、荒ぶる心臓を落ち着かせる。二人の問題がどうしても他人事に思えないみのりはうなじを両手で押さえ込み、その場にしゃがんだ。
壁に背を向け、教室内を見回すように視線を動かした。何度見ても薄汚い空き教室。今ならこの教室に溶け込むことができそうだ。
電気の無いこの空間に差し込む月の光は眩しかった。そのためみのりは目を瞑り、瞼の裏に映る景色を眺めていた。
そこに映るものは陽彩との思い出だが、決して良いものばかりではない。二人で旅行にいったこと、ホテルで語り合ったこと、どうでもいいことで喧嘩したこと。どれも映像のように鮮明に覚えていた。
逆に、これらの記憶を全て消したらどれくらい残るのだろう。少なくとも、今の百分の一にはなりそうだ。
そしてみのりは寂しさに襲われ、三角座りをして両膝を抱きしめる。
耳をすませば二人の声が聞こえると思ったが、何も聞こえなかった。今の状態で静寂は毒だった。
みのりは再び立ち上がり、夜の闇を見る。その中でいくつかの光を見て、虚しさを覚える。
窓を開け、夜の風を浴びた。寂しさで傷ついている体に染みるような冷たさだった。
一度、髪をかきあげるとその際に髪の毛が数本と抜けた。中には白髪が混じっていた。
幸せになる道は何か、それは虹介くんと同様に陽彩のことを好きになることを止めるべきなのか。そう考えると、とてもつらい。
あのときの議論と同じで、何が正しいかなんて誰にも分からない。闇の中にある答えを探しても何も見つからない。手あたり次第では見つかるかもしれないが、一度きりしかないのだ。
十八年生きてきて初めて命の重さを感じた。今なら世界で一番重いものと命を天秤にかけたら命が重いだろう。
私が陽彩の最期にできることはなんだろう。もし記憶を消すボタンがあったら、そのときの私はどんな顔をして生きているんだろう。
そう考えてしまったのは、陽彩がいない人生を想像できなかったからだ。その姿を想像するだけでも罪深いものだ。
そしてみのりは何か思い出したような表情をし、カバンから電卓を見つけ、それを床に置いた。
電卓にある一つのボタンを焼き付くような視線で見る。【リセット】だ。これは電卓に記憶したものを全て消すボタンだ。
これを押したら陽彩との記憶が消えたら……、なんて考えたところで電卓から視線を逸らし、再び電卓をしまった。
みのりは決心した。何があっても陽彩との記憶は消さないし、絶対に思い出して泣いてやる、と。
そしてこの空き教室に来てから三十分ほど経ったことを確認し、みのりは二人の様子を確認しようと教室を出て部室に向かった。
忍び込む前みたいに部室後ろの戸の窓から二人の様子をこっそり確認しようとすると、景色を眺める陽彩の姿しか見えなかった。窓が開いていて陽彩の髪の毛が微かに揺れている。みのりは気配を隠すことを止め、堂々と前の戸から入った。
いきなり声かけるのは申し訳ないと思い、みのりは二、三歩ほど大きな足音を立てて気づいてもらおうとした。すると気づいた陽彩はゆっくりこちらに顔を向ける。
だがその姿は涙で綺麗な顔が台無しになっていた。後光のような月の光が差し、陽彩が死んでしまったようにも思えた。
不安になったみのりは急いで陽彩を抱きしめに行った。陽彩の柔らかい肌の感触に触れたことにより、一つ安堵したみのりだが、続けて陽彩の精神状態を確認した。
「どうした?」
「……私は頑張ったと思うんだ」
弱った声と泣き声が融合された声は、誰もが心配するような哀愁があった。陽彩は泣きながらみのりの二の腕に手を置いた。その手は小刻みに震え、その振動でみのりも涙を流した。
「陽彩は強い、強いよ」
みのりは言い聞かせるように陽彩の背中を撫でた。毒を抜き出すように陽彩の体をポジティブな言葉で埋め続けた。そのおかげか分からないが、陽彩から涙や鼻水は溢れるように出て、みのりの肩はドロッと濡れていた。
その肩は月の光を浴びて燦然と輝き、この世の輝くものの中で一番煌めいている。
*
虹介が放心していると、陽彩が最初に声を発して部室の中に入っていった。しばらくするとみのりだけが出てきた。そして虹介の目を真っ直ぐ見ると、「言いたいことあるなら言いなさい。叶わないけど」と言われ、すぐに去った。
それはみのりにではなく、陽彩に、という意味だとすぐに理解し、何を言いたいかということも理解した虹介は自信をつけるように頷いた。
そして部室に足を向け、入室した。その一歩は初めて部室を訪れたときより重圧な空気が流れ、身長が縮んだ気がするほどだ。
窓の外の景色を眺める陽彩に虹介は声を掛けることを躊躇い、おどおどしていた。すると陽彩が「こっちに来て」と言った。その声から、以前の通話時より一際弱っていることがすぐわかった。虹介は急いで歩き、陽彩の隣にある机付近に立った。
「ずっと練習してたの?」
陽彩は窓の外を眺めながらそう訊いた。
「はい、今の実力ではどうも太刀打ちできないし、足を引っ張ってしまうので」
「頑張ってたのね、お疲れさま」
「いえ、陽彩さんのためでもありますから」
言い終えると、陽彩が少しずつ首を動かし、こちらを見ようとしていた。その動きはロボットとも言えそうだった。
そして麗しくも憂いでもある目と目が合い、虹介は息を呑んだ。
「なんで私のため?」と陽彩は言った。「確かに、全国大会に出場できないのは悔しいけど、それと虹介くんの思いはどう関係あるの?」
虹介は溜まった唾液を一気に飲みこみ、ゆっくり口を開く。
「みんなで決めましたから。優勝して一緒に陽彩さんと喜ぶって」
「へぇ、そうなんだ。なんか色々巻き込んじゃってるね、私」
「いいんですよ、巻き込んで」
「……死ぬから?」
その言葉には目頭が熱くなるものがあった。虹介は適切な言葉を思い浮かぶことができず、愁いをまとう陽彩の姿をただ眺めていた。
「ごめんね、気が滅入ること言っちゃって」
「いや、なんというか……、その……」
「いいのよ。私がその立場だったら同じような行動とると思うから」
「すみません」
「謝ることないわよ」
紺色に染まる部室に差し込む月の光は、どんなものも透明になった。その光に当たる陽彩は、今にでも消えてなくなりそうだった。
虹介は再びその憂いをまとう陽彩のつま先から頭頂部までなめるように見て、以前固めた決意が甦る。
ここで言わないと、二度と会えない気がしたから。
「陽彩さん、死なないでください」
虹介は陽彩の目を真っ直ぐ見て、訴えかけるように言った。
「虹介くんは知ってる?」
虹介はその質問に呆然とする。何を意図するものなのか分からなかったから。少し時間をおいてから、「何がですか」と質問返しをした。
「死なないで、って言うとほとんどの人がつらくなって追い詰められたようになるの。どうしてだと思う?」
「すみません、そうだとは知らずに何も考えずに言ってしまって……。でもどうしてかなんて分からないです」
「いいのよ。よくあることだし、私に余命が無かったらその言葉を使うと思うし。それにどうしてか、実際にこれから死ぬ身になって分かった。死なないでって言われても死ぬ運命しか待ってない。それに逃げ場を失われた気になるの。じゃあこれからどうすればいいのって訊くと詳細は答えないし、今の私には無理なことばかり言われる気がするの。……でも前に言われたことがあるからさ、その人が悪いなんて思わないよ。死んでほしくないのは事実なんだろうし、虹介くんもそうなんだろうし。ただそう言われると辛いんだ」
陽彩は再び窓の外を眺める。突き放された気がした虹介は心の中身が徐々に失われていく感触を覚える。同時に、徐々に決意が薄れていく感覚も覚え、決心がうやむやになる。逡巡する虹介は、あの発言を後悔するだけだった。
「すみません、僕は何もわかってなかったです。陽彩さんの気持ち」
「気持ち分かってたら、それは超能力よ」
「言いたいことあったんですけど、これ言ったら迷惑になりますかね」
虹介は陽彩の顔を見ることができず、歯を食いしばって目を伏せた。陽彩の呼吸する音だけが虹介の聴覚を刺激し、残りの静寂が次第に轟音に変わっていった。
「迷惑になるよ」
その声を聞いたときには虹介の心は崩れていた。土台がしっかり壊れた心を治すには相当の時間がかかるだろう。
だが正直、何を話すか聞いていないのに陽彩さんの返答は「迷惑になるよ」だった。気づいているのだろうか、それとも何も聞きたくないだけなのか。
虹介は一瞬それを考えたが、どっちにしろ自分は最低な人間だと思い知った。
「……そうですか」
「この場所来るとね、思い出すんだ」
陽彩は目の前の机に向かって、か弱い声で話す。虹介は「なにを思い出すんですか?」と訊いた。
「ここで告白されたことがあるんだ」
陽彩はゆっくり手を動かし、その手を机の上に置いた。机から何かを感じ取るようにその一点ばかり見つめていた。
それに陽彩さんは告白されたことがあるのか。でもそんな話は一度も聞いたことが無かった。
「……誰にですか?」
「部活の先輩、断ったけどね」
「あ、そうなんですか」
「いま安心した?」
陽彩はその一点を仄かに笑みを浮かべながら見つめる。
正直言うと、猛烈に心臓が動いた。なぜなら、僕が言おうとしていたことは見透かされていたと知ったから。
だが安心した? という質問はどういう意図があるのだろうか。それは……、いや、深く考えることは止めよう。お互いが辛くなるだけだ。
「いえ、してないです」
「そっか、なら良かった」
虹介はその返しに少し引っかかった。
結局は僕の思い過ごしだったのか。だが僕は、最初にみのりさんに言われた言葉を鮮明に思い出した。
——言いたいことあるなら言いなさい。叶わないけど。
叶わないことはいいのだが、それによって陽彩さんが辛い思いをしないのか、それが不安だった。言いたいことはあるから言いたい、でもそれはただの自己満足だ。
虹介は机を見つめる陽彩を見て、また今にでも消えてしまいそうに見えた。それが引き金となったのか、虹介の脳は焦燥感に駆られて本能の赴くまま口を動かした。
「迷惑だと思いますが、抱きしめてもいいですか?」
当然ながら、返答は来ない。微かに傾げる首に困惑した笑みを陽彩は浮かべ、「面白いこと言うね」と言った。
歯止めがきかなかったあのときの自分の脳を少しだけ恨んだ。だがそれが無ければ後悔する人生を歩むかもしれないと思ったから讃えたい部分もあった。
虹介は陽彩の前にある机の前に移動し、置いてある手の上に右手を置いた。その手はとても冷たく、骸骨のように細かった。
「なんでそんなことしたいの?」
「僕には言葉で人の感情を動かす力がないので、動作だったらお互いの気持ちを探らなくていいので」
「不思議な考えをするね、虹介くんは」
「ダメですか?」
「その考えを聞いたうえで許可するよ。でも私動けないから、自分で動かして」
陽彩は覆い被る虹介の手から手を引き、腿の上に置き、目を瞑った。虹介の心臓はまた激しく鼓動する。
虹介は車椅子のひじ掛けに手をかけて九十度右に向け、向かい合う状態になった。ねっとりした空気がまとわり、意識が朦朧としそうになる。目の前にいる陽彩の顔を見ると、もう死んでいるのではないかと思うくらい微動だにしない。
虹介はその顔を脳に焼き付け、後ろに回り込んだ。視界が良好ではない夜の部室でも陽彩の麗しい髪の毛は健在だった。
そして虹介は目の前にある失いたくないものを抱きしめた。陽彩の肩は小刻みに震え、どんな顔をしているのか、想像したくなかった。
「後ろからだったか」
「……すみません」
「いいよ、じゃあ離れて」
陽彩の声は淡々としていて、すぐに離れた。虹介は陽彩を元の位置に戻し、抱きしめる前と全く同じ場所に戻り、時間が戻ったように思えた。
「迷惑でしたよね」
「分かっててやったんじゃないの?」
「まぁ、すみません」
「まぁいいのよ。ただこれで私のことはきっぱり忘れなさい」
「……どうしてですか?」
虹介の質問を聞いた陽彩は深く息を吸った。
「私のために大会を頑張ろうっていう考えも捨てなさい」と陽彩は言った。「今後も永く生きるんだから、中途半端な気持ちは捨てて次の光を見なさい」
「忘れるなんて無理ですよ。初めて優しくしてもらった先輩で、間違いなく誰よりも思い出に残る才色兼備な女性です」
「忘れて、いいから忘れなさい」と陽彩は机を見つめながら言う。
「それは僕が決めることですよ。お願いですから弱くならないでください」
「弱くなってなんかないよ。むしろ強くなってるよ。あと、さっき言ったこと覚えてる?」
「……そういうこと言われるとむしろつらくなるってやつですか?」
「分かってるじゃん。じゃあやめて」
僕の人生経験ではなんて声を掛ければいいのか、なにをしてあげればいいのか全く分からない。
「これだけは言いたくなかったけど」と陽彩は言った。「私は全ての思い出をここに置いてくるつもりでここに来たの。これからどんな情報が私のもとに来ようとも全てはじくつもり。これからみんなが優勝しようが最下位になろうが、もう全部を捨てるつもりでここに来たの。退部届も書いてもらってるから」
「全部って、どこまで……ですか?」
「全部は全部よ。私が初めてここに来た思い出も、ここで先輩に告白された思い出も、新人戦で優勝した思い出も、ここで色んなこと教えて教わった思い出も、全部よ。皆の顔も忘れるくらい」
「なんでそうする必要があるんですか……?」
「悔いて死んだらこの部室に幽霊として来ちゃうかもしれないからね」
陽彩はそう言うと、ゆっくりこちらを向き、愁いな瞳と視線が合った。
「だから虹介くんも私との思い出を全部消してね。どうせ終わるんだから躊躇わないで、”はい”か”分かりました”で答えて」
こんなの答えたくないが、今の陽彩さんに何を言っても頑なに拒むだろう。
虹介は、陽彩を初めて見たあの日から今日までを追想した。
初めて見たときは圧倒的に光り輝いていて、初めて部室に来たときは温かく接してくれて、初めて大会を迎えるときは親身になって寄り添ってくれた。どこを切り取っても良いイメージの陽彩さんしかいなかった。
こんな思い出を捨てるのは、一等の宝くじを捨てるより難しい。陽彩さんにこんな運命を歩ませる病気は恨んでも恨み切れない。
終わりを迎える人からの質問に躊躇うのは当然だろう。残り僅かな時間を大切に過ごすより、陽彩さんは皆が悲しまないような選択を選んでいる。
焦燥感はあらゆる方向から襲ってくる。頭は熱を帯びて正常な判断ができない状態になっていた。
虹介は沼にはまったような足を動かして重厚な窓を開け、茹った頭を冷却する。
……僕はなにに焦っている? 陽彩さんが明日に死ぬなんて考えたのは僕の勝手な思慮だ。改めて考えると、陽彩さんは今月いっぱいまでは生きる予定だ。一生の別れが迫っているから躊躇って立ち止まっているわけではない。
意地でも冥土の土産を持って行ってもらうんだ。もし幽霊になってくれたら、それはそれで現れてほしい。
いくら迷惑だと言われようが——僕が初めて好きになった人を大切にしたい。
胸の奥底から湧き出る衝動は、煌びやかな終わりを目指して虹介を奮い立たせる。虹介は左胸を渾身の力で殴り、振り返って陽彩の顔を見て、「……分かりました」と答えた。
答えたときには流したことのない涙を流していた。
「ありがとう。もう伝え残したことはないから、あとは一人にさせて」
陽彩は虹介が開けた窓の先にある闇のような夜空を見ていた。その姿にかける言葉は一切なかった。
虹介はカバンを背負いなおし、部室を後にした。部室を出た瞬間、なんとも言えない虚しさが襲いかかった。
電気が失われた校舎は廃校のようだった。靴を履きなおして未練なく振り返ることなく歩いた。
もう一度、あのときの笑顔を取り戻すつもりで明日出発する全国大会を死に物狂いで優勝しよう、と胸に刻んだ。




